型稽古




佐世保 温故知新の合気道 合気新道-指導

合気新道は型稽古を主体に稽古をいたします。

型稽古というと型に当て嵌めるとか、決められた形を寸分狂いなく行う様に思われがちですが、そのような稽古もあるでしょう。しかし、合気新道は型を通じて稽古の中で実証と検証を行い、その作業の中で型を通じてお互いが協力しあいながら成長する事を目的としております。


型というツールを使って、攻めと受けが検証しあいながら、実証実験を繰り返し、その中でお互いが気づいた事を共有する事で「協力によって、どの様にすれば、何が生み出されるのか」を体験する事が大切なのです。


この作業のない型稽古の反復は機械でも出来ます。

しかし、常に型というラボ(実験室)で協力し合いながら実験し、その中で得られる原理を共有する事に本来の合気という繋がりが生き生きと活動するのです。

生きた型とは無限の応用と活用に通じ、死んだ型は応用が生み出されない条件反射的な不自由なものともいえるでしょう。


切磋琢磨とはお互いが鎬を削るように競い合う中で磨かれるものでもありますが、

もう一つの切磋琢磨は協力し合いながら、共有する真理という珠をお互いが陰陽を演じ分けて磨き上げることでもありましょう。





叱らない指導法


私は稽古の中で出来るだけ叱りません。つまり強制しないのです。それは力でねじ伏せるという事よりも常に調和の中で導くという事を合気新道は求道しているからです。

怒鳴ったり、叩いたり、そうして従わせる事は合気道の理に反します。

しかし、叱らねばならない時があります。

どうするのか?

たとえば聞き分けのない子供をどの様に導くか、これ程よい稽古はありません。

子供と稽古するという事は大人の絶好の稽古でもあります。

また、子供自身も大いに気づくチャンスがあります。


赤ん坊を叱りつけながら言葉や歩行を教える親を私は見た事がありません。世の中にはそういう親もいるかも知れませんが、少なくとも私がこれまでの経験では、子供が言葉や立ち歩きが出来る様になった姿を見て親は喜び、転んでも、間違った言葉を使っても、叱り付けるより微笑ましく手を差し伸べたり、言葉を笑いながら教える姿を見ます。


しかし、子供が物心つくと叱る場面が急に増えます。飲み物をこぼしたり、物を倒したり、朝から晩まで叱り続ける親を見ることがあります。

叱れば叱るほど子供は臆病になったり、不器用になったり、逆にわがままになって行くように見受けられます。


合気道ではどの様に相手を導くでしょうか?

自分の軸をまず養い、その軸をもって相手の中心と和合してゆく事で力の差を上手に誘導します。

力の差ですから、相手が自分より強い力とは限りません。

自分より弱い力に対しても「差」を誘導することには変わりません。


我々は「差」というものを活用して「何が生み出されるのか」を学んでいるのです。

ただ調和しただけでは音も、色も生まれません。

違いや差を上手に合わせた時に変化を楽しむ調和が生じます。

音楽や絵画や様々な芸術は刹那の中に永遠を表現する変化と共にある調和ではないでしょうか。


合気新道は子供に対しても、大人に対しても、力でねじ伏せる叱り方をしません。

いかに工夫してよいものを生み出そうとするか、その絶好のチャンスを逃さないためなのです。