肩甲骨と骨盤


肩甲骨と骨盤はほぼ同じ形をしている。これは四足歩行から直立歩行へ人間は移行したが、もともと四つ足歩行の骨格を基盤として人体は形成されているからだ。


呼吸は肺によってなされるが、肺そのものは動かない。肺を包む肋骨と横隔膜の運動によって肺が活動する。四つ足動物である犬を見ると分かるが、走ったり動いた後に呼吸が荒くなる時に動く箇所は主に腹であり肋骨の開閉はあまり動いていない。

舌を出して息をしているが、この舌を出して息をする事は横隔膜の運動に連動している。

ヨガの行法に舌を出して呼吸をする行法がある。

体温を下げる呼吸法であるが、これを身体で体験してみると分かるが、舌を出して呼吸をすると横隔膜を動かす腹式呼吸になる。舌を出したまま、胸で呼吸する事は反って困難である。


つまり、四足歩行に場合は肩甲骨が引き寄せられて固定するため肋骨の稼動方向である上下運動の稼動範囲が狭まり、呼吸は横隔膜を活用した腹式呼吸が主体になると考えられる。


人間が直立歩行へ移行した為に肩甲骨が固定されずに肋骨の稼動範囲が広がっている。逆に重力にしたがって内臓が骨盤に固定され、横隔膜の稼動範囲が狭くなっているために、腹式呼吸より肋骨を上下させる呼吸法に変化している。


しかしながら、骨格の基本構造や神経伝達の基本構造は四つ足歩行の状態から大きく変化をしていないため、肋骨を稼動させて肺呼吸をすることで様々な不具合が生じている。

特に自立神経系統の不具合により、緊張と安定の調和に様々な矛盾が生じ、その多くが精神的不安を生み出しているのではないかと推測する。


この不具合を意図的に調整する呼吸法が腹式呼吸の鍛錬であるが、腹式呼吸の根本は肩甲骨と骨盤の関連動作の修正と姿勢の作り方で正しい腹式呼吸動作が生まれると考える。


これが武道の構え、座禅の姿勢、ヨガの行法姿勢と一致する所である。


肩甲骨を引き寄せて、固定すると骨盤の中心にある仙骨が上がり脊髄が最も安定した働きをするS字になる。この時に横隔膜の稼動範囲が増え、肋骨も開いた形で肺が充分に膨らむスペースを確保する事が出来る。

また、この姿勢によって脳幹から延髄を経て仙骨に通じる自律神経の流れもスムーズになるのである。


肩甲骨と骨盤を修正し、脊髄を修正する事が正しい呼吸のした作りであり、それが武道の構えの基本になるのです。これを自然体と申します。

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佐世保 温故知新の合気道 合気新道-S

佐世保 温故知新の合気道 合気新道-肺

NPO法人の目的


合気新道は今年2009年4月7日に長崎県へNPO法人申請をし受理されました。認証は2ヶ月間公示の後でありますから、これからという事になります。


さて、NPO法人とした事には理由があります。

まず、合気新道の実質的指導主体者の私が理事に加わらず、運営は生徒の中から理事を選出し、会員全てが総会の議決権を有する仕組みになっております。


それは、会を運営すること自体が教育の一環と考えるからです。

先に述べた、道場運営に参画する意識が稽古の「行」であると考えるからです。

当然、その指導者が運営の中に入り込む事は生徒の自主性を抑える事になると考え、NPO法人の理事運営にアドバイスを求められれば私なりに応えますが、出来るだけ任せる事にしたのです。


生徒はお客様ではなく、すべて道場の主催者となります。

そして公の利益を考える組織。

それが私の考える武道修行の現代社会に適応する組織形態と考えております。


NPO法人でなければならないという事ではなく、

合気道という和合と平和、共存共栄をテーマにした武道を学ぶテーマとしてNPO法人を教材にしたと言ってもよいと思います。


行政や企業法人、地域社会との繋がりの中でNPO法人として道場をどの様に活用して行けるかが武道教育の根幹を学ぶ「器」になると考えております。



佐世保 温故知新の合気道 合気新道-sinnzen




型稽古




佐世保 温故知新の合気道 合気新道-指導

合気新道は型稽古を主体に稽古をいたします。

型稽古というと型に当て嵌めるとか、決められた形を寸分狂いなく行う様に思われがちですが、そのような稽古もあるでしょう。しかし、合気新道は型を通じて稽古の中で実証と検証を行い、その作業の中で型を通じてお互いが協力しあいながら成長する事を目的としております。


型というツールを使って、攻めと受けが検証しあいながら、実証実験を繰り返し、その中でお互いが気づいた事を共有する事で「協力によって、どの様にすれば、何が生み出されるのか」を体験する事が大切なのです。


この作業のない型稽古の反復は機械でも出来ます。

しかし、常に型というラボ(実験室)で協力し合いながら実験し、その中で得られる原理を共有する事に本来の合気という繋がりが生き生きと活動するのです。

生きた型とは無限の応用と活用に通じ、死んだ型は応用が生み出されない条件反射的な不自由なものともいえるでしょう。


切磋琢磨とはお互いが鎬を削るように競い合う中で磨かれるものでもありますが、

もう一つの切磋琢磨は協力し合いながら、共有する真理という珠をお互いが陰陽を演じ分けて磨き上げることでもありましょう。





叱らない指導法


私は稽古の中で出来るだけ叱りません。つまり強制しないのです。それは力でねじ伏せるという事よりも常に調和の中で導くという事を合気新道は求道しているからです。

怒鳴ったり、叩いたり、そうして従わせる事は合気道の理に反します。

しかし、叱らねばならない時があります。

どうするのか?

たとえば聞き分けのない子供をどの様に導くか、これ程よい稽古はありません。

子供と稽古するという事は大人の絶好の稽古でもあります。

また、子供自身も大いに気づくチャンスがあります。


赤ん坊を叱りつけながら言葉や歩行を教える親を私は見た事がありません。世の中にはそういう親もいるかも知れませんが、少なくとも私がこれまでの経験では、子供が言葉や立ち歩きが出来る様になった姿を見て親は喜び、転んでも、間違った言葉を使っても、叱り付けるより微笑ましく手を差し伸べたり、言葉を笑いながら教える姿を見ます。


しかし、子供が物心つくと叱る場面が急に増えます。飲み物をこぼしたり、物を倒したり、朝から晩まで叱り続ける親を見ることがあります。

叱れば叱るほど子供は臆病になったり、不器用になったり、逆にわがままになって行くように見受けられます。


合気道ではどの様に相手を導くでしょうか?

自分の軸をまず養い、その軸をもって相手の中心と和合してゆく事で力の差を上手に誘導します。

力の差ですから、相手が自分より強い力とは限りません。

自分より弱い力に対しても「差」を誘導することには変わりません。


我々は「差」というものを活用して「何が生み出されるのか」を学んでいるのです。

ただ調和しただけでは音も、色も生まれません。

違いや差を上手に合わせた時に変化を楽しむ調和が生じます。

音楽や絵画や様々な芸術は刹那の中に永遠を表現する変化と共にある調和ではないでしょうか。


合気新道は子供に対しても、大人に対しても、力でねじ伏せる叱り方をしません。

いかに工夫してよいものを生み出そうとするか、その絶好のチャンスを逃さないためなのです。