Tiki
dowild-ha☆
ユーモラスな表情にエキゾチックな雰囲気タップリの「ティキ」は、ご存知だろうか?
ハワイのみならず、ポリネシア全域における神話に出てくる精霊のコトであり、古くから祭られている神々のコトだ。
ついこの前ブログに書いた、マカダミアナッツチョコレートのトップブランドである「ハワイアン・ホースト」
そのパッケージにもシンボルマークとしてティキを使っているのはつとに有名だ。
ハワイへ行くと、お土産物コーナーには木彫りのティキや、マグなどが多く並んでいるので、とかくハワイの名物、あるいは象徴するキャラクターと思われがちだが、実は古代よりタヒチにだって、ニュージーランドにだって存在していた。
神々と言うだけに、意味する種類は様々だ。
中でも「戦いの神クー」「農耕の神ロウ」「生命の神カネ」「海の神カナロア」が4大神と呼ばれている。
他にも“長寿”であるとか“富”といった具体的な意味を持つティキなんかも存在する。
それはちょうど、日本で言うところの大仏や地蔵さんと同じようなモノであろうか。
一説には、その昔、神殿に祭られるようなティキを作る際には、何人もの人間を生け贄に捧げていたというから驚きだ★
まぁ、それだけポリネシアの人々にとっては神聖な存在であったコトが伺える。
そういえば、大人になってからはあまり目にする機会がないけど、トーテムポール(俺が通ってた幼稚園の庭には大きな木造りのがあったなぁ^^)やイースター島のモアイ像なんかも、ティキが起源だと言われるんだ。
また、ティキを語る上で、アメリカ西海岸(特にロサンゼルス)を中心とした「ティキカルチャー」を忘れてはならない。
50年代に広まった南国風のレストランバー「ティキバー」、実はその影響で60年代の日本でも大流行してたんだよ。
最近では、ローブロウ・アーティストたちの代表的モチーフの1つとしても定着してる為、HOT RODDERやTATOO といったストリートシーンでも欠かせない存在となっている。
そういったカルチャーもそうだし、今やティキをモチーフにした様々なアイテムは数え切れないほど存在し、多くの人々を魅了している。
ハワイみやげとして、人にはよく買ってってあげてるんだ^^(もちろんMade in Hawaii)
馴染みのない諸君には、なんともグロテスクなシロモノに感じるかもしれないが、よ~く見るとそのユニークな表情には、限りない存在感とドワイルドなエネルギーを感じる。
dowild.s
THE REAL
ノッてるかい?
一昨日、行ってきたんだ。川口総合文化センター・リリア。
そう、矢沢永吉コンサートツアー2007「THE REAL」に♪
会場は、12月の武道館を待ちきれない連中でいっぱいだった(俺もそんな1人か^^)
共に行ったのは、ずいぶん昔に書いたコトあるが、運送業営んでる、やはり弟のような存在のHiroと、いつも最高のヘアースタイルをキメてくれる美容師のdowild.Tさんとその奥さん。
20年近い付き合いになるが、Tさんと一緒に永ちゃんのコンサート行ったのはコレが初めて。
Tさん自身も、永ちゃんのコンサートは生まれて初めてのコトだった。同じく奥さんも。
俺と知り合って、永ちゃんを知り、そして好きになった1人で、いつか一緒に行きたいねって、ようやっとソレが実現した日だったんだ♪
見た目は至ってマジメな感じのTさん(笑)たくさんの矢沢コスチュームの人々を見て興奮しっぱなし^^
でも、いつだったか俺が誕生日プレゼントであげたスカジャン着て、気合い入ってたなぁ♪
ここ数年は白のスーツも着ていかず、もっぱら普段着の俺は、お気に入りの真っ赤なシャツにブラックジーンズ、足元はクロコダイルのウエスタンブーツ。
ハズせないのがサングラス。
サングラスは理由があってね、持ってるモノ全部、度が入ってるんだけど、要はかけなきゃ見えないワケ(笑)
逆にね、バリバリの矢沢スタイルの連中が多い中、普段着ながらドワイルドに派手な感じの方が目立っちゃったりする^^
もう一つ教えちゃうと、ライブのハナっから永ちゃんも白のスーツで登場するワケじゃなく(ラスト限定だ)初っぱなのステージ衣装の方が、俺的には興味が強かったりするんだよ。
ソレって誰も知る由もなく…今回もやったゼって感じだった^^v
俺は赤いシャツだったけど、永ちゃんも赤をベースにした紺か黒の縦ストライプの入ったシャツにブラックジーンズを穿いていた♪
コンサート終わって、会場の外でタバコふかしながらまったりしてたら、妙に視線感じたりなんかするんだよね…勝手な妄想かっ(笑)
面白かったのが、Tさんがやはりお客さんで知り合った、不動産業やってて、乗ってるメルセデスのナンバーは全て「830(ヤザワ)」、電話番号の下4ケタも全て「4649(ヨロシク)」、私設応援団「東京矢沢会」の会長やってる“永ちゃん命”な人物。
アタマやってもらいに行くとよく話は聞いてて、無論、俺のコトもあれこれ話してたらしくて…
会場はハコが小さいのもあったけど、俺たちの5席前くらいにいたんだよ。
ステージ始まる前にその彼がちょこちょこっと俺たちのトコ来て「お話はかねがね伺ってます」…「こちらこそよく存じてますよ、ヨロシク」で、名刺交換なんかしちゃったりね(笑)
ステージもラスト、永ちゃん節炸裂のMC、そして有名なお決まりの文句…
「今日はみなさん、最高のビール飲んで帰って下さいねェ~」
オフコース♪
酔っているのはオマエにさ…
dowild.s
John Henry Bonham -Led Zeppelin-
ご存知レッド・ツェッペリン
70年代にアルバム・セールスや観客動員数、ギャランティで史上空前の記録を作り上げた、ロック・バンドの最高峰とも言われている。
そんなレッド・ツェッペリンの楽曲を支えた、まさにドワイルドな名ドラマーが"ボンゾ"ことジョン・ボーナムだ。
独自のグルーヴ感・タイム感を持ち、そのヘヴィなドラムはツェッペリンの音楽には欠かせないリズムを常に刻み続けていた。
彼の特徴的なドラム・スタイルは「移民の歌」や「カシミール」・・・
そして何といってもドラム・ソロ曲である「モビー・ディック」。
レッド・ツェッペリンのどの曲にも顕著に現れている♪
1960年代半ば、まだアマチュア時代のボンゾはイギリスで一番大きな音を出すパワフルなドラマーとして評判となり、しばしばドラムを打ち破りクラブから演奏を止めるように頼まれたという。
そしてジミー・ペイジがヤードバーズの分裂後、メンバーを探していたときに出会ったのが彼のドラムだった。
マネージャーのピーター・グラントと共に、彼をバンドに加えることを即座に決め、契約書にサインをさせたという。
ヴァニラ・ファッジのカーマイン・アピスに紹介されたラディックのドラムセットと、市販されている中で最も重くて長いスティックを愛用し、誰よりも大きな音でドラムを叩く彼のスタイルは、バンドの音楽性にピッタリだった。
ちなみにその当時、盟友でありライバルであったジェフ・ベックにジミー・ペイジが"新入りのドラマー"加入のテープを聴かせたところ、その凄まじいドラミングにジェフ・ベックは涙を流して悔しがったという・・・。
ジミー・ペイジを中心に、多少荒いながらも神がかり的にクオリティが高い楽曲を作り出していた。
そしてレッド・ツェッペリンの演奏はインプロヴィゼーションを常に大切にしており、その中でボンゾの叩くリズムは要になっていると思うんだ。
そんな中、パワフルなドラミングながら繊細で正確なリズム感、そして歌心がないと表現できないアジのあるボンゾのリズムは無くてはならないものだった。
レッド・ツェッペリンのツアー中の伝説や武勇伝は数多くあるが、彼はメンバーきっての暴れん坊としても知られている。
その巨体を振り回しホテルの壁を壊す、窓からテレビを投棄する、日本滞在中には日本刀を購入し振り回して歩く・・・(汗)
そんなジョン・ボーナムだったが、根は大変な愛妻家であり良き父であった。
あまりにも家庭を愛していたが故に家族から離れて長期のツアーに出るのを嫌い、また重度の飛行機恐怖症でもあったんだ。
その辛さを紛らわす為に酒を飲み、その量は次第に増加・・・。
1980年9月、過剰飲酒後の就寝時に嘔吐物を喉に詰まらせ窒息死した。
その後、バンドは解散を表明。
後継者として何人ものドラマーが名乗りを上げたが、彼のドラミングに見られるグルーヴ感やノリは誰も再現できない
「彼なしでのバンド継続は無理」と残されたメンバーは判断したんだ。
その後、今に至るまでソロ活動や数回の再結成を行なっているが、"LED ZEPPELIN"名義のステージは元メンバーにジョン・ボーナムの息子ジェイソン・ボーナムを迎えている時のみ。
そして名曲「天国の階段」は、LED ZEPPELINのステージでしか演奏はされないという。
レッド・ツェッペリンとして他のメンバーを決して交えない、そしてファンを裏切らない潔さ。
やはりレッド・ツェッペリンのドワイルドなリズムを刻めるのは、ジョン・ボーナムとその血筋を持つ者しか許されないのであろう。
dowild.m
A River Runs Through It
何年も前に観た映画だが、心に残る作品がある。
例えばそれは決して華やかな映画ではないかもしれない。
俗に言うヒューマン・ドラマって言うのかな?
古きよきアメリカ合衆国のモンタナ州の田舎町ミズーラを舞台に、牧師の父を持つ兄弟の絆と確執をフライフィッシングを通して詩情豊かに描いている作品。
それは、1992年公開ロバート・レッドフォードが監督を務めた「リバー・ランズ・スルー・イット」だ。
ノスタルジックに描かれた、モンタナ州の雄大な自然とフライフィッシングの美しい描写・・・
森を流れる川のせせらぎや水面に反射する日の光、その中でのキャスティング・シーンは最高に美しく、その素晴らしい映像から目が離せない。
アカデミー賞では撮影賞を受賞している、というのも納得。
原作はシカゴ大学教授ノーマン・マクリーンが74歳で執筆した自伝的小説「マクリーンの川」。
その原作を"映画人"ロバート・レッドフォードのフィルターを通し、美しい映像と心に染みる家族の"愛"を見事に融合・表現する事に成功していると思う。
牧師の家庭で厳格に育てられた兄弟
大学院を卒業したエリートで真面目な兄ノーマンと、天真爛漫な弟ポールの物語。
幼い頃から父親に習ったフライフィッシングを通して成長し、人生を学んでいくさまが繊細に描かれている。
ノーマン役にクレイグ・シェイファー、そして弟ポールはデビュー当時のブラッド・ピットが演じているんだ。
今観ると若いね~、ブラビ☆
この映画でのさわやかな笑顔は魅力的で、彼にとって当時「レッドフォードの再来」と絶賛を博した出世作となった。
俺の初めて観たブラッド・ピットはこの映画だったからこそ、今でも好きなのかもしれないな。
下積みが長かったから当時29歳だったんだって、この映画の時!
(もっと若く見えるよね。)
父親役には「トップガン」のバイパー役!だったトム・スケリット。
そして子供達を温かく見守る母の姿、ブレンダ・ブレッシンが好演している。
個人的にこの母親の存在がとても印象的だったな、
男兄弟だったしなおさらかな?
人それぞれに様々な人生がある、楽あれば苦もある時の流れの中で人は生きていくものだ。
(何か黄門様みたい!?)
そんな時の流れの中で、何千年も前から変わらぬ姿で流れ続けている川の存在、そして大自然・・・。
ちっぽけな人間の存在ながら、家族や仲間とのドワイルドな絆一つ一つが大切だ。
と、しみじみ思わせる最高の映画なんだ。
dowild.m
Inquiries on Marilyn's Death
恋愛とセックスと自由の象徴「マリリン・モンロー」
今年は彼女が亡くなってからちょうど45年が経つ。
モンローの死の謎には、本当に一人の人間の死に関しての話かと疑うほど、諸説が入り乱れ対立する。
ケネディ家に殺された?いや違う、その対抗勢力だ。違う自殺だ、いや事故だ…。
まず「他殺説」を唱える代表的存在は、自称“モンローと短期間結婚していた男”ハリウッドのシナリオライターでジャーナリストのロバート・スレイツァー。
30年以上にもわたる取材のうえ、スレイツァーを始め、多くのジャーナリストが「モンローは、自殺ではなく殺された」と主張している。
その根拠となる多数の材料をあげつつスレイツァーは、モンローを殺したのはロバート・ケネディ司法長官(RFK)だと推論する。
モンローはRFKと交際し、彼からさまざまな国家機密を聞いていたと。
例えばRFKがマフィアと組んで、キューバのカストロ暗殺計画を進めていたコトなどを、彼女はそのすべてを「赤い日記帳」なるモノに書き留めていたという。
RFKと結婚するつもりだったモンローに、妻子のあるRFKは別れ話を持ち出す。
逆上した彼女は、週明けに記者会見を開いてすべてを暴露すると言った。
追い詰められたRFKが彼女を殺させたというのが、スレイツァーの推理というワケだ。
当時、モンローの検死をしたのは、トーマス野口検死官という人物。
催眠剤バルビタールの過剰摂取の後が見られたコトから「おそらく自殺」との結果が発表された。
この公式発表である「自殺説」を支持するジャーナリストは、実はほとんどいない。
しかし、モンローには常に自殺してもおかしくない理由が山ほどあったコトも事実だった。
彼女の最後の映画「女房は生きていた」の撮影中から不眠に悩まされ、薬漬けとなり入退院を繰り返している。
結果的に62年6月7日、20世紀フォックスから解雇され、契約違反で損害賠償の訴えも起こされるんだ。
その翌月、死の2週間前の入院は中絶の手術だったという。
彼女は、その生涯でなんと10回以上も中絶をし、流産も経験している。
こうしたコトが、彼女の精神に大きな影響を及ぼし、生きるコト自体が辛かった孤独な人生…36歳まで生きていたのが不思議だったというのが自殺説の骨子だ。
さらには薬の摂取量の間違いにより死に至ったというような「事故死説」
これもまたケネディ兄弟が深く関与してるだとか、医師が薬の処方を誤ったなどの諸説がある。
とまぁ、全く食い違う見方は数あれど真相は実際のところ謎に包まれたままだ。
彼女はたぶん命絶えるまで、本当の愛を求め続けたに違いない…
ミステリアスな最後を遂げてなお語られる死の謎…マリリン・モンローというスターのカリスマ性はドワイルドに永遠だ。
dowild.s
Micky Rourke
それはまるでハロウィーンのような整形手術の失敗(笑)、肥満による体型の崩れ、妻の薬物中毒とその売人への暴力事件など、ハリウッドきってのスキャンダル男…それでも昔っから「ミッキー・ローク」が大好きだ。
思えば96年の「欲情の媚薬」以降は、そのキャリアも下降線を辿り、ここ10年近くはほとんど表舞台での活躍がなかった。
1956年、ニューヨークに生まれた彼は、幼少期に両親の離婚を経験する。
母に連れられ弟、妹とともにマイアミへ移住。
そこで母は5人の子供を持つ警察官と再婚した。
生活は生計をたてるのがやっと、そんな環境のもと彼は非行へと走り荒みきった思春期を送っていた。
ただ、当時、習ってたボクシングだけは熱心に続けたらしい。
しかし、それも悪友から教わったハバナの葉巻や酒により、やがてボクシングからも疎遠になってゆく。
そして19歳を迎えた頃、単身ニューヨークへと戻った。
家具倉庫の運搬人やサウナの従業員などのアルバイトに明け暮れながら演劇を学び、小さな舞台に立ちながら収入に繋げていたんだ。
新たな活躍の場を求めて映画のメッカ、西海岸ロサンゼルスへと移った彼は「1941」(1979年)で映画デビュー。
幸いなコトにTVドラマの役も得て本格的に売れ、共演した女優デボラ・カーと結婚もした。
1981年「白いドレスの女」が最初の代表作となり、全米中の注目を浴びる。
ボクシングで培った肉体美を擁し、セクシーな魅力に加え、どこか危険で野生味を備えたその個性は、たちまち80年代の“セックスシンボル”と賞され、世界中の女性を虜にした。
また、サントリー「リザーブ」のCMなど、日本でも引っ張りだこのその人気は幅広い年代層に支持され、着実に知名度は上がっていった。
一世を風靡した主演作品はやはり「ナインハーフ」と「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」だろう。
ナインハーフの、あんな男にも憧れたモンだ^^
いずれも80年代に集中、彼の個性を如何なく発揮した。
その後の「エンゼル・ハート」では、謎めいた事件を依頼された私立探偵を、「ホーム・ボーイ」では自ら原案を書き、監督・主演を務め、友人のエリック・クラプトンにサントラを任せた。
男臭い孤高なボクシングの世界を見事に表現し、精神的に傷つききったボクサーである主人公は、かつてのミッキー・ロークの姿が投影されているほどのリアリティを映し出している。
1992年には「蘭の女」で共演したキャリー・オーティス(薬物中毒となった妻)と再婚。
以降は、製作されたほとんどがビデオリリースという規模に留まってしまい、日本未上陸の作品も数多くある。
いろんな手段を駆使して手に入れ、それらを全て観てきたが、なかなかどうして俺的には傑作は多い。
「バッファロー’66」「レインメーカー」など、チョイ役すら確固たる存在感がある。
2005年、49歳にして出演した「シン・シティ」で、復讐に燃える痛々しい主人公を熱演し見事なカムバックを果たした。
同年の「DOMINO」(実在した人物、ミノ・ハーウ゛ェイの伝記映画)では、犯罪者の身柄を拘束するコトでギャラを得る賞金稼ぎの仕事仲間を演じていたが、やはりその存在感はケタはずれにクールだった。
撮影の合間にタトゥーを入れまくったり、撮影時間には平気で遅れてくるなどのトラブルメーカーだが、奈落の底から這い上がったドワイルドな不良ミッキー・ロークは、やっぱり大好きだ。
…15年前、武道館へ観にいった彼のボクシング試合での「猫パンチ」アレだけはどうもいただけないが(笑)
dowild.s
HAPPY HALLOWEEN
昨日からこのアメーバブログのペタ(足跡)がハロウィン・バージョンになったね☆
みんなのプロフィール画像がそれぞれハロウィン・キャラクターに仮装している・・・、なかなか粋なサプライズじゃない?
ちなみに我がドワイルドはクールなお墓でした^^
そう、今日10月31日はHalloweenだ♪
ハロウィンというと、かぼちゃに顔を彫った提灯や子供達がお化けに仮装して「Trick or Treat!」なんて近所の家を回るというイベントと知られている。
街を歩くとハロウィンのデコレーションが飾り付けられ、すっかりここ日本でも定着した感がある。
ハロウィンとはカトリックの諸聖人の日(万聖節)の前夜祭。
もともと2000年以上前のケルト人の収穫感謝祭がカトリックに取り入れられたものとされ、秋の収穫を祝い亡くなった人を想い偲ぶ伝統行事だった。
ケルト人の1年の終わりであった10月31日の夜に死者の霊が家族を訪ねたり、精霊や魔女が出てくると信じられており、これらから身を守る為に仮面を被り魔除けの焚き火を焚いたという。
ちょうど、日本でいうお盆にあたる行事なんだ。
夜になると大人も子供も魔女やお化けに仮装し街を練り歩き、窓辺やテラスなどにかぼちゃの提灯「Jack-O'-Lantern」を飾って、悪い霊を怖がらせて追い払う。
ハロウィンのテーマが死や霊、黒魔術、魔女、コウモリ、お化け、怪物など、不気味なものや恐ろしいものというのは、そういった理由からだ。
古代ケルト民族の宗教ドゥルイド教では、日照時間が短くなるこの時期は暗闇の勢力が増し、死者の霊があの世からやってくると信じられていた。
その霊を静めるために人々は供え物を差し出し、差し出さなかった家には悪いことが起こったと言われている。
また、霊を遠ざける為に子供達に変装させて歩かせた。
それが「Trick or Treat!」の由来なんだ。
子供達が玄関を叩き「Trick or Treat!」と言ったら「Happy Halloween!」と応えてお菓子をあげる。
キュートで楽しい行事だよね♪
そういえば10年ほど前、ちょうどハロウィンをハワイで過ごしたことがあったんだ。
31日の夕方くらいから、ワイキキに向かう道はロコ達が乗った車で埋め尽くされ、超渋滞になった。
ワイキキ中の通りに人が溢れ、祭りのように盛り上がっていた。
みんなおもいおもいの仮装をしており、それに混ざって通りを歩いているだけでも楽しかったな~♪
ビールを飲んでいる人も多かったから、俺もそれにならってバドワイザーのボトルを片手にね(笑)
深夜3時過ぎても外は騒がしかったよ(汗)
ハワイの31日の夜は、日本時間だと明日11月1日の午後だからこれからだね。
ぜひもう一度、ワイキキでのドワイルドなハロウィン・ナイトを過ごしてみたいものだ。
dowild.m
P ZIMA
先日、ドワイルドの打ち合わせでshigeが事務所に来たときに、差し入れで持ってきてくれたこのピンクのZIMA。
(ちなみに、この手はdowild.s)
ピンク色のZIMA?
初めて見たそのキュートなボトルに興味津々だったよ☆
早速飲んでみると(どんな打ち合わせだ!?)、お馴染みのZIMAの飲み口の中にリンゴの風味がさりげなく効いていてGood Flavor!
ピンク色で甘そうだな・・・
なんて思ったのだが、苦味がなく、かといって甘すぎないでサッパリとしたZIMAの個性はそのまま。
ボトルには「パーティー・ピンクZIMA(味は従来通り)」と記載されているが、従来の味に+αでリンゴの風味が加わっていてより美味い♪
ボトルに描かれているPのロゴ(女性の顔)がオシャレな通称"ピー・ジーマ"。
また、バーコードも「a little dowild」という?ZIMAのブランドイメージがデザインされおり、見ているだけでも楽しくなってくる(笑)
10年前くらい前、クアーズが発売した"透明のビール"といって話題になっていたZIMA。
当時はその新感覚の飲み口が衝撃的で、よく飲んでたな~(笑)
Clean・Clear・Crispというキャッチコピーが表すとおり、爽快であと味がすっきりとした、透明のビールZIMA。
(アルコール分4.5%、厳密に言うと日本では発泡酒扱い)
1994年に全米に発売されたこの低アルコール飲料、ビールでお馴染みのクアーズ社が果実酒をベースにナチュラルフレーバーを加え独自の製法で造ったお酒だ。
発売されるやいなやアメリカでベストセラーを記録する人気ドリンクになった。
1996年から日本でも発売され、2000年以降は年間100万ケースを出荷しているミリオンセラー・ブランドに成長したんだ。
微炭酸で低アルコール、そして香り高きフルーツ・フレーバーのZIMAは女性にこそ相応しいお酒じゃないかな?
キンキンに冷えたZIMAを瓶のままラッパ飲みをする。
グラスに注いではNG、これがZIMAを美味しく味わう流儀だ。
CORONAのようにカットのライムやレモンを添えても美味いし、カラフルなリキュールをちょっと加えても色鮮やかにアレンジができるんだ。
(カシスのリキュールやカルピスを入れても美味い!)
ピンクZIMAもそんなアレンジの一環なんだけど、リンゴはさすがに試したこと無かったな~。
この存在は全然知らなかったんだけどピンクZIMA、夏季限定の商品なんだって。
って言う事は、もう終わりなの?
まだこのピンクZIMAを飲んでいないというビール党のドワイルドな皆様、まだ酒屋で売っているのを見かけたらぜひともお試しあれ。
dowild.m
Jean-Michel Basquiat
80年代に世界のアート・シーンを席巻した新しい絵画の波。
広く大衆に語りかける表現力を備えた作品は、既存のアート界から蔑視されるコトも少なくなかった。
ウォーホルがアメリカの美術館から長い間、敬遠されていたのもまさにそんな背景があったからだ。
同じコトが、ミュージシャンでグラフィティ作家「ジャン=ミッシェル・バスキア」にも言える。
1960年、ニューヨーク生まれの彼は、スプレー塗料で、地下鉄や街中に落書き(グラフィティ・アート)を描いてた少年だった(そう、よく見かけるアレだ)
“夜露死苦”とか“参上”ってのはちと違う(笑)
その存在は、いわゆる恐るべき子供の1人として扱われ、プリミティウ゛な具象派としてくくられた。
生存している黒人画家を公平に扱おうとしない白人至上主義の批評家とキュレーターは、たくさんいるワケだ。
しかし、アーティスト遺伝子を持って生まれたバスキアは、21歳の若さで信望のあるドイツのアートフェア「ドクメンタ」まで登り詰め、一気にニューヨークの美術界の寵児としてスターダムにのし上がった。
いろんな人種のアーティストが街中の現場を飛び回っていた80年代初めのほんの一時期、バスキアは体制に滑り込む。
レーガン=ブッシュ政権が長引くにつれ、人種差別が以前にも増してはびこり出し、世論はバスキアとグラフィティの達人全てに嫌悪を抱き始めたんだ。
そんなバスキアは、あらゆる世代のアーティストから称賛される一方で、平静さを乱していった。
高価なスーツを着て絵を描き、最高のレストランで食事をする。
コニーアイランドでコースターにでも乗るような態度で仲間と一緒にニューヨーク中をリムジンで走り抜け、大量のドラッグをやった…
作品のほとんどは抽象なのに、表立ったテーマは常に人種のアイデンティティなんだ。
彼の祖先はハイチ人とプエルトリコ人。
何を見るにしてもコレがバスキアにとってのレンズだった。
まるで彼の絵は、繰り返しアーティストの怒りを表現したように感じる。
70年代の終わり頃、街に「SAMO」とサインの入った落書きが目に付き出したそう。
1年経っても誰が描いているのか見当もつかないまま注意深く作品を見守ってた人物がいた。
ただ名前を描くとか、決まった形のマークを描くのを越えていて、文学的な落書きとでも呼びたいシロモノで、とにかくそんなモノはコレまで見たコトがなかったという。
詩とか意見表明みたいなモノで、観念的な思考を言い表したソレは、街中に描かれていた。
見る者の足を止めて考えさせる力があったと…
後でコレを描いたのは、あのバスキアだとわかった。
こう話すのは、この前masayaが紹介したキース・ヘリングだ。
この体験がキースの作品に影響を及ぼした要因もあるコトだろう。
バスキアは、物質的なモノとか人が大切にするようなモノを心底軽蔑していた。
彼のモノや構成に対する軽蔑が、モノに取り憑かれるコトのくだらなさとか妙な執着心に目を開かせたワケだ。
それは物事の真相を暴いて、人にソレを突きつけ、別の見方で迫れたってコトだろう。
晩年、ウォーホルと2人展を開催した。
が、しかし88年、27歳の若さでヘロインの過剰摂取というショッキングな死に至る。
まさにハデに燃えて、あっけなく燃え尽きたルードボーイは、美術史の中に自分の居場所を確保する前に逝ってしまった。
その生涯は、昨日紹介したジュリアン・シュナーベルが監督した映画「バスキア」で見られる。
因みに映画の中のウォーホル役を、なんとあのD.ボウイが演じている♪
一方、名声を得る前のバスキアが主演した「ダウンタウン81」という映画がある。
そこにはまるで夢のように疾走して消えていったバスキアのドワイルドに無垢な姿が映っている。
dowild.s
Julian Schnebel
台風一過、気持ちいい秋晴れだ♪
どうもアートな感じが止まらない(笑)
自由の国アメリカには、次々と自由な表現が生まれている。
1980年代、アート・シーンに「新表現主義」といわれた一群の新しい絵画の波が押し寄せた。
それはアメリカでは“ニューペインティング”ドイツでは“新表現主義”イタリアでは“トランス・アウ゛ァンギャルディア”など、さまざまに名称をつけられたアート現象だった。
そんなニューヨークのアート・シーンに彗星の如く現れ、その流行を世界的なモノにしたーティストを紹介しよう。
1951年、ニューヨークはブルックリン生まれの画家であり映画監督である彼の名は「ジュリアン・シュナーベル」
その才能は、1970年代の終わりに、若き画商であったメアリー・ブーンによって見出された。
彼女の画廊で催された個展において、キャンバスに皿の破片を張り付け、暴力的なタッチでさまざまなイメージを描いた作品が話題となる。
皿を埋め込み、ソレが飛び出した異様で巨大な画面は、モザイクと呼ぶにはあまりにも荒々しく作られ、絵を描くキャンバスとしてはおよそふさわしくない様子をしていた。
彼はあるインタビューでこう答えている。
「絶望し、何をしてもうまくいかず途方に暮れていた」と。
飛び出した皿は描かれたイメージと折り合うワケじゃなく、まるでただ自らを主張すべく突出している。
まるで彼のその心理体験をそのまま物語るかのように…
「ネオ・エクスプレッショニズム(新表現主義)」は、ある意味、モダニズムが生み出した70年代の知的で禁欲的なミニマリズムに対してのレジスタンスであろう。
それまで否定されてきた歴史や神話、性、生と死、記憶、夢想などを主題とし、そのイメージが持つ情動を荒々しく暴力的なまでにキャンバスに叩きつけたワケだ。
反面、マネーゲームと化した美術市場の中で踊らされていた感も強い。
コレは、アートと流行、アーティストの夢とマネーを語るときに必ず思い出す歴史でもある。
シュナーベルは、後年、80年代を描き、アメリカ史上、黒人アーティストとして初めてメジャーになった盟友を回顧した映画「バスキア」を監督した。
しかしそれは、月並みな「アート」と「富と名声」と「ドラッグ」に彩られたストーリーであった。
彼の「皿」は、現実の「絶望」の相を突き付けている。
かつて存在しなかったその表現力は絶望から逃れ、新たな“像”の世界を切り開いた。
イメージの持つ物語性をドワイルドに発揮した心惹かれる画家だ。
dowild.s


























