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Statue of Liberty

Statue of Liberty


「自由っていったいなんだろう?」

何故だか、フッとそんな事を考えてしまう夜もある(笑)


自由といっても色々な捉え方があり、自由についての感じ方や考え方も人それぞれ違うだろう。


かつて、我々が想像しえない程に苦しく壮絶であった自由を求める戦いの歴史があった。


そんな戦いに挑み、自由を勝ち取った国アメリカ。


そんなアメリカの象徴として真っ先に思い浮かべるのは「自由の女神」じゃないかな?


マッハッタン湾の南側にあるリバティ島にそびえ立つ女神像は、アメリカの独立100周年を記念して、その独立を支援したフランス人民の募金によって贈呈されたものなんだ。


フランスの政治家であったエドゥワール・ド・ラブレーが自由の女神の寄贈を提案し、設計は建築家のフレデリック・バルトルディ、製作はエッフェル塔で知られる鉄橋技師であったギュスターブ・エッフェルが関わった。


350枚の銅版を1ヶ月かけてパリから船で運ばれ、それらをつなぎ合わせて完成したのは1886年。


また、台座部分はアメリカ国民の寄付によって当時のべドロー島(今のリバティ島)に建設された。


今からちょうど121年前明日、1886年10月28日が自由の女神の除幕式であった。

(明日は121周年記念☆)


当日はあいにくの雨であったが、当時の大統領グローバー・グリーブランド大統領をはじめ100万人以上の観衆が集まり、この記念すべき瞬間を皆で祝ったという。


本来のモデルはフランスの象徴"マリアンヌ"であるのは有名な話だ。


像の高さは46.05m、台座部分も含めると93mもの大きさを誇る自由の女神は、右手にたいまつを空高く掲げ、左手には「1776年7月4日」と刻印された銘板を持っている。


また王冠の7つの突起は7つの大陸・7つの海に自由が広がるという意味。


そして、足元には引きちぎられた鎖と足かせがあり、これを女神が踏みつけている。


これには、全ての弾圧や暴政、抑圧からの解放と、人類は皆自由で平等であることを象徴しているんだ。


そんな当時の思いが、自由と民主主義の象徴としてこの姿になったのだろう。


当時19世紀末以来、絶えることなく世界各地からアメリカにやってくる移民たちにとっては新天地の象徴として、夢と希望が溢れた輝かしい存在だったんじゃないかな?


純金で形作ったトーチ(炎)といい、女神の表情から衣装のしわまで、よくよく見ると細かい所まで丁寧に製作されているのが分かる。


以前は冠部分の展望台まで上がることができたが、アメリカ同時多発テロ事件の影響を受け、残念ながらそれ以来は一般客が上がることが出来るの台座の頂上部の展望台までとなっている。


自由の女神、正式名称は「Liberty Enlightening the World(世界を照らす自由)」。


彼女が象徴している自由の姿、そんな存在があったからこそ今日のアメリカ、そして世界中でドワイルドな自由を感じることが出来るんじゃないかな?


Statue of Liberty

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BIG SCOOTER

昨日オートバイの車検を依頼しに某バイクショップに行ってきた。


日頃あまりメンテナンスをしていない状態だったので(汗)、しっかりと点検・整備もしてもらおうと思ってさ。


気になる点を一通り伝えて愛車を預けたのだが、さてどうやって帰ろうか?ヘルメットも邪魔だな・・・。
(家からも最寄の駅からもちょっと遠いショップだった。)

なんて、ふと思っていたら
「代車いります?」
なんて、ありがたい言葉が。
そうそう、引き取りに来る時の事もあったので助かったよ。


「スクーターで良かったら…」
と、用意してくれたのは街でよく見かける250ccの某ビッグスクーターだった。


BIG SCOOTER

10代の頃から単車に乗っていたので、そういえばオートマチックのスクーターってあまり乗ったことがなかったんだ。
カブは得意だけど(笑)


シートの開け方など操作を教わってから(汗)、大きな車体に跨って帰路についた。


クラッチもギア変速も不要のライディング、両手のブレーキ、足を前に投げ出したスタイルに戸惑いながらも車の流れに付いていく。


次第に慣れてくると、安定感のある大きな車体もあって「ラクだな、これ♪」、すっかり楽しくなっちゃったんだ。


そのショップでも何台ものビッグスクーターが並んでいて、ちょっと気にはなっていた。


250ccでも車体が大きく、近未来的なデザインはカッコイイよね。


自分で乗るかどうかは別として、特に女性が乗っている姿を見かけるとカッコいいな~、なんて今までも思ってたんだ。


元々イタリア・メーカーのべスパやアプリリアで200cc以上のスクーターが存在していたが、今やすっかり日本に浸透している"ビッグスクーター"


従来のオートバイより利便性が高く、ストリート的ファッションにハマったアイテムである。


1986年に発売されたホンダ・フュージョンが今日のビッグスクーター・ブームの先駆けとなり、今や50ccを除く自動二輪車の出荷台数の半数以上がスクーターであるという。


そのブームを受けて自動二輪のAT限定免許も新設されたり、高速道路でのタンデム(二人乗り)が解禁されたりと、ビッグスクーターはより身近な存在になってきた。


大容量の収納スペースや防風シールドなど、従来のオートバイよりも長距離ツーリングに最適なんじゃないか?
なんて思ってしまったり・・・。


今回は250ccだったが、400ccやそれ以上の大排気量も機会があったら乗ってみたいな。


ライフスタイルの日常の足として、ビッグスクーターもアリだな☆、と思ってしまった今日この頃。


車検が終わるまでは、このビッグスクーターでドワイルドに遊んでおこうか^^


Chiao♪

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Jackson Pollock

Jackson Pollock



心弾むお気に入りのミュージック♪見る者によっては様々な疑問が無限にわき起こる絵画…秋はやっぱり芸術に陶酔するのが心に優しい気がしてしまう(笑)

第二次世界大戦後のアメリカ、ある一人の画家が俄かに注目を浴びていた。

1912年ワイオミング州生まれの“ジャクソン・ポロック”という名の男。

キャンバスに絵具を勢いよく飛び散らせたその表現力は、アートの中心がパリからニューヨークへと移り変わる原動力にもなったほどだ。

戦争という過酷な状況は、アートの世界にも多大な影響を及ぼした。

当時、激しい戦火から逃れるため、ヨーロッパに暮らしていたアーティストの多くはアメリカへと渡った。

美術界で名を馳せた面々は、次々とニューヨークなどに拠点を構えたんだ。

そんな戦後間もない1947年、ポロックは絵画の常識を覆す“ドリッピング”という制作手法を確立した。

Jackson Pollock




床に置いたキャンバスに、缶入りの絵具を直接、棒や筆によって垂らしたり撒き散らしたりする画法のコトだ。

故・岡本太郎氏なんかもこの画法で、芸術を爆発させたよね(笑)

イーゼルもパレットも使わないこの画期的な手法は、美術という世界に新たな局面をもたらせたんだ。

そもそも従来の絵画とは、人の姿や風景などを再現してきたワケだが、このドリッピングは再現性からはかけ離れていた。

その表現力は、その後の抽象絵画に絶大なる影響をも与えた。

キャンバスの周りを動き回って制作するドリッピングの場合、ユニークなのがそのアクションの痕跡が絵そのものとなって現れるコト。

50年代を迎えると彼の名はマスメディアの成長の波に乗り、一躍名声を高め、アメリカを代表するアーティストとして広く知られていった。

コレは60年代以降に活発となるパフォーマンス・アートへと受け継がれていく。

やがてポロックの絵画は、キャンバスに絵筆を叩きつけるかのような激しいタッチで絵を描くウィレム・デ・クーニングらと共に「アクション・ペインティング」と呼ばれるようになった。

かつてアートといえばヨーロッパの高等文化であったが、戦後のアメリカではアーティストが大衆社会からヒーローと崇められる事態を迎えていった。

こうした流れは、アンディ・ウォーホルを代表とする大量消費社会を背景に台頭したポップ・アートへと行き着く。

ポロックは、このドリッピングという手法をシュルレアリストたちとの交流や、インディアンによる砂絵からヒントを得たという。

心の内をありったけの思いでぶつけ、身体行為が「絵画」と化したパイオニア。

既存のワクを飛び越え、アート・シーンを彩ってきたポロックの偉業は、あらゆる方面にいまなお及ぶ。

その物差しの大きさには、ドワイルドに生きる元気さえもらえる。

惜しいのは才能豊かな人物は、えてして時にアルコールそしてドラッグへと溺れてしまう…

ポロックもまた強度のアルコール依存症のため入退院を繰り返し、56年、44歳の若さで酒酔い運転による自動車事故で急逝。

その生涯は、伝記映画「ポロック2人だけのアトリエ」で見られるので興味ある諸君はぜひ♪

しみじみと…ほんの僅かな才能でホントよかった☆なんの才能だよ(笑)



Jackson Pollock





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Phrase

Pharse


夏がやってくる直前、2週にわたりNHKの「SONGS」を録画した。

大好きな矢沢永吉の特集だったんだけど♪

そして三日前の深夜、事前に知ってたワケじゃなく、つけてたTVから「SONGS BEST セレクション」なる番組が目に飛び込んできた。

永ちゃんだけ意識してたけど、たくさんのアーティスト紹介してたんだねこの番組(^o^;

そう、今まで放映した「SONGS」の特番だった☆

一番最初に紹介された歌…ビッグ・アーティストなのに知らなかったなぁ★ドラマの主題歌にもなってたんだって!?

もっともドラマあんまり見てないし…(>_<)

歌は間違いなく最高にイイ♪そして頭にこびりついてしまったんだ、このフレーズが…
━━━━━━━━━━━━
I say it's fun to be 20

You say it's great to be 30

And they say it's lovely to be 40

But I feel it's nice to be 50



I say it's fine to be 60

You say it's alright to be 70

And say still good to be 80

But I'll maybe live over 90



I say it's sad to get weak

You say it's hard to get older

And they say that life has no meaning

But I still believe it's worth living


━━━━━━━━━━━━



生きるというコトそのものを歌ったこの歌詞。

いくつになっても、その都度その年齢の自分が好きだと思える自分…

新しい扉を開けていく勇気が持てる自分でいられる歌だ♪

竹内まりや『人生の扉』

これは紛れもないドワイルドな名曲だ☆


Pharse

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Keith Haring


Keith Haring


ニューヨークという大都市ならではのアートを生み出したキース・へリング。


彼の作品は、極限までシンプルなラインと原色系の彩色で描かれていながら、生命の力に満ち溢れた力強さを感じるんだ。


何ていうのかな?
観るとリズミカルなビートを感じてしまうようだ♪


まるで古代インディアンの岩絵(ピクトグラフ)を彷彿させ、顔も表情も無いイメージが実に生き生きと描かれている。


マル書いてチョン的な落書きと紙一重のシンプルすぎる絵でありながら、ここまでの表現ができるなんて本当に凄いと思うんだ。


「俺にも描けそうだな・・・」なんて思っても、実際ここまで深い表現は誰も真似できないだろう。


1958年ペンシルバニア州に生まれ、1978年にニューヨークに移ったキース・ヘリング。


80年代に入ると彼はニューヨークの地下鉄構内で、使用されていない広告掲示板に黒い紙を張りチョークで絵を描く、というサブウェイ・ドローイングを始める。


そんなストリート・アートはニューヨークの通勤客の間で評判となり、キース・ヘリングの名が知られるようになった。


その頃から「空飛ぶ円盤」「ハイハイする赤ん坊」「吠える犬」「踊る人」などのモチーフを描いていたそうだ。


ニューヨークでの数回の個展を開催して知名度を上げていきながら、自らの作品をバッジやTシャツなどのグッズにして販売したり、世界を巡って壁画を製作するなど、彼は常に大衆に身近なアートを実践し続けていた。


アンディ・ウォーホルやジャン・ミッシェル・バスキアとも親交が深く、また社会貢献活動を多く行なうなど精力的に活動し続けた80年代だった。


特にキース・ヘリングのHIV感染が発覚するとそれを公表し、作品を通じてAIDS感染を防ぐメッセージを送るなど、AIDS撲滅運動にも積極的に参加し、Act Ageinst AIDS(AAA)の最初のポスターを描いたのも彼だった。


Keith Haring


そんな晩年の作品にはAIDSへの恐怖がダイレクトに表され、それまでのポップで愉快なキャラクターが変貌していった。


それが彼自身が恐怖に怯えていた当時の気持ちであり、世界中に向けて発信したリアルなメッセージであった。


そして1990年、31歳の若さでAIDSにより死亡。


誰よりもシンプルでストレートに表現した彼の"ポップ・アート"には圧倒的なパワー、そして生命のエネルギーを感じる。


キース・ヘリングの作品には、彼自身を投影したドワイルドな"夢"と"希望"がいつまでも生き続けているんだ。


Keith Haring


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Sid Vicious -SEX PISTOLS-


Sid Vicious -SEX PISTOLS-


これまでも数々のアウトロー達の生き様を書いてきた、このドワイルド・ブログ。


今日は実に短い生涯をドワイルドに駆け抜けた、この男について話そうか。


初期のロックンロールが持っていた攻撃的で反社会的な面を、更に過激に訴えた1960年代の後期から70年代にかけてのパンク・ロック。


熱く、魅力あるアーティストが揃っているが、中でも有名なのはラモーンズやクラッシュ、そしてセックス・ピストルズだよね。


そのセックス・ピストルズが「Anarchy in the U.K.」で衝撃的なデビューを飾った頃、一人の熱狂的なファンが観衆の中にいた。


ピストルズの記者会見中に記者が邪魔で会見が見えないと言ってその記者を殴ったり、彼がステージに向かって投げたビール・グラスが他の客の顔面を直撃した・・・。

と、ファンの中でも際立って目立った存在であった。


その男の名前はシド・ヴィシャス。


Sid Vicious -SEX PISTOLS-

初代ベーシストのグレン・マトロックがセックス・ピストルズを脱退すると、シド・ヴィシャスはバンドのマネージャーであったマルコム・マクラレンの誘いがあって、後任のベーシストとなった。


それまで彼はドラマーで当初は全くベースが弾けず、ライブでもベースで客を殴ったり、喧嘩ばかりしていたそうだ(汗)


セックス・ピストルズにとって重要だったのは演奏のテクニックではなく、パンク・ロックを地で行く彼の存在だったのだ。


ちなみにシド・ヴィシャスというあだ名は、専門学校時代からの友人であるボーカリストのジョニー・ロットンが、自分の飼っているハムスターの名前から付けたそうだ。


ライダース・ジャケットにリング・ベルト、南京錠のネックレスがシド・ヴィシャスのトレード・マークだった。


その後、セックス・ピストルズは1978年の全米ツアーに失敗し、あっけなく解散してしまう。


シド・ヴィシャスはソロに転向することを決意し、映画「THE GREAT ROCK'N'ROLL SWINDLE」に出演したり、ソロ・アルバムをリリースしたりと活動は続けたが、影ではガール・フレンドのナンシーとヘロインとセックスの荒んだ日々を送っていた。


というのも、当時セックス・ピストルズは若者達には絶大な支持を得ていたが、保守的な愛国主義者からは敵視されていた存在であった。


彼らが公衆の面前に姿を現すと、決まって襲われたり騒動に巻き込まれていたそうだ。


また、麻薬でも警察から目を付けられていた彼は、ナンシーと共に自由を求めてニューヨークに渡った。


ナンシーとの愛は確実なものであり、ドラッグを断ち切り結婚して新しい生活を送ろうとしていた。


ところが、ニューヨークのチェルシー・ホテルでは、更に廃れた生活を送る事となったのだ。


元セックス・ピストルズというシド・ヴィシャスの存在はニューヨークでも有名で、イギリス以上の暴力に直面し、その事で更にドラッグに頼らざるを得なかった。


そんな日々を送っていたが、1978年10月彼らが生活していたホテルのバスルームでナンシーは死体となって発見された。


真相は明らかではないが、麻薬で錯乱したシド・ヴィシャスが刺殺したとも言われているんだ。


麻薬の事もあり警察に逮捕されるが、保釈金により釈放された。


ナンシーの死、というショックから立ち直れないまま、彼は自殺未遂を繰り返した。


その直後、麻薬の過剰摂取によりシド・ヴィシャスは死亡。


享年21歳の短すぎる人生だった。


ベースは上手くなかったが、ベースを持って立っているだけで絵になり、その存在は"パンクの精神"と呼ばれている。


シド・ヴィシャスはピュアにパンクを突き通し、走り抜けていったドワイルドな男である。


Sid Vicious -SEX PISTOLS-


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Elvis Plesley in Blue Hawaii

Elvis Plesley in Blue Hawaii


ある雑誌がまたエルウ゛ィス・プレスリーの特集を組んでた。

エルウ゛ィスに関しては、このブログを始めた最初の頃にも書いたし、ついこの前masaya(dowild.m)も書いてた。

それでもやっぱりまた書きたいんだな(笑)

エルウ゛ィスが愛したハワイ、俺も愛して止まないから…

そしてなにより今年は没後30周年、彼が初めてハワイを訪れて50周年という記念すべき年だから…

エルウ゛ィスが初めてハワイにやってきたのは、あのジェームス・ディーンが急逝した2年後の1957年11月のコトだ(冒頭の写真がその時のホノルル・スタジアムでのモノ&下はハワイアン・ビレッジでのインタビュー・シーン)
Elvis Plesley in Blue Hawaii

前年にはすでに「ハートブレイク・ホテル」が全米No.1になり、名実共に“キング・オブ・ロックンロール”として世界中の若者を熱狂させていた。

彼が2度目にハワイを訪れたのは、除隊後の1961年。

ドキュメンタリーを除き生涯32本の映画に出演してるエルウ゛ィスだが、その8作目「ブルー・ハワイ」の撮影のためだった。
Elvis Plesley in Blue Hawaii

その年の11月に全米公開されるや、アメリカはもちろんのコト日本においても大ヒット。

オアフ島とカウアイ島で撮影されたんだが、主な撮影場所はハナウマ・ベイ、ノースショア、タンタラスの丘、シダの洞窟。

この作品によって、ハワイの魅力を世界中に知らしめた。
Elvis Plesley in Blue Hawaii


また、タイトル・ソングの「ブルー・ハワイ」をはじめ「好きにならずにいられない」「ハワイアン・ウェディング・ソング」を収めたサウンドトラック・アルバムはUSアルバム・チャートで、なんと20週も1位に輝いたんだ。

スクリーンの中にはハワイの美しい景色をバックに夕陽に照らされながらバラードを歌うエルウ゛ィスの姿があった。

32本のうちハワイで撮った映画は3本ある。

「ブルー・ハワイ」(61年)、「ガール!ガール!ガール!」(62年)、「ハワイアン・パラダイス」(66年)と。

ロックンロールキングと呼ばれるエルウ゛ィスだが、彼のなんとも言えない独特の味わいのあるあの歌声は、ハワイアン調のメロディに最高に似合うんだ♪

それはひとえにカントリー、ブルース、ゴスペルと幅広いジャンルの歌を歌える彼だからこそ成せるワザだろう。

全てのジャンルの音楽は、結局エルヴィスに結び付くと言っても過言ではないんじゃないか?

「ブルー・ハワイ」って曲も、もともとはビング・クロスビーの歌で、古い曲として存在したろうけど、エルウ゛ィスがカウ゛ァーしたからこそ今も輝いてるんだと思う。

あの歌をあいいうフィーリングで歌えるのは、やはりエルウ゛ィスしかいない。

エルウ゛ィスが歌って、そのタイトルの映画に出たコトにより現在でもスタンダードとして残ってるんだとも。

73年、ホノルルにある現在ニール・ブレイズデル・センター・アリーナで行われた史上初、人工衛星を使った世界36カ国同時生中継「アロハ・フロム・ハワイ」は本当に画期的だった。



洋楽のライブ自体そんなに観れない当時、TVで生中継したワケだから♪


小学生だったdowild.s少年も、あの中継はよく記憶している。

エルウ゛ィスが42歳で他界して30年目を迎えた今も、エルウ゛ィスのあのブルー・ハワイはちっとも色褪せるコトはない。

今は昔、夢の世界でしかなかったハワイが、今はすっかり身近になっている。

エルウ゛ィスが教えてくれたハワイを、たくさんの“マハロ”を交感し合いながら愛するコトができる。

あの時代、ブルー・ハワイをエルウ゛ィスが愛したのと同じように…

ハワイで聴くエルヴィスの歌声は、なにより心地よい♪

あの空気とあの歌声の組み合わせほどドワイルドなモノはない…

たとえばラナイに出て夕陽を見ながら聴いていたなら、誰しももう帰りたくないと思えてしまうだろうから…。


Elvis Plesley in Blue Hawaii


MAHALO☆

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Hawaiian Host

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昨日、立ち寄ったコンビニでちょっとしたハワイを発見して嬉しくなった♪

いつから売ってたんだろ?

そんなにいつもよく見るワケじゃないんだが、とにもかくにも俺は昨日初めてコイツにお目にかかり、早速買ってみた。

「Hawaiian Host」の“チョコレートドリンク マカデミア”。


そう、あのハワイみやげの定番中のド定番ハワイアンホーストの作ったチルドカップ乳飲料だ。

正確にはあのドトールコーヒーが、ハワイアンホースト社監修のもと作ったチョコレートドリンクだった。

ドワイルドな諸君ならすでに知ってたかな!?

甘そうなソレを、飲みたいってよりパッケージに惹かれてついついね^^

ハワイからのお土産として、これまでにいったいどんだけ~の量のハワイアンホーストのチョコをもらい、そして買ってきたコトやら(笑)

ハワイアンホースト社と言えば、世界で初めてマカデミアナッツチョコレートを作った老舗ブランドだ。

創業以来続くオリジナルレシピを守り、確かな技術と品質で、ハワイへの旅行者はもちろん、今や世界中で『マカデミアナッツチョコレートと言えばハワイアンホースト』の地位を確固たるモノにしている。

Hawaiian Host

2002年には、ハワイの発展と向上に貢献した企業に贈られる最高の功労賞「Maile Award」を受賞、ハワイの主要産業を育て上げたメーカーとして、その功績を称えられた。

創始者である日系三世のマモル・タキタニ(滝谷 守)は、今から半世紀以上前のマウイ島で育ち、子供の頃から世界一のお菓子屋になるコトを夢見てたという。

やがて大人になった彼は、ハワイの名産であるマカデミアナッツを使ったお菓子を作ろうと思いつき、試行錯誤を重ねた結果、チョコレートとの相性の良さを発見した。

妻アイコと協力し、特別にまろやかなミルクチョコレートのレシピを発明し、商品化したのがその歴史の始まりだ。

後にオアフ島に渡ったタキタニは、1927年から続く地元の菓子店「エレン・ダイ・キャンディーズ」を買い取り「ハワイアン・ホースト」と名付けたんだ。

その美味しさをより多くの人々と分かち合いたいと考え、ステーションワゴンに積んで島中を走り回った所、その美味しさが評判を呼び、二人のもとへ注文が殺到するようになった。

リゾート地としてのハワイの世界的人気が高まるにつれて、このクリーミーで豊かな味わいのチョコレートも評判を呼び、一躍ハワイのお土産の定番となったワケだ。

現在も秘伝のレシピに忠実に作られているマカデミアナッツチョコレートは「ハワイからの贈り物(Hawaii's Gift to the World)」として、世界中の人々に愛され続ける味となった。

たしかに時折入るドトールのカウンターの所に、ハワイアンホーストのミニパックが売ってた記憶もあるなぁ…

まぁ食べ飽きた感のあるソレをわざわざ買って食べるなんて気持ちもさらさらなかった、しかしチョコレートドリンクとなったハワイアンホーストなら試したいのがドワイルドだ(笑)

マカデミアペーストの香ばしい風味が鼻を刺激し、コクのあるミルクチョコレートが口の中いっぱいに広がり思わずニヤリとしてしまうウマさだ♪…レポーターかっ(笑)

いやしかし思いの他、甘過ぎずイヤな甘ったるさが残らない。

甘いモノほとんど飲まない俺だけど、ハワイを感じれるこのスイートなら、たまには飲んでもいい^^

マモル・タキタニの子供の頃みたドワイルドなハワイアンドリームは今もこうやって歩み続けているんだなぁ…。

Hawaiian Host

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BILLY JOEL


BILLY JOEL


長野から帰ってきました。


清々しい大自然に心が洗われ、身も心もリフレッシュされた気分だよ♪


さてさて、もうすっかり秋だね。


肌寒くなってくると、何故か思い出すのはニューヨークだ。


北風にコートの襟を立てて歩いているシーン・・・。


そんなイメージのバックに流れる曲といえば、もちろんビリー・ジョエルがよく似合う。


全世界で1億枚を超えるセールスを記録し、それらのヒット曲を聴いたことのない人っていないんじゃないかな?


ニューヨーク州サウス・ブロンクス出身のシンガー・ソングライター、ビリー・ジョエル。


ウディ・アレンやポール・サイモンらと同じくユダヤ系ニューヨーカーであり、ニューヨーク郊外で育ったことが彼の音楽性に大きく影響を与えた。


それはニューヨークという大都市を、一歩離れた客観的な視点で捉えている事かもしれない。


1971年にデビューするも、所属のレコード会社による勝手な判断で再生速度を上げて編集され、全く別人のような歌声で発表されてしまう。


それがきっかけで、人間不信からもともと悩まされていた鬱病が進行してしまい、一時はロサンゼルスに逃げ出す事になってしまったという。


その後、別のレコード会社と契約し初のヒット作であった「Piano Man」で再デビューを果たした。


そして彼を一躍スターダムへとのしあげる事となったのが、1977年に発表された5枚目のアルバム「Stranger」である。


名曲が揃っているこのアルバム、タイトル曲の「ストレンジャー」をはじめ、美しいバラード「シーズ・オールウェイズ・ア・ウーマン」、「ムーヴィン・アウト」など最高のアルバムだ♪


何より全米3位を記録した「素顔のままで」は1978年度のグラミー賞で最優秀楽曲賞と最優秀レコード賞を受賞、ビリー・ジョエルのキャリアの中でも最大のヒット曲となっている。


翌年にはアルバム「ニューヨーク52番街」を発表。


このアルバムからも、彼のテーマ曲といえる軽快な「マイ・ライフ」、そして「オネスティ」など、大ヒット・シングルを連発。


アルバム自体も初の全米1位を獲得し、同年度のビルボード年間アルバムチャートで首位を記録する大ヒットとなった。


その勢いが止まらないまま、1980年にはアルバム「グラス・ハウス」を発表。


それまでのジャズを基調とした洗練された作風から雰囲気を変え、ライブ感溢れるソリッドなR&Rを全面に出した内容になっている。


収録曲の「ロックンロールが最高さ」は遂に初の全米シングル1位となった。


1983年のアルバム「イノセント・マン」は50'sから60'sにかけてのオールディースを基調としたポップな楽曲が収められ、「アップタウン・ガール」など聴いてて楽しい曲ばかりだ♪


90年代にかけて順調に活動を続けていたビリー・ジョエルだが、1993年のアルバム「リヴァー・オヴ・ドリームズ」を発表後、現役ミュージシャンとしての活動からの引退を表明。


その後もスポット的にコンサート(エルトン・ジョンとのジョイント・ツアーなど)を行なったり、クラッシック作品を発表したりと音楽活動は続けていた。


そして、今年2007年2月に14年ぶりとなる待望のオリジナル曲「All My Life」をリリース、ビルボード・シングルチャートで初登場1位を記録した。


この曲はというと"渋い大人のジャズ"、最高の雰囲気を演出しているんだ♪


70年代の歌声とは違う歳を重ねた年輪を感じ、実に心打たれ酔いしれてしまった(笑)


デビュー35周年を向かえ、全世界の人に愛され続けているドワイルドな"ピアノ・マン"、それがビリー・ジョエルという存在である。


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Nagano

ちょっと今日のブログは志向を変えて、つれづれと・・・。



突然だけど今、長野を訪れているんだ。


美しい南アルプスと天竜川に囲まれた雄大な自然、そして澄んだ空気と名水・水の美味しさが清々しい気持ちにしてくれる。


今の時期だと紅葉にはちょっと早かったけど、名産のリンゴや最高の蕎麦を十分に満喫できた♪


何で長野に来ているのか?

詳しい事はドワイルドの企業秘密だが(笑)、早い話が研修って感じ?


自分自身の視野を広げる為の勉強をしに来たんだ。


現在のマーケットにはびこる製品・モノの生産、
現状として日本のメーカーも、生産を中国をはじめとするアジアにシフトしている事は誰もが知っていることだよね?


その事が良いのか悪いのかは別として、頑なに日本でのモノ作りに徹している人達や工場もまだまだ沢山存在している。


そんなプロダクトの現場を実際に見学し、話を聞く機会ができたのが今回の長野だったんだ。


量産で作られる工程、そしてその流れに人の手が加わる部分、オートメーション化と人とのバランス関係。


それとは別に、機械に頼らず職人の手によって全てがハンドメイドされている現場も紹介してもらった。


歴史を振り返ると、もともと日本人には繊細な感性と技量を持ち合わせているんだ。


書道や水墨画、彫刻、染物、花火・・・。

日本人ならではの技術って素晴らしいもってたくさんあるじゃない?


オートメーションの技術、それはもちろん素晴らしいものだ。


だけど、その道のスペシャリストである職人さんの手によって作られている工程を実際に目の当たりにすると、その想いまでがモノに吹き込まれて作られているんだな・・・、なんて感じてしまう。


そうやって製作された"モノ"こそが、後にユーザーの手に渡り長年に渡って愛用されるのであろう。


そんな人の手の温もりを感じ、実際に体験してきた今日だった。


「実際に設備投資をして機械で作っちゃったほうが効率は良いのかもしれない・・・、でもこういう風に作ったモノを求めている人はまだいるんだよ。」
と、職人さんが言っていた。


そんなドワイルドな想い・・・、考えさせられた1日だった。


日本人がこれまで培ってきたモノ作りのDNA、それをしっかりと継承している人達の姿。


彼らがいるからこそ、まだまだ日本は誇れる国なんだよね。


From Nagano
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