昨日は、伏見城(指月城)発掘調査の現地説明会に行ってきました。
 午後1時30分開始ということで、現地には20分程早めに着いたのですが、何と長蛇の列。今朝の朝刊によると、2200人もの人が参加したそうです。

 さて、現場の桃山丘陵は、古代以来天皇家や藤原氏の別荘地となっており、「指月の地」とも称されています。平等院を建立した藤原頼通の子、橘俊綱が平安時代後期に建てた「伏見山荘」の推定地であり、その後「伏見殿」と称する御所としても利用されていたとのこと。
 現在は、公団の団地の一部を売却したマンション建設予定地となっています。

 今回の調査で、敷地の東側に南北方向に並ぶ石垣と瓦や陶磁器などが出土されました。

 石垣は、花崗岩や堆積岩の自然石を積み上げた、60度の法を付け間詰石が多く使用され、石垣の裏側に詰められている石に比較的大きなものが使われていました。石材の種類、大きさ、組み方、仕上がりなどは、聚楽第や、秀吉期の大阪城跡の石垣の特徴を有しているとのこと。

 また、この石垣の堀から多数の金箔を含んだ大量の瓦などが出土されました。その金箔瓦の中には五七の桐文や菊文も含まれていました。これは、天下人である信長や秀吉だけが使用を許可されたこと、堀の出土物から埋設年代が16世紀末頃とみられることから、指月城と直接関連する遺構であると判断されるとのことで、調査結果として、「指月城」の石垣と堀と推定されました。

 調査は、引き続き7月末まで行われるそうで、再度公開の機会があるかもしれません。




 つづいて、四海唱導 妙顕寺へ。
 開祖、日像は、日蓮の弟子、日郎の弟で孫弟子にあたる。こちらは、尾形光琳・乾山が塔頭「泉妙院」の檀信徒。



 龍華飛翔の庭。



 ネスカフェのTVCMに使われた坪庭。


 光琳曲水の庭では、梅が咲きかけていました。


 こちらでは、やはり尾形光琳の「松竹梅図」三幅が印象的。我が家の床の間にさりげなく飾りたい。

 そして、細かい文字で書かれたお経!!虫眼鏡と一緒に展示されていましたが、それでも文字が見えない!!拡大コピーも展示されていて、初めて文字が読めますが、とにかく細かい!!だれが書いたんや?って話ですが、あれ?だれだっけ?
 どんなお経やったっけ?すっかり六万九千文字という字数と細かさに気をとられて、肝心なところを全て忘れてしまいました…。

 京都には「本○寺」や「妙○寺」など良く似た名前の日蓮宗のお寺が多い!!「日○上人」も多すぎる!!今回の拝観をきっかけに、ちょっとは整理しやすくなるかなぁ~?
 昨日は、本法寺と妙顕寺へ行ってきました。

 まずは、私、現在安倍龍太郎作「等伯」を読んでいるため、関心が出てきた本法寺へ。


 堀川通りの方から入り、まず社務所の方から本阿弥光悦が造ったとされる「巴の庭」へ。<参考>
 室町期の書院風枯山水の影響を残しているとのこと。案内して頂いたので、三つの巴が、どこにあるのか、明確に分かりましたが、案内がないと探すのに大変かも。また、庭の中央の、二つの半円の組み合わせで出来た円形の石が「日」。その右側の蓮の花型をかたどった蓮池(そのまんま)とで「日蓮」を表しているとのこと。

 「十(つなし)の庭」(ひとつ、ふたつ…ここのつ、とう。と10だけつがつかないので「つなし」と呼ぶ)を見て、次に宝物館へ。長谷川等伯によって書かれた「涅槃図」のレプリカを拝見。すべて和紙で出来ているとのこと。等伯は、自身の姿をこの涅槃図の中段、左手に描いています。この涅槃図、珍しく「猫」が描かれているとの説明がありましたが、どこかで聞いたような…。

 すぐには思い出せないのが、まだまだ自分のものになっていない証拠ですが、帰って調べたら「真如堂」の涅槃図にも描かれていました。意外と、猫が描かれている涅槃図は、多いようです。

 宝物館では、この冬の非公開文化財特別拝観で、本阿弥光悦の「花唐草螺鈿経箱」や光悦が作ったとされる「赤楽茶碗」「赤楽茶碗(馬上杯)」「翁面」も見ることが出来ます。

 順番は逆ですが、正面入り口へと向かいます。

 開祖の日親が、一条戻橋でこの石に傘を立て、辻説法を行ったという「説法石?」。


 長谷川等伯像。


 仁王門。


 正面を出ると「今日庵」と「不審菴」。


 今日は、初午ということで伏見稲荷大社へ行ってきました。


 本殿へ参拝して、その後「志るしの杉」(「しるしの杉」には「志るしの杉」と刻印がありました)をいただきました。
「志るしの杉」は、平安時代中期以降になると、紀州の熊野詣が盛んとなり、その往き帰りには、必ず稲荷社に参詣するのが習わしとなっていて、その際に、稲荷社の杉の小枝である「しるしの杉」をいただいて、身体のどこかにつけることが一般化していたとのこと。
 私は、身に付けて帰りませんでしたが、帰宅後神棚に飾りました。久しく枯れなかったら願いが叶うそうです。庭に植えた方が良いのかな?


 お稲荷さんを後にして、伏見人形の窯元「丹嘉」さんへ。


 何を隠そう私、理由あって昨年…。そこで、財をなし火難を逃れようと、一番小さい布袋さんを購入しました。何とか七年間続けたいと思います。


 更に、近くの極楽寺さんへ。


 この極楽寺さんに、十王堂(普通の家みたい)がありまして、この堂内のお二階にある押入れのような壇(失礼ですが、そんな感じなんです)に、閻魔さまを最上段の中央に各王が並べられています。そして、この十王像は、伏見人形の原型ではないかと言われています。
写真はこちらを参照→ブログ「伏見 花 311」
 お寺には、ちょっと入りにくい雰囲気ですが、インターフォンでお願いしたら親切な奥さんが対応してくださいました。また、本堂の阿弥陀如来像、平産薬師如来もなかなかの仏像でした。(法性寺の塔頭であったとのこと)

 やっぱり、京都は奥深い!!
 御無沙汰しています。久し振りの更新です。
まずは、報告。去年12月14日に実施されました、第11回京都検定1級の結果通知が到着しました。今回で2回目の挑戦。結果は、何と40点…。合格まであと80点でした。ガクッ…。
 受験中に、今回も駄目だとは認識してましたから、予想してましたが、やはり残念。
 次回、勉強がしっかりできたら、また受験します。

 で、本日は早速、円勝寺跡・成勝寺跡・岡崎遺跡発掘調査現地説明会に参加してきました。
今回、京都市美術館再整備事業に伴うもので、平安時代初期に造営された円勝寺と成勝寺の境界と北側の境界が分かりました。これにより、円勝寺は東西1町規模であることが明らかになったとのこと。また、二条大路末の道路幅は約30mと判明。平安京の大路規模であったとわかりました。
 この二条大路をはさんで北側には当時「鵺塚」が既ににあったと思われ、以前、このブログでも記載した通り、昭和30年まで残っていたらしいです。
 
 藤原定家の「明月記」では、法勝寺への御幸でさえ、「鵺塚」を避けて通る様子が書かれているらしいです。

 この後、近くの「頂妙寺」へ。俵屋宗達ゆかりの寺で、京の冬の旅非公開文化財特別公開中。「牛図」、「京都十六本山会合文書箱」などを拝見してきました。また、京都の仁王門通りは、ここの仁王門が由来とのこと。

 今年は琳派400年。
 本阿弥光悦、俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一、神坂雪佳と続く系譜とそれぞれの方々の作品を多く見ていきたいですね。

 今年こそ、1級合格目指して楽しく、コツコツ勉強するぞ!!


 昨日は、京カレッジ「京都力養成コース」の最終日でした。

 「下嵯峨薪炭商「上木屋」四百年の歴史」、「秀吉と京都-聚楽第復元試論-」、「嵯峨・嵐山の小倉百人一首ゆかりの地を訪ねて」の3つの講義を受講しました。


 「聚楽第」については、今年になって埋蔵文化財の現地調査の説明会に行っていたこともあり、周辺をもう少し歩いてみたいと言う思いが、更に強くなりました。


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飛雲閣 は、建築的に聚楽第の遺構とは言えない説があるとか、でも建築は時代、風土で変化するので一概に言えないなどの部分が印象に残りました。


 「小倉百人一首」は、私が和歌や踊りが苦手なのですが、「百人秀歌」は101首だったことや、後鳥羽院、順徳院が外されたのは、承久の乱で流された後でむあったこと、小倉色紙の形から冊子にまとめたのは藤原定家ではなく息子の為家ではないか?日本人の中に百人一首がいかに浸透していたかなどを教えていただきました。最近では五色百人一首という五色に分けられたものが流行っているらしいです。


 まゆげの京都検定ブログ 「上木屋」さんですが、薪炭商であった小山家が秀吉からもらった屋号だそうで、考古学が専門の鈴木久男先生が、散歩中の偶然の出会いから小山家の歴史を掘り起こしていく過程と、今度京都産業大学のむすびわざ館で開催される企画展に至るまでの経緯や、小山家の蔵に眠っていた薪炭商ならではの道具や生活道具の写真を紹介いただきました。

 中でも、「虫かご」は小さい竹細工で必見だそうです。

 (何故か開催案内のチラシには掲載されていない…。不思議…。)


 4週間にわたって開催された講義ですが、非常勤研究員の方々のこだわりや京都が好きという思い、情熱が本当に伝わってきました。来年は伏見をテーマに予定されているそうで、是非参加してみたいと思います。受講生に選んでもらわないといけませんが…。


 角倉了以没後400年も少し意識して、嵯峨・嵐山地域をテーマに実施されている「京カレッジ」の公開講座に参加しています。


  先週は、「絵図から見た嵯峨野の歴史」、「嵯峨の材木商福田屋理兵衛と幕末京都」を学びました。

 その後、方広寺の大仏殿跡の説明会に参加。

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 翌日は、宇治市の「恵心院」の非公開文化財を見学など、珍しく活動的になってます。
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 そして、昨日は、お楽しみのフィールドワーク!!「嵯峨・嵐山の名刹を訪ねる」に参加して、鹿王院、曇華院、臨川寺を見学。建物、庭の樹木にも注目して、普段見ることが出来ない文化財を拝見しました。更に、折角嵐山に来たのだからと、清凉寺まで足を延ばしました。もう、へろへろです。


 と言うことで、とりあえず写真のみ掲載。


嵯峨嵐山駅集合

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鹿王院
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曇華院
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臨川寺
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今回、山門の形式「薬医(矢喰)門」「四脚門」については、自分の物になったかな・・・?


清凉寺
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美男子にあやかりたい。


昨日は、京カレッジ「京都力養成コース」の講義を聴きに、壬生にある京都産業大学むすびわざ館に行ってきました。
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(京都産業大学ホームページより)


 京都産業大学の先生方と京都検定一級の合格者でもある上席特別客員研究員の方々による、嵯峨・嵐山に関係する講義フィールドワークで構成されています。

 全4日コースの1日目。

 特に印象に残ったのは、上席特別客員研究員である上林ひろえさんによる「江戸時代からの保津川下り」でした。


 平安時代以前から、木材を運搬するための筏下りはあったそうですが、観光舟の運航が始まったのは明治30年ごろだそうです。


 しかし、それより16年前の明治14年11月に、英国のヴィクトリア女王の孫であるアルバート・ヴィクターとジョージ兄弟が来日し、アーネスト・サトウの案内のもと、保津川下りを体験されたそうです。

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(保津川遊船企業組合ホームページより )


 と言うことは、少なくとも京都府と宮内省はその安全性を認めていたといえるのではないか?一朝一夕で、その観光が突然実施されるものではないとの思いから、江戸時代から観光客を乗せた川下りが存在したのではないか?と研究を始められたそうです。

 結果、江戸時代の文献を調査し荷舟で、花を楽しんで下ったなどの、いくつかの文章をみつけられたとのこと。

 さて、保津川下りを広めたのは、明治14年にアーネスト・サトウが記した海外のガイドブックには、詳細な保津川下りの記述があるにも関わらず、日本のガイ゛ドブックには、その記載がなかったとのこと。

 大きめの舟を貸切るのに3円という大金が必要であったことが、大きな要素だったみたいですが、その後英国王族の方々は、次々と保津川下りを経験されたとか。

 ヨーロッパにはない、日本の急流がスリルがあり、船頭さんの技術の素晴らしさと景色が、好評だったようです。


 今では、警備の関係から王族の保津川下りは難しいようですが、今でも地元亀岡の保津小学校と英国王室では、手紙の交流が続いているそうです。

(京都新聞「英女王から保津小に返信 児童ら『奇跡』」 )



 昨日、壬生に行くのにJR山陰線に乗ったのですが、今でも保津川下りのガイドブックを持った外国の観光客の方が多く乗っておられました。


 私も、一度は「保津川下り」も経験しなければ…。 

人混みが苦手な私ですが、会社の元上司に刺激され、初めて送り火を見に行きました。

ねらいは「妙」。この一文字を間近で見るため、松ヶ崎へ。

目の前に「妙」の文字が見える、なかなかいい場所を確保し、その時を待ちます。


点火一分前。

動画で点灯を撮影しようと、携帯(デジカメが故障中)を準備していると、「わっー」と歓声が…。


そう、その通り!!


ふと顔を上げると、すでに見事に「妙」の文字が・・・。


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私はてっきり、徐々に点火して、時間をかけて一文字が点火されるものと思っていたのですが。

一瞬でした。

一瞬で「妙」の文字が浮かびあがってました。


しばらくすると左手に「舟形」が浮かびあがりました。

これは、嬉しい誤算。


しかし、ちょっと場所をずらせば、「大」も見えていたようです。


初めての「送り火」でした。


でも、もっといい場所が京都市内にはあるんでしょうね。

 昨日は、北野天満宮の御土居発掘調査現地説明会へ行ってきました。

 天下人となった秀吉が、聚楽第、方広寺に続いて造営したのが御土居。京都の街を土塁と堀によって23kmに亘って囲んだもので、外敵から守る役割の他に、鴨川や紙屋川の洪水から街を守る目的として、僅か数ヶ月で築かれました。


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 最近、紙屋川で水害があったときは、何であんな小さい川で?と思ったのですが、昔から水害に苦しんでいたのですね。


 今回の調査で、新たに3点確認されたとのこと。

1.切石組暗渠の東側の取水口の検出により、この暗渠の規模と構造。

2.この調査地の御土居の規模と構築方法。

3.北野天満宮と平野神社を結ぶために、後に開削された道路の検出。


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1.暗渠の排水口は、以前より露出していたのですが、その取り入口が明らかになったことで、取入口から排出口の距離が、19.3mと判明。暗渠は、土塁を盛り上げた後に、掘り込んで石組みを設置して、再び埋め戻したことも分かったとのこと。造成された年代までは判明しなかったのですが、天神さんを水害から守るために、秀吉か江戸幕府が造成したもののようです。


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2.紙屋川の東側段丘に構築され、土塁の基底部幅が約18m、盛土の高さは3m、紙屋川から最上部までが約10mにもなるとのことです。


3.「京都惣曲輪御土居絵図」に描かれる切通しの道路。御土居と紙屋川の西側にある平野神社周辺の住民が、生活利便性向上のために奉行所に願い出て、土塁を掘削して設けた道路の跡が検出され、道路幅4mのかなりの急こう配で、階段状になっていた可能性もあることがわかったようです。


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 今回の調査箇所の少し北側に、御土居がそのまま残っているところがあるそうです。帰りに寄ろうかと思ったのですが、暑さであきらめ、やきもちだけ買って、平野神社に寄ってから帰ってきました。


 改めて、御土居の大きさを実感し、秀吉の力と発想力に驚かされた一日となりました。