11月9日、相浦支部が借りている相浦公民館祭りでの演武会。

11月15日、本部、相浦支部、NPOの合同演武会。

この二つの演武会に向けて、組み合わせと参加者の確認がほぼ整い、参加者のテーマも固まってきた。


合同演武会は総合演武会とビデオ撮影演武会を行う。

総合演武会は子供達の成長を親御さんに見ていただく事が主旨であり、そこに数組の大人が参加する。

昨年はゲストに市長をお招きした。今年もご案内を出している。

ビデオ撮影演武会は大人が主体であり、課題演武の上、自由演武となっている。


今回の課題演武はパートナーとの創意工夫であり、主旨はいかにパートナーと協力しあい稽古から企画まで出来るかである。


演武会は試合である。

合気新道の試合の概念は「それぞれの自己課題を相手の協力よって確認する事である。」

それだけに、その場しのぎの演武や安易なハードルでの演武は許されない。

どんなパートナーと組み、互いにどの様な課題を出し合い、相手の課題にどのように協力を行い、そして本番でそのように成果を出すか、そうした真剣勝負(自己に対する)が試合=演武の意味である。



私のアメブロである空手堂さんとのコメント対話が成立。とても嬉しい。

ここが、そのブログ http://ameblo.jp/bushidou40jp/entry-10151902397.html


さすが空手の方は気持ちがいい!

ごらぁ~合気道家!!!もうちっとオープンにいけよ!とは言いません。それぞれのスタンスがあるし、私の様の青二才が何を合気新道などとぬかすか!と思う方もいるでしょう。なぜなら、逆の立場では私もそう思う。

しかし、そんな中でもコメントをくれた方もいた、感謝。

それにコメントにコメントをつけてくれた方もいた。感謝。

ありがとうございます。


さて、合気道はともすると力はいらないから身体は鍛えなくて良いなどという人がいる。

私は大間違いであると思っている。

バーベルあげて、腕立て伏せ、腹筋、スクワットをプロレスラーなみにせろというのではなく、

少なくても武道という肉体を駆使しての技術であるからそれなりに身体のことを知って、鍛えるのは当たり前である。


私も30代半ばまではの日課は腕立て500回 腹筋500回 木刀素振り3000回 棒の突き500回 スクワット300回

コンクリートの上での受身300回は毎朝の日課であった。


それを今でも続けていくべきであるが、今はしてない。

なぜなら、へばったからだ。

しかし、それをしていたから分かる事がある。

力の抜き方である。


回数を限られた日課の中で全てこなすには早くしなければならない。

早くして手を抜かずきちっとやる。

それには、無駄な力の使い方や動き、呼吸、他の事を考えるなどを止めて集中するなどである。

それが力の抜き方であった。


この力の抜き方を更に効率よく身に付ける方法にヨガという世界があった。

これが沖正弘先生のヨガであった。

沖道ヨガという。


たまたま、友人となった先輩が沖先生の内弟子であった。この方が稽古に参加されることで、私の合気道観が

ガラリと変わった。

合気道は多くの場合、曖昧なニュアンスで技を説明する事が多い。

それを友人がこのように説明すべきではないかとヨガの観点からアドバイスをくれたのだ。

そこで指導法が生まれた。これが合気新道の原点である。


ヨガには修正法と強化法がある。

いずれも、呼吸と身体の仕組みを基礎として身体のバランスを強化修正してゆくものであり、両輪なのである。

いくら、体軸をまっすぐと言っても、骨盤がゆがんでればまっすぐになるはずがない、したがって骨盤を修正して行く予備動作を充実させてゆく事が稽古にとって必要なことだ。


そして、ヨガには内観法というものがある。

例えば、前屈などは内観法と呼吸法で凡そ殆どの人が5分もあれば10センチから15センチは伸びる。

原理は簡単である。

前屈の際に息を吐く、先ず稼働率の一番高い、腰から曲げる、徐々に手を床に向かわせる。

止まったところで内観する。

身体の力んでいる筋肉がないかを自分で意識して探すのだ。

その結果、力んでいると思う筋肉を呼吸を吐く事で一つ一つ緩める。

すると結果として15センチも屈伸が伸びるのだ。


これを技の稽古の中にも取り入れている。

たとえば、2教という痛い技があるが、2教の技が決まった!というところで技をその位置で止めてもらう。

そこで、内観法を使う。すると決まったはずの2教がまだ余裕のあることに気付く。


こうした柔軟性と同時に瞬発力を生み出すものもスイッチなのだ。

例えば、早いポンチや蹴りを打とうとすると邪魔する筋力もある。

この筋力をオフにして、有効な筋肉を稼動させる。

この強化法が様々な変則動作を取り入れた強化法である。

例えば、木刀の素振りを同じ方向で繰り返して行うより、多方面に切り返しながら全力で打ち込む方がスイッチオン、オフのトレーニングと共に強靭な筋肉を養成する。

ヨガの連続ポーズがこれにあたる。

内筋外筋を意識して強化してゆく。

太ももの内、外、腹筋も捻り、屈伸、膨張収縮、様々な動きと内臓への刺激。

足首手首の柔軟は自律神経への刺激に通じ、胃腸を活発に働かせ、免疫力を高める。

呼吸動作を様々な方法で繰り返すことで、胸筋背筋腹筋横隔膜を意図して鍛えるのだ。

人間の身体の筋肉は殆どが実は呼吸をするためと消化する内臓の筋肉である。

そこに手足があるだけだ。


身体の全ての筋肉を意識し、これをコントロールすることができて初めて技が成り立つ。




合気道の稽古をしていると様々な素朴な疑問にぶつかる。


例えば、合気道の稽古法の多くは手を相手に持たせてから技を掛けるという稽古だ。

これを多くの場合、何故手を持って稽古をするかという素朴な疑問に最初はぶつかる。


手をもたれたら、この様に技を掛けるという護身術的にとらえることもある。

間違いではないが、疑問は残るはずだ。


まず、突然の暴漢が、手首を取るという事は殆ど考えにくい。

殴りつけてくるか、胸倉を掴んで殴るか、羽交い絞めにするか、蹴りを入れてくるか、物を投げてくるか、

様々であるが、最初に手首を無防備に持ってくる暴漢は果たしてどれだけいるだろうか?


しかし、合気道の稽古の殆どが手首を掴かませるところから始まる。

これは、何故なのか?


合気道の稽古指導者、師範の中でも明確な答えを持っていることも少ないように思う。

なぜなら、昇段審査の審査基準の中で、本来ならばその答えを表しているはずだからだ。

何の為に?というプロセスや理念の検証が審査基準であるからだ。


私はその素朴な疑問から合気道の新たな取り組みが始まった。


手首を持たせる。その目的は間合いを固定して技の原理を確認するためにあるという仮説を打ち立てた。

柔道であれば柔道着を掴むというルールと同じである。

本来、柔道はスポーツとして当身を禁じて安全なルールで競技化し、梃子の応用や力学的身体操作の原理を把握するところに目的があるが故に、両手を塞ぐという目的で柔道着を掴む。


同じように、間合感覚を得ないうちに、技を学ぶと技の中にある原理を会得しないまま、間違った身体操作をしてします為に、合気道では柔道着を掴む代わりに、手首を掴んでいるのではないか?という仮説である。

そのように考えると、片手手首を持たせると反対の手は当身の防御に使われる。

こうして、間合いを固定し、同時に当て身を防ぎ、身体の操作原理を体得する基本として、手首を持たせる事が考えられた。

手首を持たせる事で、手首を持つ相手が持つという事ではなく、突きであったり、木刀の打ち込みであったり、身体の様々な場所を掴まれた場合の身体操作を想定して稽古が出来るの出る。


手首を腹や胸の位置でつかませる場合は、中段の突きやケリに対する位置関係であり、少しあげれば、上段に対する稽古になる。基本的には剣に相対する身体操作であるが、応用として様々な攻撃に対する身体の間合いや位置関係、技への移行が学べるわけである。


この仮説に基づき、稽古法を再構築し、審査基準を定めた事が、合気新道の始まりであった。