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Audrey Hepburn


Audrey Hepburn


去年末の2006年12月5日、英国オークションハウス"クリスティーズ"が行なった競売で、「ティファニーで朝食を」でオードリー・ヘップバーン着用の黒いドレスが約1億円(467,200ポンド)で落札された。


このドレスを落札したのはフランスのジバンシィ(Givenchy)社。


そして、売上金はインドの恵まれない子供たちのための慈善活動の資金となった。


実はこのドレスは1961年の映画「ティファニーで朝食を」の為に、ジバンシィの創始者であるユベール・ド・ジバンシィ氏が直々に制作した物。


ユベール・ド・ジバンシィ氏が友人のインドの慈善団体創立者にこのドレスを寄付し、その友人がチャリティの為に出品したって訳。


女優オードリー・ヘップバーンが着用したことで話題となったドレスは、最終的にその作品を生み出した場所に戻ることとなった。


話がこんがらがりそうだが、ジバンシィ社はチャリティに貢献をしながら自社の歴史的遺産を保護する事ができたんだ。


オードリー・ヘップバーンと、ファッションデザイナーのユベール・ド・ジバンシィの関係は有名な話。


「ティファニーで朝食を」の他にも、「麗しのサブリナ」や「シャレード」、「おしゃれ泥棒」など数多くの衣装をジバンシィが手がけてきた。


ジバンシィにとってのオードリー・ヘップバーンは、理想の女性像を体現した最高のモデルであり、彼の想像力を刺激するためのあらゆる魅力を彼女は備えていたのだ。


ハリウッドスターとしては胸の薄い、スレンダーで目の大きな少年のようだった彼女のコンプレックスを逆手に取り、新しいファッションスタイルを次々と提案していった。


美しく、可愛らしく、気品があって世界中の誰からも愛された、"ハリウッドの妖精"オードリー・ヘップバーン。


1954年のメジャー映画初主演作「ローマの休日」でいきなりオスカーを受賞。


Audrey Hepburn

優雅で気品にあふれ、そしてこの上なく愛らしく無邪気なアン王女は、オードリーの魅力そのものだ。


この映画で一躍人気女優となり、彼女のファッションやヘア・スタイルも世界中で大流行する。


いいよね「ローマの休日」、もう何十回も観ているが全然飽きない。


1954年の「麗しのサブリナ」では恋に悩む、もう少し洗練された大人の表情が現れる。


Audrey Hepburn

"サブリナパンツ"、実にキュートだ。


「ティファニーで朝食を」ではニューヨークを舞台に都会的な女性を演じている。


ギターを弾きながら歌う"ムーンリバー"は実に切なく、心に響く。


1967年の映画「暗くなるまで待って」では盲目の役を見事に演じ、テンポのいいスリル感を倍増させている。


そして、1989年スティーブン・スピルバーグの「オールウェイズ」を最後に映画界を引退。


晩年はユニセフ親善大使に就任し、インドやソマリア等世界各地でマザー・テレサのように貧しい人のための活動をおこなう。


生涯を通じて、人を愛する心「愛は与える物」という信念を貫いたドワイルドな女性、オードリー・ヘップバーン。


これからも彼女は出演映画の中で、永遠に輝き続けるだろう。


ところで、1962年にマリリン・モンローがジョン・F・ケネディの誕生日に「Happy Birthday♪」を歌ったのはあまりにも有名な話だが、実は翌年にはオードリー・ヘップバーンも誕生パーティーに招待され「Happy Birthday,Dear Jack♪」と歌ったそうだ。


知ってた?


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Hugh Hefner

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「ヒュー・ヘフナー」…この名前ご存知だろうか?

あの有名な「プレイボーイ・マガジン」を一代にして世界最大部数の男性誌に成長させた男だ。

創刊当時から、業界からは異端児扱いされ、コンサバティウ゛だった社会からは悪としてバッシングされたコトも少なくなかった…

しかし、頑なに性の自由を主張して戦い、勝利し、“プレイボーイ王国”という名の大帝国を築き上げた。

1953年、雑誌のコピーライターだった彼は、約8000ドルの資金をかき集めてプレイボーイ・マガジンを創刊。

Hugh Hefner

資金不足のために2号目以降の見通しは全く立っていなかったが、目玉にした“マリリン・モンロー"の幻のヌード写真が大当たりし、創刊号は5万部を完売。

漫画家のアーブ・ミラーが描いた野うさぎのイラストと、アートディレクターのアート・ポールが手掛けた「ラビットヘッド(バニーマーク)」によって雑誌はキャラクタライズされ、男性ライフスタイル誌のマーケットに新風を注ぎ込んだ。

実は創刊前、ヘフナーは雑誌のタイトルを「スタッグ・パーティー」という名に決めていたそう。

ところが「スタッグ(雄鹿)」という名の別の雑誌に商標侵害を指摘されたため、やむなく「PLAYBOY」というタイトルに変更した。

当初考えていた雄鹿のマスコットを急遽アーブ・ミラーが野うさぎに描き変え、約1時間半でアート・ポールが「ラビットヘッド」をデザインしたというワケだ。

そして「ラビットヘッド」は、ヘフナーをアメリカ史上最強の雑誌編集長へと押し上げた。

現在も毎月19ケ国で発売され、世界で最も売れている男性ライフスタイル誌としての地位を不動のモノにしている。

ちょっとHな雑誌と想像しがちな諸君も多いと思うが、男のリアルなライフスタイルを徹底的に提案し、質の高いインタビューとプレイメイトのグラビアを中心にセンセーショナルなページ作りをしている実は教養深い雑誌なんだ。

これを半世紀、毎月かかさず実行してきた。

世代も性別も飛び越えて人気を掴んだラビットヘッド…

そんなドワイルドな男ヒュー・ヘフナーの“うさぎ”は今も生き続けている。

Hugh Hefner

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Agnes Nalani Lum

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dowild-ha☆

今日は夏がとっても似合うハワイ・オアフ島出身の女性「アグネス・ラム」のお話しをしよう。

とは言っても、30代後半かそれ以上の年齢の諸君じゃないと、ちょっと知らないかな?(笑)

今で言う“リア・ディゾン"みたいな感じで、人気や影響力はその何倍もあった女性だ。

その昔、「11PM」に登場したハーフ系モデルにヤラれた70年代…

70年代後半から80年代にかけては「夏=小麦色の肌」という空気が蔓延していた。

その代表的な女性が「アグネス・ラム」だったろう。

'75年に初代クラリオン・ガールに選ばれた彼女は“アイランド・スマイル"と呼ばれた笑顔で世の男性たちを虜にした☆

「雨上がりのダウンタウン」など、たどたどしく舌足らずな歌声も、とってもキュートでサ♪

つぶらな瞳、日焼けした肌、豊かな胸(*^^*)(巨乳なんてコトバなかった時代だ)愛くるしいルックスで一世を風靡したもんだ。

アグネスといえば白いビキニが定番で、日焼けした小麦色の肌がビキニの白さをより強調していたのが、とても印象に残ってる。

まさに“女神=マーメイド"って感じかな☆

セクシーだけどイヤらしくない(マジで)健康的な姿が女性にも人気だったように思う。

アイドルと言えば歌手ってのが常識だった時代に、グラビアを中心とした活動を行ってた“元祖グラビアアイドル"という存在だ。

愛称は「ラムちゃん」、今この愛称というとマンガ「うる星やつら」(これも古い?)の“ラム"と間違えられてしまうが、あくまで元祖は彼女。

なんたって、「うる星やつら」の“ラム"の名前の由来はアグネスなんだから☆

ファーストネームが同名のアグネス・チャンと同じ渡辺プロダクション所属だったが、コレには何の因果関係もナシ。

…と、こぼれ話が2つ続いたね(笑)

もう10年も前になるが、1996年、久しぶりにブラウン管で見たアグネス…

ダイハツの車のCMに2人の息子と登場した。

結婚引退して太ったなんて噂もあったが、実際には人気絶頂期とほとんど変わらないプロポーションを披露していたなぁ…

当時に青春時代を送ったドワイルドな男性諸君の中には、今もなお、その記憶を引きずる者も多いのでは?

しかし…これからやってくるシーズンのサマーガールは男たちを強烈に魅了し、男たちは多大な“夏"を消費する(笑)

アグネス・ラムのチャーミングなクッキーフェイスにも、そんな“魔性の力"があったんだ。




追悼…「ZARD」 坂井泉水さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

dowild.s

Krispy Kreme Doughnuts

去年の年末くらいだったかな?


新宿を歩いていると、ピザの様な箱をショッピングバッグを持ち歩いている人をよく見かけてね。


何だろう?気になってそのビニール袋に描かれている、ロゴマーク(筆記体)を観察してみたんだ。



「Krispy Kreme Doughnuts」・・・。ドーナツ?


それにしては、大きい箱だな~!なんて興味深々だったよ(笑)


よくよくリサーチしてみると、2006年12月15日新宿駅南口「新宿サザンテラス」にオープンした日本1号店でいつも行列ができる程の人気だそうだ。


そんな人気って、どんなドワイルドなドーナツだよ?


ビール大好きの辛党としてはドーナツなんて何年もご無沙汰だったが、そんな評判を聞いちゃうと気になってしまう。


是非とも食べてみたかったが、「1~2時間待ちの行列か・・・。ディズニーランドじゃあるまいし。」


そんな気持ちから今まで機会が無かったんだ。


ところが先日、友人が「そんなに待たなくても買えそうだったから、買ってきたよ♪」なんてダースで買ってきてくれたんだ。



何でも数個のバラで買うより、アソートになっている12個セットの方が列が短いんだとか。


Thank You!


早速いただいてみると、柔らかく口の中で溶けるような軽い食感が新感覚!


甘いことは甘いが、生地がふんわりと柔らかく決しておもくない。


「Krispy Kreme Doughnuts」は今年で創業70年になる老舗のドーナツ・ショップ。


創業者バーノン・ルドルフはニューオリンズでフランス人シェフからイーストドーナツの秘密レシピを購入し、1937年ノースカロライナ州ウィンストン・セーラムでクリスピー・ドーナツの販売を開始。


50年代に入ると各地に小さなチェーン店ができはじめた。


しかし、どの店も同じレシピを使っていたが何しろ全てが手作りの為、同じ味(一貫性)を持つのが難しい。


そこで創業者ルドルフは独自のドーナツ製造機器を開発・製造し、完璧なドーナツミックスを各店に配送するディストリビューションシステムを試みた。


それにより、ドーナツ製造プロセスの改善と合理的なオートメーション化、そして品質の統一が成功。


60年代になるとアメリカ南東部を中心に着実な成長を遂げ、店舗デザインやロードデザイン(看板)を含め、更に一貫した「クリスピー・クリーム」へと発展した。


70年代後半から80年だい前半にかけて他企業に売却され業績が落ち込むも、数名の共同経営者達が買い戻し建て直しをはかる。


そのお陰で「クリスピー・クリーム」は復活、さらにニューヨーク、カリフォルニア・・・そして日本への拡大にも成功したんだ。


今から10年前の1997年には国立アメリカ歴史博物館に独自のドーナツ製造機器を寄付したことにより、20世紀のアメリカの象徴として認められるようになったそうだ。


種類も豊富でチョコレート・グレーズド、グレーズド・ラズベリー、グレーズド・クルーラー、トラディショナル・ケーキ・・・。


少しづつ何種類か食べてみたんだけど、オススメはやっぱり定番の「オリジナル・グレーズド」。


日ごろドーナツやスイーツを食べない人でも、これはイケると思う。


ところで、その行列に並んでいるとできたての温かいドーナツを試食させてくれるそうだ。


そのできたてクリスピーはヤバイくらい美味いそうだ。


自分で並んでないくせに言うのも何だけど(笑)、試食も食べられる事だし並んでみる価値はあるドーナツである。


また、店内で食べることもできるそうだ。


コーヒーも美味いらしいし、何よりできたてのドーナツを店で食べてみたいものだ。


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Hawai or Hawaii

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dowild-ha☆

昨日の一日降り続いた雨もすっかり上がり、ビールが最高にうまく♪気分がイイこんな日は、久しぶりにハワイの話に興じよう。

美しい景観と完璧に近いといわれる気候によって、ほとんどの観光ガイドブック等で「楽園」とたとえられているハワイ…

オアフ島にある世界で最も孤立している大都市ホノルルには重工業がなく、自動車や発電所や火山から生じるわずかの大気汚染も貿易風が吹き飛ばしてくれる。

環境危険性ランキングなる調査では、ハワイでの最高の危険度は、メインランドの最低の危険度と同じだという。

また、アメリカ全体における環境による健康への危険度は、世界中で最下位らしい。

ハワイの環境が地球上でいかに優れているかがわかる。

さて、今日は本当にハワイを知ろうと思うならばこそ「ハワイ」という名称にちょっとスポットを当ててみよう。

英語で「Hawaii」と表記するにも関わらず、白人たちは“ハワイイ"とは発音しない。

それは我々日本人も同じく、右ならえ的な無自覚で従ってきたに過ぎない。

マスコミ等で東洋人の名前の呼び方なんかも、本国での読み方が見直されている昨今、将来的には改まるのだろうが、日本人にはまだまだ違和感がある感じかな。

白人とハワイ…周知のようにハワイはイギリスのキャプテン・クック来航を機に白人社会に知られるようになった。

クックが推定した先住民人口は約30万人で、当時は数人の大首長によって分割されていた。

1778年、カウアイ島に来訪し、諸島を“サンドウィッチ諸島"と名付けたクックは、'79年に、島民にボートを盗まれたために大首長を人質にとろうとして、返り討ちにあって殺されてしまう。

クック隊は報復に島民10人を殺害し、150軒を焼き払った…

以降、ハワイには多くの白人たちが訪れ様々な文化、物資を持ち込んだ。

そしてカメハメハ大王(1世)のハワイ諸島統一、キリスト教の伝来と…

そんなハワイ王朝も「アロハ・オエ」の作詞をしたリリウオカラニ女王の退位によって1893年に終焉をつげる。

その昔、先住民の彼らが静かに平穏に暮らしていたかどうかは分からないが…

ハワイが白人世界に“発見されたコト"によって、伝統的な神々や礼儀を廃し、西欧社会の“言葉"や制度ばかりか様々な伝染病によって、島の暮らしは大きく変わってしまった。

(1872年にはハワイ全土の人口は5万7000人まで落ち込んでいる)

思えば、人間が地上に住むようになった最後の場所ハワイ…

“楽園"というにふさわしいのは、クックに発見される以前の「ハワイイ」のコトなのかもしれない…。

mahalo☆

dowild.s

SAMUEL ADAMS BOSTON LAGER

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朝からいや~な感じのレイニーデイ★
いかがお過ごしでしょうか?

昨日ピッカピカに磨いたウエスタンブーツが雨に打たれて、ややブルーな感じだが…気をとり直して☆

ドワイルドブログご覧の諸君はもう承知の通り、dowild.sもmも大のビール好きだ♪

勘違いしないでもらいたいのは、ただの飲んべェみたいに何でもかんでも飲めりゃあいいってワケじゃない(笑)

だよね?aloha-momoさんはじめ、ドワイルドなビール大好き諸君?

今日はね、よく行くリカーショップで久しぶりに目について買ってきたコイツを紹介しよう。

『サミュエル アダムス ボストン ラガー』

SAMUEL ADAMS BOSTON LAGER

1984年創業と、かなり若い「BOSTON BEER社」だが、スペシャルビールを作るアメリカ大手メーカーなんだ。

ココんちの特徴は、自社で醸造所を持たず、契約に基づいて他の醸造所に生産を委託する「Contract Brewing(コントラクト・ブルューイング)」という方法を採用している点。

創業者の“Jim Koch(ジム・クーク)氏"は、ハーバード大学の法学部でMBAを得て、コンサルタントとしてビジネスに従事していたというキャリアの持ち主。

アウトドア・スポーツのインストラクターという仕事もしていたコトのある一見変わった人物だ(笑)

彼の家系は代々ビール造りに勤しんでいて、自身のキャリアとその環境があったからこそコンタクト・ブリュワリーが出来たんだろう。

そのボストン・ビアー社の看板商品が、1985年に発売が始まったコイツだ。

SAMUEL ADAMS BOSTON LAGER

彼の曾ジイさんのレシピを活かした昔ながらの製法で作っている。

ペールエール(ホップの苦味や麦芽の香味が強く、高温発酵に由来する果実香のあるビール)と錯覚してしまう位、フルーティな香り♪

飲み心地はというと…モルトの甘味のすぐ後に柑橘系の爽やかさとホップの苦味が口に広がる。

酸味はほとんどなく、さっぱりとした口あたりだ☆

ちなみに“Samuel Adams"は米国独立革命の父、サミュエル・アダムスのコト。

ボストン茶会事件の首謀者で、独立宣言にも署名している人物。

また独立13州のうちのひとつ、マサチューセッツ州の知事を務め、第一回大陸会議のメンバーだった彼だが、本業はビールの醸造だったという。

アメリカを代表するビールといえば、バドワイザー、クアーズ、ミラー…とあるが…

今宵は、アメリカン・ビアフェスティバルで7回も金賞に輝いたドワイルドな名品、ボストンの地ビールに酔いしれてみるのもなかなかオツなもんだ。

SAMUEL ADAMS BOSTON LAGER

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THE BEATLES -Hamburg~World-

スパッと終わった昨日の続きです。
(決してビール飲んで面倒くさくなったのではありません!?)


beatles


1960年、ドラマーも加入しいよいよ本格的な活動を開始したビートルズ。


リヴァプールでクラブを経営していたアラン・ウィリアムズがビートルズのマネージメントと取り仕切るようになった。


彼はビートルズを地元のクラブやホールの出演させていたのだが、ヨーロッパ最大の歓楽街ドイツのハンブルクのクラブで最近イギリスのバンドが受けている、との情報を耳にした。


地元リヴァプールで人気者になりつつあったビートルズを、更に知名度を上げさせるべくハンブルクに送り込む事を思いついたんだ。


初の"海外公演"夢と期待を込めてハンブルクに出発していったメンバー達を待っていたのは、酒飲みの荒くれ者達と10時間に及ぶハードなステージ、そして狭く不潔な部屋であった。


ハンブルクはリヴァプール以上に荒っぽい港町。


バンドの演奏よりも酒を目当てにやって来るドイツ人達には初めのうちは相手にされなかった。


酒飲み達を満足させる為には、より熱狂的に、よりワイルドにやらなくてはならなかった。


ジョン・レノンは後にハンブルク時代を振り返ってこう語っている。

「僕らはハンブルクで本当に成長したんだ。12時間ぶっ続けにドイツ人を踊らせる為には、こっちも全力を尽くさなきゃならなかったんだ。お手本なんて何もなかったから、思いつく限りの事を何でもやったんだ」


毎日10時間以上のステージでドワイルドなロックンロールをやり続ける。


そんな殺人的なスケジュールを、彼らは覚醒剤の力を借りながらこなしていた。


客を飽きさせないようにレパートリーを増やし、共演した他のバンドから盗める所は盗んでいった。


そう、ビートルズの演奏力や実力が飛躍したのがこの時期だ。


そんなビートルズが出演するクラブは荒くれ労働者や売春婦のたむろするような場所であったが、そのクラブの前を通りかかったドイツ人青年クラウス・フォアマンは中から聞こえてくる演奏に心が奪われ、仲間を誘い毎日のようにクラブに通ってくるようになった。


そのインテリ芸術家の青年達の中に、食い入るようにステージに見入っている女性がいた。


当時はクラウスの恋人だった、女流写真家のアストリッド・キルヒヤーである。


彼女はクラブに通い続けるうちに、芸術家肌であったスチュアートと恋に落ちたのだ。


その付き合いからビートルズもインテリ系から影響を受け、リーゼントからマッシュルーム・カットに髪型を変えたのがこの時期である。


ちなみに、アストリッドは"ハーフ・シャドウ"という、人物の側面から光を当てる手法を得意とする女流写真家で、後にビートルズの2ndアルバム「WITH THE BEATLES」のジャケットを撮影する。



波乱万丈のハンブルクにも慣れてきた頃、ジョージの年齢詐称(本当はまだ17歳だった。)が発覚をし、彼らはリヴァプールに引き上げることになった。


しかし、スチュアートはビートルズよりもアストリッドを選び、そのままハンブルクに残ることになった。


不幸なことにその直後スチュアートは、ビートルズ時代ファン同士の喧嘩に巻き込まれて頭を殴打されていた後遺症がもとで急死してしまう・・・。


スチュアート脱退の後はポールがベースを担当。


故郷リヴァプールに戻ったビートルズ、1960年12月27日リザーランド・ホールに出演をした。


ところが、客の反応はこれまでと全く違っていたものだった。


もの凄い熱狂と歓声・・・。


ホールに集まった人々は「ハンブルクから直撃」のポスターを見て、ドイツ人の凄いロックンロール・グループが来たのだと勘違いしていたらしい。


ともあれ、ハンブルク仕込のハードなロックンロールはリヴァプールの若者を虜にした。


そして彼らの人気を決定的なものにしたのがキャバーン・クラブの出演。


リヴァプールの中心地にある若者の溜まり場といったクラブで、昼休みになるとビートルズのランチタイム・セッションを目当てに店の前には長蛇の列が出来た。


熱気がムンムンする中で彼らは熱い演奏を続け、人気と実力を兼ね備えたリヴァプールNo.1のバンドにのし上がったんだ。


そして1961年12月、レコード店を経営していたユダヤ人のブライアン・エプスタインと出会う。


ロックンロールに全く興味がなかったブライアンだったが、ビートルズの演奏に魅了されマネージャーになる事を決意したのだ。


マネージャーに就任したブライアンはビートルズ飛躍の為の戦略を次々と打ち出し、実行していった。


まず、革ジャンと細身のジーンズという"不良のイメージ"から襟なしスーツを着せて爽やかな"万人受け"のイメージに。
(ちなみにこの襟なしスーツは、ピエール・カルダン製だった。)


またステージ上においても、ワンステージ10曲30分以内で収める事、ベストナンバーのみを演奏しアンコールには応じない・・・、など今まで気ままにやってきた彼らにいくつも制約を与えた。


新たな飛躍を期す為にはビートルズもこの新マネージャーに従う事が必然だと分かっていた。


1962年1月には大手レコード会社デッカのオーディションを受けるにも時代遅れとの理由で不合格。


ブライアンは他にもロンドン中のレコード会社に売り込むも、どこもリヴァプール出身のバンドなど相手にしてくれず、デモテープさえ聴いてくれなかったのだ。


売り込みにはデモテープではなくちゃんとしたサンプル盤を作っておいた方がいいんじゃないか、と考えたブライアンはあるレコード店を訪れた。


テープを聴いたエンジニアはビートルズに興味を持ち、同じビルにあるEMI系の出版社に話を持ち込んでくれた。


その出版社が紹介してくれたのが、イギリス最大のレコード会社EMIレコードのプロデューサー、ジョージ・マーティン。


彼はビートルズの荒削りな演奏に何かを感じ、すぐにオーディションをと応じてくれた。


そして1962年6月、ロンドンのアビーロード・スタジオでのオーディションに大満足したジョージ・マーティンはビートルズとレコーディング契約を結んだ。


以前からドラムがビートルズの弱点であった為、レコーディングにあたりメンバーチェンジを行なう。


新しく迎えられたのがリヴァプール屈指のドラマー、本名リチャード・スターキー"リンゴ・スター"である。


こうして役者が揃った新生ビートルズはデビューシングル「Love Me Do」をレコーディング。


17回も録り直され、OKが出た時にはハーモニカを吹いていたジョンの口は真っ赤に腫れ上がっていたという。


10月に「Love Me Do」が発売後、ヒットチャートをゆっくりと上昇、最高21位であった。


新人デビューにしてはまずまずのヒットであったが、メンバー達もブライアンもジョージ・マーティンもこの順位には満足しなかった。


2ndシングルとしてジョージ・マーティンは他の作曲家による新曲を用意したが、ジョンとポールはオリジナル曲でいく事を強く主張した。


この曲ならきっと1位になれる!とレコーディングされたのは「PLEASE PLEASE ME」。


翌1963年2月、2ndシングル「PLEASE PLEASE ME」は発売後35日でついにヒットチャート1位に輝いた。


ビートルズ人気が全国的な広がりを見せ始めていたが、彼らの人気を決定的なものにしたのが3月に発売した1stアルバム「PLEASE PLEASE ME」だった。


beatles

このアルバムをレコーディングした時の様子を、「水を得た魚の様に生き生きとして、レコーディングする度に音楽的に成長し、自信を深めていった。」と、ジョージ・マーティンは語っている。


1stアルバム「PLEASE PLEASE ME」は5月に1位になって以来、実に30週にわたって1位を独占し続けた。


しかも1位の座を受け渡したのは、2ndアルバム「WITH THE BEATLES」だった。


コンサート会場にはビートルズ目当てのファンが押し寄せ、女の子の悲鳴と絶叫、いつでも大混乱だった。


世界中を揺るがすビートルズ旋風が始まった。


イギリスでは無敵の人気を誇るビートルズ。しかし、ショー・ビジネスの中心地アメリカではまだ無名に近い存在だった。


ヨーロッパ各地に広がる人気を背景に、ブライアンはアメリカのキャピトル・レコードとの契約に成功。


キャピトルは5万ドルの宣伝費を投じて、「I Want To Hold Your Hand」をリリースした。


この曲は、1964年1月に発売されるやいなや、4週間で250万枚を売りつくす勢い。


プレスが間に合わないキャピトルはライバル会社のRCAにプレスを頼むほどだったという。


アメリカでの人気が急上昇する中、ビートルズは発のアメリカ上陸を果たした。


ケネディ空港には1万人のファンが詰めかけ、ビートルズを迎えた。


beatles

あまりの歓迎ぶりにまさか自分達を出迎えてくれたとは思いもやらず、4人は大統領かローマ法王でも到着したのかと思ったそうだ。


最も権威あるテレビショー「エド・サリバンショー」に出演した際は72%という脅威的な視聴率をあげ、アメリカ人をノックアウト。


ビートルズはアメリカ、そして世界を征服したんだ。


音楽の殿堂カーネギー・ホールでのコンサート、初の主演映画「A Hard Day's Night」、スタジアムで56000人を集めた歴史的なコンサート、MBE勲章の叙勲、
そして宇宙中継番組「アワー・ワールド」にて全世界中に向けての「ALL YOU NEED IS LOVE」・・・。


ドワイルドな活動と音楽を通じて、世界中に"愛"と"夢"を送ったTHE BEATLES。


伝説となった今もなお多くの影響を残し、現代の音楽の金字塔として揺るぎない存在である。


今までも、そしてこれからも世代を超えて愛されていくだろう。



リヴァプールの少年達が世界にのし上がっていく、そんな成り上がりの下積み時代を中心に書いてみました。


長~くなってしまって申し訳ない・・・。


ことビートルズに関しては熱くなってしまうmでした。

dowild.m

THE BEATLES -Liverpool-


beatles


今日は暑いね~。


都内でも30℃を越えるところがある真夏日だとか。


もう夏だ!って何だかワクワクしてしまうよ。


仕方ないから、"プシュ"とビールを開けながら気持ちいい気候をノンビリ過ごしているんだ。


beatles

さてさて、今日は世界一有名なバンド「THE BEATLES」。


1994年公開の映画「BACK BEAT」は観たかな?


デビュー前のビートルズ結成当時の姿を衝撃的に描いた作品で、この映画では5人目のビートルズとして当時メンバーだったスチュアート・サトクリフをフィーチャーしている。


今となってビートルズを振り返ると、"ポップで素晴らしい楽曲♪"、華やかで明るい印象だよね?


この映画を観るとそんなビートルズがまだ下積みの頃、決して華やかなモノではない激しさや勢いがリアルに伝わってくる。



1940年イングランド北西部にある港町リヴァプールでジョン・ウィンストン・レノンは生まれた。


船乗りであった父親は行方不明、母親ジュリアも事情によりジョンを姉のミミに預けることになった。


やがて少年ジョンは町でも悪名高い不良少年に成長していくが、1955年エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴き、アメリカのロックンロールの洗礼を受けるんだ。


エルヴィス・プレスリー、チャック・ベリー、バディ・ホリーといったアメリカのロックンロールに夢中になり、スキッフルバンド「クォリーメン」を結成し活動し始めた。


この"スキッフル"というのは、当時ロンドンを中心に流行していた簡単な即興音楽である。


ギターとドラム代わりのダンボール箱、洗濯板などの伴奏で歌う素人くさい音楽・・・。


ヒット曲もあり、誰にでも演奏できる手軽さにより当時の若者に受けていたそうだ。
(俺も実際に聴いた事ないんだよね・・・。)


そんなスキッフルバンド「クォリーメン」でのジョンの演奏もご想像の通り歌詞もデタラメ、かなり荒削りでドワイルドな演奏だったそうだ。


そんな折、ジョンはパーティーである1人の男と出合った。


彼はクォリーメンのメンバー誰一人として出来なかったギターのチューニングができ、アメリカのロックンロールをいとも簡単に弾きこなしたのである。


歌詞まで完璧に暗記しており、甘いマスクの"エルヴィス・プレスリー"に似たサウスポーに、ジョンは衝撃を受けたそうだ。


そう、ポール・マッカートニーである。


ポールはクォリーメンのメンバーになり、二人は互いに刺激し合いながらギターの練習をし、曲作りに励んだ。


お互いに自作の曲を聞かせあってはアドバイスをしあい、やがて二人は協力し合って曲を書くようになる。


そして出来上がった曲は全て二人の名前で発表する事を取り決めた。


20世紀最高のソングライティング・コンビ「Lennon&McCartney」の誕生である。


その後、当時まだ14歳だったジョージ・ハリスンとジョンの親友スチュアート・サトクリフが加入。


その他のメンバーは流動的であったが、こうして「THE BEATLES」の前身ができあがったんだ。


バンドメンバーの融合集散によりクォリーメンは解散という形になったが、ジョン、ポール、ジョージ、スチュアートはそのつどドラマーを加え、様々なバンド名を使ってセミプロバンドとして活動をしていた。


バンド名は「ジョニー&ザ・ムーンドッグ」から「シルバー・ビートルズ」、そして「ザ・ビートルズ」と変わっていった。


有名な話だが、この「THE BEATLES」とは音楽の"BEAT"とカブト虫"Beetle"をかけたモノである。


ドラマーもピート・ベストが正式に加入し、オーディションを受けたり、リヴァプールのクラブやホールへの出演、またジョニー・ジェントルのバックバンドとして初のスコットランド巡業に出るなど次第に演奏の機会が増えていった。


そして伝説のドイツ・ハンブルク巡業へと。



to be continued.


dowild.m

STREETS OF FIRE

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今日も最高に天気がよくて太陽が眩しかったな☆

いやー、映画って本当にいいもんですねェ♪なドワイルトになってますが、今日もう一発ヨロシク!

やはりいつもドワイルドブログ愛読してくれてコメント寄せてくれてるYOUさんが、せっかく昨日「シャイニング」と「ミリオンダラー・ベイビー」をレンタルしたらしいのに、この話は忍びないが…

これもまたMy favorite movie♪の1つ、「ストリート・オブ・ファイヤー」のお話しをしよう。

1984年公開と23年も前のモノだが、これがなかなかどうして、かなりホットな映画なんだ♪

のっけから疾走感溢れる音で始まり、94分間という全編を通して心地よいロックンロールが流れる痛快アクション・アドベンチャームービー。

ストーリー、ミュージックともに申し分なく、どの場面を取っても絵になる映像の連続…

闇と雨そしてスモークで演出される街の景色がこれまたクールなんだ☆

そう、「ザ・ドライバー」(78年)、「ウォリアーズ」(79年)、「48時間」(83年)と、さすがアクション派の巨匠ウォルター・ヒル監督の切れ味鋭い独特の世界観&映像美がたっぷり詰まってるからだ。

出演者、誰もが本当にカッコいい♪

ストーリーは…数年ぶりに故郷に帰ってきた男、トム・コーディ(マイケル・パレ)が、無法者グループにさらわれたかつての恋人エレン・エイム(ダイアン・レイン)を助けるまでをスピーディに描いたといった具合。

男のロマン、愛し合っているのに孤高を貫き、自分の愛する人が危機に直面したのを何も言わずに助ける…まさに男の中の男といったヒーロー物語だ。

マイケル・パレの大根役者っぷりがいい(笑)

セリフが少なかったのが彼を助けたかな☆

ヒロインのダイアン・レイン…真っ赤なルージュ、コスチューム、ヒールが似合うロックシンガー役だ。

STREETS OF FIRE

「Tonight Is What It Means To Be Young」の唄で最高の盛り上がりをみせる…

コレ、ダイアン・レインの吹き替えをした“ファイヤー・インク”の唄声がよかった♪

こぼれ話だが、その昔、純情だった(笑)dowild.s少年はダイアン・レインに恋をしてしまったんだな★

中学3年当時、彼女のデビュー作「リトル・ロマンス」を映画館へ1人で観に行ったんだが、一発でヤラれた(笑)

友人が英語の塾行ってて、そこの先生にお願いして俺が書いたラブレター!?英語に訳してもらい、雑誌「ロードショウ」に書いてあったハリウッドの住所に送ったドワイルドな思い出があるんだ(^^;

って、とんだカミングアウトしちまったな(汗)

そうそう、敵役のレイベン(ウィレム・デフォー)もかなりイイ味だしてた。

ハーレーに跨るアウトロー集団ボンバーズのリーダー役だ。

トム・コーディとのタイマンが最後の山場となる。

ウィレム・デフォー…この映画で注目を浴び、2年後「プラトーン」で強烈な存在感ある役を演じた。

この映画、若いドワイルドな諸君が見てもハマると思うんだけどな☆

ロックンロール寓話の世界観に心踊らせるコトに歳は関係ないし。

音楽とストーリーがこれほどまでにマッチすると、映画自体も最高に仕上がるコトをこの映画は証明している。

まだ見てない諸君に自信をもってお薦めする、旧きよきウエスタンの香りのするロックンロールムービーだ。

jimmy


Wake up☆Jimmy

dowild.s

Clint Eastwood

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窓から射し込む太陽も気持ちよく、masayaからもらったバニラ マカダミア フレーバーのコナ コーヒーが気分もリラックスさせてくれて、とても心地よい午後の一時だ♪

葉巻きも最高にウマい…って、写真は俺じゃねーよ(笑)

さて、今日はドワイルドブログ愛読してくれてるmog1971-2007さんこと、もぐさんとのお約束通り「クリント・イーストウッド」のお話しをしよう。

ちょうど今月31日に77歳を迎える、名実ともにハリウッドを代表する大スターだ。

んん!?なんと俺の親父と同い年だ☆

幼い頃、オークランドに移住したイーストウッドは高校卒業後、伐採工などした後、陸軍に入隊。

除隊後、ロサンジェルス・シティ・カレッジにて演技を学んだ。

その後ユニウ゛ァーサルと契約、そして1958年、CBSテレビに勤める妻の友人のコネクションによってTV番組「ローハイド」のカウボーイ役をもらった。

このドラマは人気番組として7年半も続き、これによって彼の名は全米中に知れ渡ったんだ。

64年には、イタリアのジョリー・フィルムからスペインで撮る西部劇への出演依頼が舞い込んだ。

キャスティングに難航していたセルジオ・レオーネ監督に対して、名優“リチャード・ハリス"が若きイーストウッドを推薦した。

これがあの名作「荒野の用心棒」(64年)

この映画を通じて彼は、一躍マカロニウエスタンの英雄になった。

さらに、71年にはご存知「ダーティーハリー」の“ハリー・キャラハン"役で大ヒットを飛ばし、ドル箱スターへと伸し上がる。

その後、ハリウッドに煽られるように彼はアウトロー映画のヒーローを演じていくが、しばらくすると彼のウ゛ァイオレンス表現に対する非難が集中し始めた…

1986年、本人が経営するレストラン「ホッグズ・ブレス・イン」の隣接地への事務所建設許可が下りなかったコトを理由に、彼は官僚主義への反発を剥き出しにした。

そして住まいのあるカリフォルニア州カーメルの市長選に立候補し、72.5%という圧倒的支持で当選したんだ。

これにより俳優業を2年間離れた。

監督業に専念し、大衆的ではない「バード」(88年/ゴールデングローブ賞最優秀監督賞)を創り、復活の道筋をたてた。

そして、自分の映画の師であるセルジオ・レオーネとドン・シーゲルに捧げるため長年シナリオを温めてきた“最後の西部劇"とも評される「許されざる者」で、念願のアカデミー作品・監督賞を受賞。

西部の伝説のアウトローが、年老いたガンマンとして登場…彼の西部劇への思いがスタイリッシュに映し出されている感動作だ。

2003年には、人生の不条理と人間の心の闇を描き出した傑作「ミスティック・リバー」が絶賛され、アカデミー賞6部門にノミネート。

さらに2004年、女性ボクサーと老トレーナーを巡る悲愴な人生を描いた「ミリオンダラー・ベイビー」では監督・主演し、再びアカデミー賞で7部門にノミネートされた。

俺にとって、イーストウッド演じるウエスタン「荒野の用心棒」、「夕陽のガンマン」はもちろんバイブル的映画なんだが、1989年の映画「ピンク・キャデラック」これもハズせない。

失敗ばかりの頼りない中年賞金稼ぎを彼が演じる。

暴力亭主のピンク・キャデラックを駆って逃げ回るヒロインを追ううちに事件に巻き込まれるというコメディタッチの作品。

巨大なピンク・キャデラックを小柄な体で運転するヒロイン(バーナデット・ピータース)の可憐さと負けん気の強さが、なんともアメリカ的でGood♪

しかし、しかし、なんといってもクリント・イーストウッドの復活は、強者ドワイルドなアメリカの復活をも予見させられてならない、そんなとても大きな存在だ。

dowild.s