実践する稽古


稽古を行う中で大切な事は何の為に?という目的意識です。

ここが明確にならないと何事も身に付きません。


目的は千差万別でしょう。

しかし、その目的の方角と一致する道を選ばねば道も自ずと逸れる事になります。

この武道を学びたいという動機を今一度自身に問い、どうなりたい、どうしたいということを常に考え続ける事が大事です。


つまり、物事を学ぶ際には、守、破、離という事があります。

基本基礎を身につけて、応用力を養い、それを持って新たな活用を自ら拓いてゆくということです。


しかし、よくこれを、基礎が大切だからこれを身につけねば応用なんてと、年がら年中基礎稽古と足踏みする人を見かける事があります。

とても真面目なのですが、頑固とも言えます。


大切な事は自分がどうありたいか、どのようになりたいか、何のためにという動機と目的をしっかり持つことです。すると一つ一つの基本を得ると、その様な人は直ぐに応用して活用します。

応用と活用が出来てこそ、基礎も身に付いたといえます。

そうして、そういう人はドンドン新たな事に気づくのです。

その結果、基礎の中に含まれる極意、つまり原理をついには発見して、無限の活用を手に入れます。


この常に何の為にというテーマを持って稽古を行っている人を「実践者」と申します。

この実践者であることが、本当の意味で入門者と言えると私は考えます。

合気新道は実践者をもって入門者と致します。


どんなことでもよいです。

まず、自分が何の為に稽古をするのか、

それを見つめましょう。




参画する稽古法



佐世保 温故知新の合気道 合気新道-玉串


 昔は稽古といえば道場の掃除、師匠のお世話、門人のお世話が前提でした。しかし、現在はものを習う場所と時間、それに対する対価を支払う事で稽古する人がお客さんになってしまっております。これでは身に付く稽古が出来ないのです。


 何でもお金で権利を得る。その事を自分の心から外さねばなりません。月謝、謝礼とは昔は教えていただいたお礼という意味でした。つまり礼が先であり、権利というものは後の事でした。権利が先に来ると、欲しいものしか得ないという事が心に壁を作ります。


自分の知らない事を学ぶのですから、欲しい物という段階で既に選択する自分があり、選択するという事は知っている事しか選択できません。しかも、知っているけれど出来ない事。それを求めているのです。
 知っているけど出来ないとは、本当の意味では知らないという事です。知ったつもりになっているだけで、知識や情報を自分の都合で見ているに過ぎません。食べてもいないのに味は分かりません。雑誌やテレビで見たお店で自分が気に入った所に行くようなもので、その評判や価値を最初の情報で色づけて見ているのです。実際にその店が美味しくなかったとしても、美味しいと自分で作り上げており正しい判断が出来なくなります。逆に評判通りではなく、美味しくなかったという感想を持ったとしても、それは自分の先入感にそぐわない結果を見ております。


 街を歩き、ふと腹が減り、何となく入ったお店で「美味しい」と感動したものこそ、その人の体験として自分の中の味覚感を育てます。同じように道場でも、その道場全て食べてみる。この事が掃除をしたり、他の門人のお世話をしたり、師匠の手伝いをする事で得られるものであります。つまり、我が家、我が道場、我が家族として道場に参加ではなく、参画することで全てを食べる事になるのです。食べて美味しいとか不味いという判断をするのではなく、食べて消化しながら、どの様に美味しくいただけるか、その様に皆さんと楽しく頂けるか、その工夫をする事で本当の意味で自分の力、味覚を養うのです。


 稽古は参加するものではなく、共に創り上げてゆく事です。それが参画するということです。つまり創造する力を養う事。積極精神を育てる事が参画する稽古と言えます。昔の主従関係のような稽古ではなく、現代社会では共に運営や活動の計画を作りながら、
その活動を共に育て上げる組織作りが重要と考えます。


体験する稽古法


 現代人の私達に今欠けているものは体験する力ではないでしょうか。情報は今やインターネットやテレビ、雑誌、新聞、本などのメディアから容易に受け取れます。また、基本的教育においても全ての国民が与えられる仕組みが整っております。与えられる事に慣れた私達は自らの五感を通じて体験し、それを消化して行く力を失いつつあります。昔の武道の先生は手取り足取り教えませんでした。しかし、それを吸収する力がその時代にはあったのです。今、技を一つ見せて、やってみろと言っても出来る人は非常に少ないのが現状です。


観る力、聴く力、感じる力、嗅ぐ力、味わう力、それを統合する力を再び取り戻さねばなりません。
 合気新道ではこの五感を通じて自分で体験する。感じる。感じて真似る。真似た結果を自分で分析する稽古方法を大切にしております。形を学ぶ事や、理屈を学ぶ事は溢れるばかりの情報があります。手をどうすればよいのか、足をどこに置けばよいのか、眼はどこに向ければよいのか、それを言葉ではなくどの様に感じるか、それを育てる稽古をいたしております。


 例えば、腹式呼吸をする場合どのようにするのがよいかという事よりも、腹式呼吸で何が変わるのかを体験して頂き、その体験を最も自分に取り入れやすい形を自分で試行錯誤する道しるべを示します。その事によって自分で探す稽古をするのです。



佐世保 温故知新の合気道 合気新道-指導



発見する稽古法


体験は何のためにするのか、気づきを得るためです。逆に言えば気づきがなければ体験とは言えないでしょう。


 では、気づきとは何でしょうか?気づきとは必要なことを知るということであり、今の自分に欠けている事、本当に欲しいものを知るという事ではないでしょうか? まず、求めねば気づきは得られないとも言えます。お腹が満たされていると食べられるものを探す事が出来ません。
 本当に腹が減ると野にある草でも探し出します。私達は物や出来事に溢れる毎日の中で本当に自分に必要なものを見失っているのかもしれません。ですから、合気新道の稽古では与える物はありません。むしろ、自分に欠けているものに気づく稽古をします。

 体験を先にすることで、自分に欠けいているものに気づくという事を前提に行われます。体験して感じた事を表現できない時に初めて自分に必要なものを気づきます。気づけば探し、そして発見できるのです。自ら発見した喜びを知る。その事が稽古の大切な宝になるのです。自ら発見する喜びを稽古の中で得る事が合気新道の稽古の目的でもあります。