世にも恐ろしいフランス革命という標題はいったん、終わりますが、フランス革命が終わっているわけではありません。まだまだ続いています。一説によれば、現在もなお、継続中ということなので、こういうことから、フランスの歴史は摩訶不思議の気がするのです。フランス革命以降、不安定な状態が続いているフランス史において、それが前提で、現在の日常を送っているという感じです。ですから、よく暴動が起きますし、その度に、いつ革命が起きても不思議ではないという緊張感はあります。そうなると、政治家の方も国民の為に真面目に取り組む姿勢が出てきます。どこかの東方の国ように政治家の好き勝手に何でもありというわけにはいかないようです。とはいえ、フランスと言えば、ナポレオンと思うぐらい、日本人の中では有名人ですので、触れないわけにはいきません。とうとうナポレオンの登場ですが、まずは生い立ちからお話していこうと思います。
我が日本では、世界で二番目にフランス革命に詳しい国であると、以前お話ししました。だからナポレオン戦争もオマケで、やはり二番目に詳しい。フランス人からしたら、『ほかにもいろいろあるんだけど…』でしょうね。さて、ロベスピエールら過激派の狂気から、フランスに秩序取り戻したのがナポレオンです。駆け足でこの有名人の半生を紹介しましょう。1769年、コルシカ生まれ。コルシカはフランスがオスマン・トルコの力を利用してイタリアから我がものにしましたが、文化的にはイタリアです。ナポレオンは、コルシカの貴族の生まれでした。ですから、終生、『田舎者よ、成り上がり者よ』と差別されます。ナポレオンは1日18時間仕事をしていたとも、3時間休めば回復したとも、要するに、典型的なワーカホリックでした。睡眠時間3時間で働いていたといった伝説はナポレオンの伝記にはよく出てきますが、結構、昼寝の話も出てきます。『ナポレオン睡眠』は、真に受けて真似しない方がいいと思います。1785年、兵学校を58人中、42番の成績で卒業します。卒業時の年齢が16歳で、事実上の飛び級だったからだと、ナポレオンは死ぬまで言い訳をしていました。しかし、『もっと年少のフェリッポーは41番だったじゃないか!』と言われ続けています。ちなみに、そのフェリッポー君、フルネームは不明で、亡命貴族として戦い、最終階級は大佐だったそうです。日本の公務員の世界は大学卒業時の成績が一生ついて回ると評判ですが、フランスの比ではありません。ナポレオンが皇帝になっても、こうやって永久に罵られるのですから。これは、ナポレオンの伝記で書いていないものがないほど必ず引用されるエピソードです。日本の少年少女向け伝記には定番のエピソードが二つあります。一つは、雪合戦の時、仲間を二隊に分け、一隊が敵の攻撃を防いでいるうちに、別の一隊が後方で雪玉をつくり、武器となる雪玉がたまったところで、総反撃に出て大勝利、という軍事的才能の片りんを示す話。もう一つは、夕食のパンを買うお金しかなかったのに、我慢して本を買って読んでいた話。軍人を志望する貧乏貴族の息子が、『いつか世の中を見返してやる!』と決意する場面です。飛び級で卒業できるぐらいですから、学校の勉強をしなかったわけではないのでしょうが、古典と戦史ばかり読んでいたとも伝わります。また、数学の成績だけは非常に良かったことも、優れた軍人の資質として強調されます。ナポレオンの時代から近い陸軍の英雄と言えば、7年戦争で活躍したプロシアのフリードリッヒ大王です。素早い攻勢と軽装、兵力集中をナポレオンは徹底研究しました。ちなみに7年戦争では『略奪親父』とあだ名されたリシュリュー将軍という、かのリシュリューの甥っ子がいたのですが、ナポレオンの研究対象になったとは思えません。なぜなら、軍事合理性とか難しいことを言わずとも、略奪なぞしていると進撃速度が遅くなるのは当たり前だからです。
フランス革命勃発後、ナポレオンはロベスピエールに共鳴して政治活動に参加し、一時期は投獄されたりもします。しかし、すぐに革命政府に重用され、イギリス軍を撃退するということをしています。度を超えた恐怖政治に恐怖を抱いていた人々が結集し、ロベスピエール一派を一網打尽にして壊滅させます。その後は、5人の総裁による集団指導体制とされました。ナポレオンの立場は一時期あやうくなりましたが、王党派の蜂起を手早く鎮圧するなど、その軍事的才覚が認められ、国内軍の最高司令官に上りつめます。この時、満26歳。動乱期特有の大出世です。1796年、イタリア遠征に赴きます。同じ年、結婚しました。相手の名前はジョセフィーヌ。6歳年上で上司のポール・バラスの愛人でした。ナポレオンが熱烈にラブコールをして結婚にこぎつけましたが、ジョセフィーヌは『頼まれたから仕方なく結婚してやる』『結婚しても恋愛とそれに付随する行為は止めない』という態度です。どこからツッコミを入れたらよいかわからないぐらい、ど~しようもない話です。ついでに言うと、ポール・バラスは『悪徳の士』と呼ばれた政治家で、ことあるごとに政変やクーデターを企てる男。警察大臣のジョセフ・フーシェを味方に引き込んで数々の陰謀を成功させますが、最後はフーシェに捨てられました。クーデターで追われた後は、ナポレオン夫妻に対する誹謗中傷を繰り返し、追放されてしまいます。帝政崩壊後に帰国しましたが、警察の監視下で贅沢な余生を過ごしました。ますます、どうしようもない話でした。
ナポレオンは、ジョセフィーヌの浮気に悩まされ続けます。彼女、やたらと社交界や外交界に人脈があるので重宝したというだけではなく、惚れた弱みだったようです。1798年のエジプト遠征の最中に妻の浮気を知り、遂に離婚を決意して弟に手続き依頼するのですが、その手紙がイギリスにインターセプトされ、新聞が暴露記事にしてしまうという、これ以上ないほどの辱めを受けたりしています。ちなみに、ナポレオンのジョセフィーヌへの手紙は、これ以上ないほど気持ち悪く、変質的です。たとえば、『この浮気性女め!百万回のキスでやっつけてやる!』といった具合に…二人の関係だけ先取りしていくと、ジョセフィーヌも最初は年下旦那をいいように振り回していたのですが、だんだんナポレオンの浮気にヤキモチを焼くようになります。何よりもつらかったのは子を産めずに離婚されてしまったことです。ナポレオンは自分で知らせず、よりによってフーシェを使ったのですが、ジョセフィーヌは泣き崩れてしまいました。ところがナポレオンが政略結婚でハプスブルク家の娘を皇后にしてからも、二人の関係は続き、後妻が嫉妬するようなイチャツキぶりでした。誰もが思った。だったら、別れなければ良いのに!ちなみにジョセフィーヌの最期の言葉は『ボナパルト』、ナポレオンの最期の言葉は『ジョセフィーヌでした。何だか素直に祝福できない複雑な愛の形です。
ナポレオンの進撃はまだまだ続きます。それは次回に。