作手(つくで)のヤマトタケル伝承

善福寺縁起に残るヤマトタケル伝説
愛知県東部山地の山間にある静かな農村地帯、新城市作手地区(旧作手村)には白鳥神社が十一社存在しています。これは以前白鳥地区のあった豊川市の2社や岡崎市の2社と比較しても異常に多い数であることがわかります。その中でも特に善福寺とその鎮守であった白鳥神社には不思議な伝承が残っています。

善福寺
宗派:真言宗御室派
所在地:新城市作手清岳中ノ坊29
由来:金輪山善福寺は推古天皇時代(飛鳥時代)開山という作手最古の名刹。 長い石段の続く参道には仁王門があり、高さ2.9m の金剛力士像は運慶の作と伝えられています。
 
入り口には仁王門があります。
 
立派な山門となっています。
 
 
善福寺の仁王門には、高さ2㍍80㌢の金剛力士像があります。鎌倉時代の名仏師・運慶の作と伝えられています。
 
そこから更に上ると本堂がありました。
本尊は十一面観世音菩薩だそうです。
 
横手には観音様もいらっしゃいました。

『善福寺縁起』
 「当山の建立以前、第十二景行天皇の御代、日本武尊が東方に住み蝦夷(えびす)征服に向かう途中この地に至り、眺めてみるに八方峯高く、中は平坦で草樹が生い繁り、深山幽谷の地に郷民の開いた広大な水田を見て、田原の郷と名づけた。
 その後数百年の年月を経て、第三四代推古天皇の御代に聖徳太子が行幸あって、自ら日本武尊の神像ならびに諸神の尊体を刻彫し宮内に安置して白鳥大明神と崇め、また御仏の像を刻彫してこの寺を開き、山号はこの国の三水を形取り、当郷田原と合わせ田源山善福寺と命名した。従って白鳥神社は当郷の産山であり、この寺の鎮守でもある。云々」

白鳥神社(古宮白鳥神社)
祭神:日本武尊ほか
在地:愛知県新城市作手大字白鳥字宮下7

 
階段を上ると本殿があります。
 
本殿の横には愛らしい狛犬が鎮座していました。
 
  
 2社の像は、和犬風で、尾が長く、吽像は穏やかだが阿像には歯牙がある。つまりこの2匹は和風のオオカミらしいです。
 
そういえばこの古宮白鳥神社の横を抜けると戦国時代の古宮城があります。かの武田二十四将の一人馬場美濃守信春が築城したそうです。ココ作手を押さえられた家康はかなりの脅威だったでしょうね。だって1日で岡崎まで軍勢を送れる場所なんですから。

 他にも様々なところに白鳥神社があります。
 
  これは中河内にある白鳥神社です。
  
 このようなうっそうとした森のなかに鎮座しています。
 

 古代史研究家芦野泉著『作手白鳥神社と初期農耕』(「東アジアの古代文化47号」(大和書房)1986) によると
 「種々の白鳥伝承は、初期農耕における穀霊信仰と、深くかかわりを持っている。稲刈りの終わったころから翌年の春まで、日本列島には多数の渡り鳥が飛来して、大量の糞を水田に残した。( ※渡り鳥は鶴や白鳥やカモ類、昔は湿田だったため冬も水がありました。)鳥の糞には窒素、リン酸、カリの三要素をはじめ多くの養分が含まれるため、この糞による水稲の増収効果は著しいものがあった。渡り鳥の多く集まる水田と、集まらない水田の間で、コメの収穫量にも差異がみられたことから、古代農民は、渡り鳥を神の使いあるいは神そのものとして崇めるようになったと想像される。これが白鳥信仰の源流であろう。云々」
 また「延喜式神名帳には白鳥神社一社が記載されていて、このことから見ても創始は九世紀を遡り、相当古代からの存在が創造される。」と記述してあります。

豊後風土記に著される『朝日長者伝説』
 その昔、九重高原の中心部に、浅井長治という長者が住んでいた。この人は別名『朝日長者』とも呼ばれ、後千町・前千町の美田を幾千人もの使用人に耕作させ、贅沢三昧の生活をしていた。ある時、祝いの席で、長者は鏡餅を的に弓矢を射る遊びを思いついて、自ら矢を放った。すると鏡餅の的は白い鳥に変わり、南の彼方へ飛び去ってしまった。これを期に、この土地ではコメがまったくとれなくなって、長者一族は没落し、人々は天罰とうわさした。そして千町の美田は、不毛の荒野と変わり果ててしまった。

この伝承は何を表しているのでしょうか?一説によると、(1) 水田でよくコメが穫(と)れた ← 渡り鳥の飛来が多く、この鳥が糞(ふん)としてリン酸などの養分を供給した、(2) 鏡餅の的に矢を射かけると白鳥となって逃げた ← 食用として野鳥を乱獲した、(3) 急にコメが穫れなくなった ← 野鳥の飛来が激減して水稲のリン酸欠乏が顕著になった。と説明されています。これこそまさに白鳥の由来とも考えられる伝承ではないのでしょうか?

 つまり、作手の白鳥信仰はヤマトタケルとのつながりではなくむしろ初期農耕における信仰の表れが現在にも残っているものとして考えられるのです。そう考えるとヤマトタケルありきの白鳥という地名由来説に異論を唱えることができるのではないかと考えます。また作手の地名の由来としてはもともとは「津の久手」を意味し、愛知の地名に多い「久手(湿地)」の一種と考えられます。現在は作手は一面の水田地帯ですが、かつては泥炭が堆積した湿地帯であったため、低温・還元条件により鳥の糞によるリン酸の肥効が顕著であったと考えられるのです。つまり、白鳥の飛来していた水田では米の収穫が多かったため、人々は白鳥に感謝し、神と崇めてきたのではないかと考えるのです。

 以上のことから伝承によると古来,作手高原に古代には白鳥が飛来していたようです。その白鳥の糞によってお米がたくさんとれるようになりました。このようなことから白鳥への恩恵に感謝して十一か所(全国最多)もの白鳥神社が建立されたということです。また驚いたことに作手,岐阜の土岐,七宗,白鳥の各白鳥神社は,直線上に位置しています。このことからも,古代白鳥が日本海を線上に往来していたことがわかるといわれています。