中くらいのしがなさ 修業編

中くらいのしがなさ 修業編

将棋の話や気になった本や食べ物について備忘録的に記していきます。妄説暴論乞御寛恕。





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公孫龍 巻二 登場人物表
    (アラビア数字は文庫版の頁数です)


主父 前の趙王(武霊王)。
公孫龍 燕を本拠地とする商人。正体は周の王子稜。
10
恵文王 趙何。現在(巻二の時点)の趙王。即位前は公子何。安陽君は兄、東武君は弟。
肥義 趙の宰相。
高信期 肥義の側近。
周蒙 趙の重臣周袑の佐官。
東武君 趙勝。安陽君・恵文王の弟。領地が下賜される前は公子勝。
安陽君 趙章。主父の第一子。恵文王・東武君の兄。代の領主。
12
田不礼 安陽君の相。元は公子章の傅相。
14
棠克 周の重臣、召公祥の臣だったが、召公祥亡き後、公孫龍の直臣に。
18
嘉玄 召公祥の家臣だったが、召公祥亡き後、公孫龍の直臣に。神出鬼没の術をあやつる。
20
子瑞 召公祥の子。召公祥誅殺の騒動から行方が分からない。
23
赧王 周の王。公孫龍(王子稜)の父。
28
洋真 召公祥の家臣だったが、召公祥亡き後、公孫龍の直臣に。嘉玄と同様の術を使う。
29
童凛 公孫龍の側近。
34
郭隗 燕の名士。時折燕王が教えを請いに来る。「先づ隗より始めよ」の故事で著名な学者。公孫龍も師事する。
37
石笮 主父の側近。
38
湛仁 主父に使える趙の家臣。
華記 主父に使える趙の家臣。
46
呉広  恵文王(趙何)の側に従う臣。恵文王の生母孟姚の父。恵文王の外祖父。
孟姚 恵文王(趙何)の生母。
47
仙英 旧名渠杉。燕王に仕えるようになって名を変えた。妹は趙の王妃孟姚暗殺未遂事件の罪をかぶせられて処罰された。
54
白海 剣の達人。公孫龍の剣術の師であり、配下でもある。
59
草奇 田不礼の謀臣。
73
万葎 田不礼の側近。
77
公子成 主父の父(粛侯)の弟。
82
李兌 恵文王の重臣。優れた才覚の持ち主。
87
趙粱 趙の将士の一人。慎み深く賢明。
92
李巧 主父の麾下、中山国攻めを主導した武将李疵の子。主父の密命を受けて動く。
122
碏立 公孫龍の腹心。燕出身の力士。
138
復生 旧名発県。趙の臣であったが、離脱して白海に師事し、剣の奥義に達した。
142
鵬由 趙の富商。
雲常 趙の有力な商人。父雲遠は主父の祖父にあたる成侯に仕えていた。
佗住 雲常の家宰。
146
鵬艾 鵬由の子。
伊泙 鵬由の家宰。
166
牙荅 公孫龍の腹心。元は王子稜の傅育係。
仙泰 仙英(渠杉)の一族の青年。
171
昭王 燕の王。
呂飛 燕の昭王の腹心。王宮での実力者。
172
安平君 趙の宰相。旧名公子成。
173
孟嘗君 斉の威王の弟の子。食客数千人を抱え、用兵も自在で、韓や魏の懇請に応じて援軍を出し、楚を撃破。韓や魏に楚の領地を与えるも自身は何も取らず、世の喝采を浴びる。秦の相となる。
182
光霍 燕に住む富商。
故笛 光霍の妻。
183
小丰 胡笛の妹。
184
旭放 燕の富商。
185
房以 旭放の大男の使用人。
楽毅 元は中山の武将だったが、魏王の使者となっている。
200
劉公 周の大臣。
213
司馬梁 元中山王の臣下。楽毅の下で一隊を預かった武将。
232
芷冗 趙の富商。
236
狛 代の西に勢力を持つ楼煩という狩猟民族の弓の名人。
237
遠有 芷冗の家宰。
238
杜芳 燕の公孫家の財務を管理している。
 府尹 趙の邯鄲の府の長官 ※人名ではないように思われる。
秋円 斉の臨淄の豪商。
242
巴朗 棠克の臣。
244
湣王 斉の王。
254
田甲 斉の湣王の臣。
呂礼 秦から斉に亡命し、湣王に重用された斉の臣。
287
玉蘭 子瑞の生母。

289
馮諼 孟嘗君の臣。

公孫龍 巻一 登場人物表  

本に人物表がついてないので、これから読まれる方の参考になれば幸いです。

王子稜 周の王子。生母は季姞。物語の冒頭時点で18歳。
童凛  王子稜の従僕。物語の冒頭時点で15歳。後に投石投斧の術を身に付ける。
肥   周の寺人(後の宦官)。刑余の官吏。陳妃の側近。
陳妃  周の赧王の夫人。
赧王  周の王。王子稜の父。
召公祥 周の赧王に使える大夫。王子稜を燕に届ける任務を負う。
棠克  召公祥の臣。
白海  剣の達人。王子稜の剣術の師。
牙荅  王子稜の傅育係。
碏立  燕から季姞に随行してきた力士。
毘剛  燕に赴く王子稜を護衛する兵団の長。
周袑  趙の公子の傅相。趙の誇る勇将で武霊王より趙氏を授かり、趙袑とも呼ばれる。
公孫龍 周の王子稜の変名。
周蒙  周袑の佐官。抜きんでた智謀の冴えをみせる。
武霊王 趙の王。
公子章 武霊王の長男。生母は韓の公女で、武霊王の后となった。
公子何 武霊王の次男。公孫龍と出会った時点で11歳。生母は武霊王お臣下の女の孟姚(後に恵后)。
公子勝 武霊王の三男。生母は公子章の母とも公子何の母とも異なる。
田不礼 公子章の傅相。
洋真  召公祥の家臣。趙の都邯鄲の市井に済み、公孫龍の財産を守る役目に着く。
杜芳  召公祥の家臣。趙の都邯鄲の市井に済み、公孫龍の財産を守る役目に着く。
嘉玄  召公祥の家臣。神出鬼没の術をあやつる。
杠季  趙の宮殿の館人の長。
肥義  趙の宰相。
発県  肥義配下の属吏。剣の遣い手。
草奇  田不礼の謀臣。
万葎  田不礼の家宰。
渠杉  山賊の体で二公子暗殺に動いた一族の長。
鵬由  趙の富商。
呉広  公子何の側に従う臣。公子何の生母孟姚の父。公子何の外祖父。
復生  発県の新しい名。
郭隗  燕の名士。時折燕が教えを請いに来る。「先づ隗より始めよ」の故事で著名な学者。
主父  武霊王の退位後の呼称。
孟嘗君 斉の威王の弟の子。食客数千人を抱え、用兵も自在で、韓や魏の懇請に応じて援軍を出し、楚を撃破。韓や魏に楚の領地を与えるも自身は何も取らず、世の喝采を浴びる。秦の相となる。
楼緩  主父の謀臣。秦に入り、秦王を輔弼する。
昭王  燕の王。妹が周の赧王の后の季姞。王子稜(公孫龍)とは伯父甥の関係。
光霍  燕に住む富商。
胡笛  燕に住む富商光霍の妻。
旭放  燕の王室に唯一出入りできる富商。
呂飛  燕の昭王の腹心。王宮での実力者。
小丰  胡笛の妹。
房以  旭放の使用人。裏仕事を受け持つ。
湛仁  主父に使える趙の家臣。
華記  主父に使える趙の家臣。
王賁  主父の謀臣。楚に入っている。
富丁  主父の謀臣。魏に入っている。
趙爵  主父の謀臣。斉に入っている。
仇液  主父の謀臣。韓に入っている。
李疵  主父の重臣。武人。
楽毅  中山国の武将。
懐王  楚の王。秦の昭襄王の姦計に遭って秦に抑留された。
安陽君 趙の主父により公子章が代の地を授けられ、与えられた称号。
恵文王 趙の武霊王が退位して主父となり、公子何が次の王位についた。
東武君 公子勝が東武の地を授けられて以降の称号。恵文王を補佐する。
仙英  渠杉が燕王に仕えるようになってからの名。
子瑞  召公祥の子。
昭王  魏の襄王の子で次の魏王。














 

安俊暉(あん・としあき)
灯心草

詩人がキリスト者であり哲学徒であった20代前半の書付をあつめたもの。
詩ではないが詩の様な割付である。
書かれている内容は、福音書的であり、倫理的である。内容的には遠いがヴィトゲンシュタインの論理哲学論考を思わせる切れ味がある。敬虔なキリスト者で倫理を考えたカントの姿が浮かび上がる。
自らへの戒めや理想が短い言葉で重ねられる。そこに若者の毅然とした厳しさがある。
志が枯れてきた中高年には、リゲインやユンケルより効くだろう。

伝奇小説というのは、一定の事実を取り入れつつ、そこ以外については、大胆な発想で大ウソをついて物語を展開するタイプの小説です。

織田信長が実は女だったら……。
甲賀忍者と伊賀忍者がありえない術を持っていて殺し合いしたとしたら……。
天皇家の遺伝子を受け継いだ青年が宮本武蔵の興した二天一流の奥義のことごとくをその弟子から授けられ、江戸に出て、吉原の用心棒となり、幕府の犬、裏柳生の暗殺軍団と対決するとしたら……。
死人を生き返らせる術があって、宮本武蔵を生き返らせて、柳生十兵衛と戦わせたら……。
将軍家兵法指南で大目付の柳生家が隠密部隊を抱えていて、公儀の命で諸藩の動向を常に睨んでいて、怪しい藩は、その動かぬ証拠をつかんで、幕府が改易や国替えを命じることの根拠になるよう動く……という架空の設定で、柳生但馬守、十兵衛父子の対立を描くと……。
柴田錬三郎、五味康祐、山田風太郎、隆慶一郎、宮本昌孝、和田竜などなどですね。
伝奇小説を楽しむには、歴史の知識が前提となります。
 
逆に歴史的に妥当っぽい方向で小説が書かれている、そういう小説を歴史小説といいます。
もちろん、正確に歴史など再現できるわけはありませんから、細かなつなぎ目には想像を働かさずを得ませんが、史実として語られていることはちゃんと小説に生かすわけです。山岡荘八、海音寺潮五郎、津本陽、安部龍太郎などが一般的な歴史的事実を踏まえて書く作家です。基本線の勉強になります。それぞれに大胆な仮説を設定に加えたりはしていますが、それほど荒唐無稽な補助線ではないので、吉川英治や山本周五郎や司馬遼太郎や宮城谷昌光などの超大御所もこちらに入れていいかもしれません。
 
その一般的にいわれてきた歴史を少しいじったらどういう物語が立ち上がるか、伝奇小説(伝奇時代小説)は、そこを楽しむものです。
そのためには、基本の歴史を知っておかねばなりません。そして、その歴史のどこをいじれば大胆なパラレルワールドが立ち上がってくるのか、そのツボを見極めるのがひとつの楽しみになります。
 
南條範夫『大名廃絶録』は、巻末に改易大名や大幅減封大名を列挙した資料があって、伝奇的妄想に遊べるのです。こういうものこそ、蔵書とするにたる名著というべきものなのだろうと思うのです。

 

法学部というのは法律の条文を覚えたり、政党史を覚えたりで、考えることなど何もないのだろうと、完全に馬鹿にしきっていた。もちろん、誤解に満ちた唾棄すべき浅薄な法学部観である。

哲学的諸問題や芸術上の諸問題や宗教の構造など、文学部が相手にする問いは難解で、本質的で、魅力に満ちたものだと思っていた。この文学部観は概ね正しいように思う。

 

社会で働くようになった私に決定的に欠けたものは、経済学方面の知識だった。

マル経はポストモダン周りの思想を触ってきたのでなんとなくイメージはあった。

壊滅的に無知だったのが近代経済学だった。

 

哲学方面でそうしたように、経済学でも名のある先生の新書に手を出した。

それが世界の森嶋通夫の『思想としての近代経済学』だった。

 

名著感はぷんぷんしたが、いまいちよくわからなかった。

 

そこで大学1・2年生が習う、ミクロ経済学、マクロ経済学、経済数学の入門系の基本図書で頭から勉強し始めた。

基礎を押さえたら、学部生が読む教科書のたぐいに進み、経済学系の新書をたくさん読んだ。

 

乗数理論、比較優位の原則、スルツキー方程式、統計学、経済数学、ゲーム理論、マネタリストの思想、公共投資が成立する条件、

調子に乗って修士課程の院生がトライするような問題集まで手を出した。

 

そこで一転して、資本論を読んだ。マル経をちゃんと知っておこうと思ったのだ。

自分なりに資本論の瑕疵や脆弱な基盤を理解した上で、マル経の経済学者の概説書やマル経系リベラルの政治思想学者の本にも手を出すようにした。

 

そして、森嶋通夫の『思想としての近代経済学』に戻ってきたのだった。

長い旅だった。5年位経っていた。

 

ああ森嶋通夫という人はさすがにクレバーな人だなと得心がいった。

で、本質的にはマル経的方向にシンパシーのある、近代経済学者だと思った。

マル経的方向にシンパシーがあるというのは、誹謗でも中傷でもない。いい意味で「若い」ということだ。

希望を見ようとしているということだ。

経済学の原則は、自由か統制かの対立軸しかない。言い換えれば、放っておくか介入するか。

自由にさせておけばいいというのが新古典主義の考え方で、マネタリストの信条である。米政党でいえば共和党である。

統制したり介入したりというのは、大きな政府の考え方であり、ケインジアンの立場である。米政党でいえば民主党である。

政府が小さくなると経済活動は元気になるが、一人ひとり自己責任で生きていかねばならない。

政府が大きくなると税金は高くなるが、老後や病者の社会保障が手厚くなる。

 

森嶋理論はそれぞれのいいとこ取りをしようというもので、上を向いた目線が潑剌と「若い」のだった。

もちろん、良書であり、名著であった。

 

 

ある出版社に入って、純文学周りの仕事(雑誌掲載のために原稿をいただくとか、それらが溜まってきて単行本にするとか、それが時機を得て、文庫にするとか)をやっておりました。

あるとき、その会社で、批評雑誌を季刊で受け持つことになりました。その批評雑誌の編集も兼務せよとお達しがあり、兼務で雑誌二誌、合間に単行本と文庫を作るという、大忙しな感じになったのでした。

 

当時は、ポストモダンの嵐が吹き荒れていました。構造主義、ポスト構造主義です。スキゾ、キッズです。エクリチュールとかノマドとかシニフィアンとかディコンストラクションです。

 

概要を知るにもどこから手を付ければいいのか、訳が分かりません。

入門書やガイド本や交通整理本もたくさん出ましたが、いくら読んでもまったく整理できません。

 

ひとつひとつ概要を押さえていくしかないと腹をくくるしかありません。

近代からいきましょう。人名がそのまま書名になっているような新書、入門書のたぐいを複数読んでその思想家の概要を自分なりにイメージするようにしたのです。

 

マルクスが神は死んだと宣言します。

フロイトも無意識の領域を設定して神を追い出しにかかります。

ニーチェもそうです。神というつっかえ棒を捨てて自分で立つことを謳います。超人です。

 

なんだかよく分からんことがあっても、みんな神の思し召しとかお怒りとかいっとけばよかった時代から、自分たちで考えないといけない時代になってしまいます。近代です。

国民国家、論理、科学、合理性、建設的、自由、平等、立身出世、身分制度の破壊……。折からの産業革命と相まって、素晴らしい時代がやってきたはずなのに。公害や長時間労働による労働者の貧困と病苦、農村の過疎化、富国強兵、植民地経営……。非常に人間的でない状況が続きます。マルクスなどは、資本主義というものがわるいのではないかと考えます。

やがてこの近代はという時代は、戦争をたぐり寄せます。戦争と植民地経営は裏表の関係です。どちらも近代がもたらしたものです。自国の繁栄のためにはコロニーが犠牲になることは倫理的に問題がないという人間疎外の発想、これが近代の正体だったのでしょう。やがて近代は、ドイツにおけるユダヤ人差別や米国における文化享楽主義に行き着きます。

 

ここから、文系学問の諸陣営は、「近代」を共通の敵として知恵を絞り始めます。ポストモダンの波です。

 

<哲学>

存在や認識の問題はつねに神の問題でありました。神が万物を作り給うた以上、そこにものがあるのは神の問題にならざるを得ない。

しかし、神なきあとは人間が存在や認識の根拠になってもいいわけです。こうして実存主義が勃興しました。サルトルやハイデガーです。キリスト教的神を乗り越える哲学的作業です。しかし、この人間中心に認識や存在の根拠が戻るだけでよいのか。という問いはすぐに浮上します。

人間なんて曖昧なところに認識の根拠を置いていいのか。

<文化人類学>

人類学というのは、いろんな人間がおります。いろんな生活がありますというものですが、欧米の文明を頂点としたヒエラルキーのなかで語られてきました。それがレヴィ=ストロースによって誤解であったことが証明されます。英仏の文化的な生活と南洋の島の小さな民族の焼き畑農業の生活も、それぞれに最適化しただけであって、上下など付けられないのではないか。そもそも進化ってなんの進化なのか。近代の絶対主義に死刑の宣告をしたようなものです。構造主義の誕生です。

<言語学>

言語をよくよく分析的に考えてみたら、指し示された事柄と音にわかれるやん。その結びつきは任意やん。ここに神などおらんやん。あるのは構造だけやん。ソシュールが発見してしまうわけです。チョムスキーは生成文法とか言って屋上屋を重ねる迷妄に突き進みますがそれはご愛敬。

 

あっちこっちで神が死に、かといって人間が出しゃばっても違うなー、という感覚が起こってきます。これがポストモダンなのではないかと思うのです。

 

ひとつひとつ歴史的名著それぞれを繙いていく時間はありません。

いつかの牛理論です。野菜は牛が食ってくれている(から、私は牛だけを食えばいい)、というヤツです。

原典を読んでくれている人がわかりやすく書いてくれた入門書・啓蒙書を読めば、サラリーマンとしてはまあ充分でしょう。

 

ギリシャ哲学もカントもデカルトもヘーゲルもハイデガーもそういうので読むわけです。

そんな中の一冊に、『ソシュールのすべて』があったのです。

本当に難解なソシュールの『一般言語学講義』をかみ砕いた入門書は山と刊行されていますが、町田先生のこの本がいちばんわかりやすいと言い切ってよいように思います。それくらいたくさん読みましたし、それぞれピンときませんでした。そんな中で大胆な捨象を踏まえつつ、非常にわかりやすく、毀誉褒貶を覚悟して書いているように思えます。覚悟の一冊です。本書からはじめて、いくつかソシュール啓蒙本を読めば、そうとう見えてくるように思えます。そういう最初の一冊に格好な入門書です。