森羅万象をつなぐスーパーコネクターどろんnのブログ

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どうも初めまして森羅万象をつなぐスーパーコネクターどろんnです。

人・物・情報あらゆる全てを私があなた
へつなげます。



感謝してます どろんnです

いつもいいね並びにフォローありがとうございます

上司が風邪をこじらして一週間いなかったりw 

体験学習で特別支援学校の生徒さんが来たり その中で

自分の所属ビルと担当のビルとの間を束の間の暇を

見つけては忍者の様に飛び回っている日々ですがw 

不思議なもので腹をくくれば(年当初予測w) 

不安もいつぞや飛び ただ目の前のことにフォーカスしている

自分にうっとりしておりますちゅー

 

 

 

 

ー感謝してます

 

 

 

という天国言葉を斎藤ひとりさんはそのテープや冒頭のあいさつで

言っておられ お弟子さんもそれに倣っておられますが

それにはエピソードがあって 阪神大震災の起こる少し前に その年の

カレンダーを作るために 集合写真を撮ったら その写真を見た

ひとりさんが 

 

 

 

ーこの写真は世に出すべきではない 全員目が死んでいる

死相が出ている

 

 

 

 

と言われたそうです それから冒頭のー感謝してます を講演会でも

電話越しでも 必ず言うようにひとりさんから珍しく指示された

ということです で例えそれをお弟子さんたちがボイコットされても

 

 

 

 

ー自分は 世界の波動を良くするために 自分一人でも必ずやる

 

 

 

 

というのが ひとりさんの覚悟であるという事です

 

 

 

 神道の世界で ー抱き参らせる という 陰と陽を抱擁しつつ

 

 

 

ー光一元の世界に還る

 

 

 

という考え方がありますが 山陰神道の表さんの著書によれば

 

 

 

ー分け御霊である私たち一人ひとりが神の分霊であるという自覚を

持つと共に 誰に対しても神の分霊として尊重し 共に生かし合える

関係を築いていく必要があります

 もちろん そこには善悪正邪の区別や一切の差別はありません

なぜなら 神様から見たらすべて自分の子供であって わたしたちも

その神の分霊である以上 多くの人が神人合一の境地に至れば

神と同じようにすべての存在を分け隔てなく包み込むことが出来る

だからこそ 例えどんな事態に見舞われたとしても光一元の調和の

世界が築けるのです

 

 

 

聖署でも ー汝の敵を愛せよ 

ーあなたがたの天の父の子となるためである 父は悪人にも善人にも

太陽を昇らせ 正しいものにも正しくない者にも雨を降らせてくださる

 

 

 

という言葉がありますが やがて

 

 

 

ー人類は 陰陽における自分の視点や立場というジャッジとその対立という

構図から解き放たれ あらゆるものを受け入れて永遠の命に至る

 

 

 

というテーマが見えてくるものです

 

 

 

 

ニールドナルドウォルシュの著書に神との対話という本がありますが

 

 

ー神との対話では 自己の成長を認識する為にー有る世界 が生じ
また成長を促すためにー陰と陽 といった2元の構造が出来
問題と解決 男と女 味方と敵 神と悪魔 といった対立の構造が生じ
片方が生じたと同時に 影の様にもう片方が生じるといった
形で具象化する

 但し それはあくまでも人間の成長と器を大きくするためであり

決して 私があなたの敵として現れても憎んだりしないでください

 

 

というお話になります ひとりさんの話によれば

 

 

 その事象が起こるのは 自分がまだ未熟で感謝の心を知らないから

わからせるために起こるのであるから その起こった事象に対して

 

 

 

ーお陰様 と感謝できれば もはやそれが起こる必要性がなくなる

 

 

 

 ある意味でー裏技 であり ーカルマを減らす最短の道 という

コツを教えてくださっているといえます それはイエスや仏教といった

主要な宗教も同じであるという事です  五井昌久さんによれば

 

 

 

ー国家民族間の自己欲望が 世界を不安動揺させているのでありますが

この国家民族の自我欲望というものは いいかえれば 個人個人の自我

欲望の大きな集積であるといえるのです

 個人個人の想念というものは そのまま宇宙全体を 波動となって

循環しているものであり その想念が寄り集まって 人類世界の運命が

出来上がるのであります ですから 皆さん一人ひとりの想念は 必ずや

大なり小なり 人類世界の運命に影響しているのです

 自分と世界は何の関係もない 等と思っているのは とんだ思い違い

なのです 皆さんの一人があいつをやっつけてやろうという想いを出せば

それは世界の心に 害心を一つ加えたことになるのであります 

 よってどんな些細な想念でも それを消え去るものとして打ち消さぬ

以上は人類世界の波動想念の中に記録されて そうした想念が やがて

重なると人類世界の運命となって現れてくるのです

 

 

 

ー右の頬を打たれても 左の頬差し出せ 

 

 

とイエスの言葉にあるように ー打たれて打ち返す 場合によっては

ー殺してしまうw ということを繰り返してきたのが人類の歴史といえます

 

 

しかしながら 散々それを繰り返してきて何一ついいことはなく ーもう十分だ 

というところまで来ているのが ーイマノヨ といえます

 文明というテクノロジーも極みを迎え これ以上の発展とその未来にも 何の

期待と喜びも抱けず 返って不安と恐怖しか抱けなくなった今 再び光の世界に

還る時代がやってきたということでしょう 最後に鍵山秀三郎さんと

木村秋則さんの対談の話しで締めくくりたいと思います

 

 

 

 

ー私が尊敬する哲学者の 森信三先生はー痛苦骨を噛む という言葉をのこして

おられます 失敗や過ちこそが 自己教育の中核だと 失敗こそが 自分を

成長させてくれるんですね

 多くの方は 失敗は成功の反対だと思っていらっしゃるかもしれません しかし

成功の反対は失敗ではなく 目標を持てないことなんです ですから 結果は

どうであれ 目標を持ったということ それ自体が非常に尊いことだと

思っております

 

 

 

 

 

ー農薬も肥料も使わない

そのあげくに あんなにボロボロのみじめな姿にさせてしまいました

苦しめたのは私なのに そんな私を救ってくれたのはリンゴの木でした

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ごきげんよう どろんnです

いつもいいね並びにフォローありがとうございます

ベタになりますがw 今年も早くも折り返しに

差し掛かろうとしており 時の過ぎる早さに

おっさんはおののいておりますが笑い泣き 

チャレンジ精神さえ忘れなければ 人は常に

若く謙虚で居続けられる と言い聞かせて

塩沼亮潤さんのー人生生涯小僧の心を 

模範としていきたいと思う所存でありますデレデレ

 

 

 

 

ーのびやかで かろやかで あなたのままで

 

 

 

 

 

という聖フランチェスコの愛の三原則の言葉がありますが

斎藤一人さんの言葉にも

 

 

 

 

ー面白くて 楽しくて 涼やかで

 

 

 

 

という似たような言い回しが存在します

 

 

 

 

この言葉はー普通はつらいよ という一人さんの講演の中で

出てくるのですが

 

 

 

ー人生ってさ そのまま感情のままに 心の思うままに

任せて生きてると つらいよね だから ふつうはつらいよね

 

 

 

 

というw お話しなのですが

で日本一ツイテル人の考え方としては

 

 

 

ー考えを常に下に向けない この起こったこと(困難 問題)で

神は俺に何を与えているのか その答えがわかったとしたら 

俺はやっぱり日本一ツイテルんだよ

 

 

 

というw 思考回路であるという事です

小林正観さんや斎藤一人さんの挿絵で有名な

柔和な菩薩の絵でお馴染みの斎灯サトルさんの別の解釈では

 

 

 

ー縁起のいい演技をしている

 

 

 

ということですw 

 

 

 

 思い出すのは 勝海舟の逸話で閑古鳥の鳴く料亭で客もいないのに

店の者一同で大掃除をしている その姿に教訓を得て海舟はその女将に

餞別を渡すのですが その心は 

 

 

 

ー気を滞らさず 活気をたやさないようにしている

 

 

 

そうしていると客足も次第に戻り 元の繁盛店になっている 

ということです

 

 

 

また イエローハットの鍵山さんの逸話で 

ずっと売れ残って埃をかぶっているチャイルドシートがあり

店の人間に指示して 綺麗にラッピングしてリボンもつけさせたら

売れた という話しもあり

 

 

 

ー神は出した問題に対して うまずたゆまず努力して知恵という

工夫をする人に味方する

 

 

 

ともいえます そしてそんな人たちの在り様を形容すると

冒頭の

 

 

 

ー面白くて 楽しくて 涼やか(のびやかで かろやかで あなたのままで)

 

 

 

ということです 

 

 

 

 

 Toland Vlog で資本社会の興隆と衰退 狩猟民族から農耕民族に変わった後の

今に至るまでの動画が出ておりますが

 

 

狩猟採集時代というのは ー明日食べるものが当然あるというわけではない

という中で 人類は何十万年も生きてこれた時代があったという中で

わかることは

 

 

 

ー別に貯めこまなくとも 当然お金がなくとも 生きられる神のシステムがあった

 

 

 

というそのシステムの頑丈さと近世およそ8千年の文明時代の既に綻びが出ている

その脆さに気づくものです

 

 

 

その中で 毎月の支払いで増える食費や税金 少しでも残して老後に貯めようと

爪に火を点す日々 そういった喪失感や無価値感に苛まれる現代病の一端は

この社会システムの在り様そのものであると気づくものです イエスは

 

 

 

ー野に咲く花を見よ 空を飛ぶ鳥を見よ 刈り取りもせず 種を蒔くわけでもない

それでいて主は彼らを着飾らせ 今日も彼らを養っているではないか  また

ー明日のことまで思い悩むな 今日の苦労は今日で十分である

 

 

 

と述べているのは 人類が恐れの為に作り出したそのシステムの欠陥と行く末を

既に見通していたからに他ならない様に思えます

 

 

 一方で柔和な人として イエスの話しに無心に耳を傾けるマリアや その足に

高価な香油を塗りその別れを惜しむマリア その兄弟ラザロの死を嘆くマリアが

普段はー柔和で優しくて飾り気のない 女性であり イエスに最も愛された女性で

ある というのがわかります

 

 

 

 一人さんの話しで 酒蔵の寺田さんとのエピソードがあり

 

 

 ー寺田さんは面白いんだよ おれがさ あーしたらこーしたらって

言ったら誰よりも早くそれをして こうなったんです って

とっても感謝して喜んでくれる

 でさ 寺田の若いのに寺田さんが良い話しをするとするじゃない

いくら寺田さん 親身に情熱的に話したとしても それ やらないんだよ

良い話し聞いたで終わるんだよな たいてい

良い話し聞いたじゃないんだよ 例えば 寺田の酒を買うとか そこでしか

買わないとか そういう与えてもらった恩に対して報いる心意気が大事だよな 

でさ そういう人には ー神はそれを活かすチャンスをあたえないよ

 

 

 

それで思い出すのは イエスの奇跡の話しで出てくるイチジクの話しです

 ある日イエスは飢えを覚え 近くにあったイチジクによると葉ばかりで実がなく

ー今後一切その実のならない様に と枯らしてしまう という事です

 季節外れともありますが 神通力のある神の奇跡(愛)が通用しなかった

木を枯らしてしまう というのは 現代の人間に対する警告の逸話の様に

聞こえてしまいます

 

 

 

西郷隆盛の言葉でー敬天愛人 というものがありますが 

 

 

ー天は人を愛するがゆえに 私もそれに倣い人を愛するのだ

 

 

とした時に 今人類はそれが出来ているのか とした時に 非常に

困難な状態であると言わざるを得ない という事です

 

 

 

 

 真の救世とは この地に受けた恩をどう神に報いるか ということ

ですが その答えはー涼やかで 面白くて 楽しく 生きる 

という事です

そういった姿勢でいれば やがて活気が徐々に取り戻され 景気も

良くなり 神武やイザナギを超える大景気になる というのは

神の見えないシステムによるものであるからに他なりません

ー産めよ 増えよ 地に満ちよ という言葉は 偽らざる真実の

在り様であり 常にあなたは味方されている という中で

もう一度自分の在り様を見直し 日本一ツイテル人になろう

ゲームに参加してみてはいかがでしょうか

 

 

 

 

 

 

 

 

人間だって自然の一部。自然はいろいろな命が繋がり合っている。

誰もがいろいろな命の中で生かされているんだ

 

 

 

 

 

みんな、背伸びしたくなるの。自分の力以上のことを見せようと思って、

ええかっこしようとするから、ちょっと足元すくわれただけでスコーンといっちゃう。

自分の身の丈にあったことを、毎日毎日、一生懸命やることが大事じゃないの

 

 

 

 

 

一歩ふみだすためにどうしたらいいかって?どうしようかと

思うこと自体がおかしいんだよ。

やりたいことがあるならやればいい

 

 

 

 

 

ありのままの姿を、そのまんま正直にとらえればいい。

物事には真実以外に何もないんだから

 

 

 

 

 

仏さんは人生を見通している。仏さんは「道は開いてやるけれど、

後は自分でもって考えなさい。」って言うんだな。

簡単には人生の答えはくれない

 

 

 

 

 

人生って、こっちが疲れたら全部「しんどい」ってことになってしまいがち。

考えを辛いことの一点に集中しすぎちゃう。

しんどいところは休ませておいて、違うところに精神を集中させてみる

 

 

 

 

 

 

(亡くなる3日前に)ただ、感謝だな……

 

 

 

 

 

 

                        千日回峰行 酒井雄哉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ごきげんよう どろんnです

いつもいいね並びにフォローありがとうございます

三寒四温と言うが もはや何回なってんねん笑い泣き

と突っ込みながら 夜も明けきらない時間(始発電車w)に

毎日通勤しておりますが 今年は色々と急激の変化と

その対応に明け暮れそうであると 予言めいたことを

書いておいて 覚悟しております笑い泣き

 

 

 

 

 

 

ー天上天下唯我独尊

(釈尊がルンビニー園で誕生なされたなり七歩歩いて右手で天を指し、
左手で地をさして上記のお言葉を仰った)






ー旅人に尋ねてみた 何処まで行くのかと いつになれば終えるのかと
旅人は答えた 終わりなどはないさ 終わらせることは出来るけど
 そうじゃあ お気をつけて と言ったのは ずいぶん前で
彼は未だ還らない 彼が僕自身だと知ったのは 今更になってだった

               (ポルノグラフィティ アゲハ蝶)

 

 

 

 

 

 

 

 最近は量子物理学の世界でも 宇宙=意識 というものが 少しずつですが

その関連性が明らかになっていますが シュレディンガーのように

 

 

 

ー観察者がその粒子の振る舞いに影響を与える

 

 

 

というのは 意識が宇宙と密接に関わり合っているのを見て取れる例の一つ

であるといえます

 

 

 

 また 法華経においても 自らの意志や行動 思考が その世界を救う

とあり まずは その世界の成り立ちである宇宙を瞑想することにより

少しずつ 自分(意識)というものを奥深く知り その使命を知る

というものがあり またよくある禅の問答で

 

 

 

 

ーあなたが死ぬば その宇宙(世界)は滅ぶか

 

 

 

 

という問いに対して    ーその通りだ

 

 

 

とあり 

 

 

 

ー人間の死は 一つの宇宙の終わりである(生じたものは必ず滅する)

 

 

 

と 一人一宇宙 の定義を暗に意味しております

 

 

 

 

ーこの会場にたくさんの人がいますけど 実はみんな違う世界に
いるんですよ  一人一宇宙なんです
 出会っているように思うのは みんなでルールを一緒にしているからです
 共通のルールでやっているから お互いが出会ったように見える 
同じ世界の中にいるように見えるけれども 違うんです 皆宇宙なんですよ
 そして それぞれのことを体験しているんです
 そして出会っている それがこの時代の特徴です


 まったく別の所から語ると ー私 という存在もありません
3次元を歩いているー私 は 名前を付けられ 物心ついたことにそれを
受け入れたー私 です 確実に周りによってつくられ アイデンティティを
もって生きています そうすると みんながいることで社会が成り立っている
というのは非常にあいまいな話になります 外の世界を見ている人など
本当は誰一人としていないのですから
 たとえば 部屋にいる人たちにー観葉植物はどこにありますか? と聞くと
目の前にある観葉植物を目指して ーここにあります と言うでしょう
 目の前の観葉植物を認識しているのは 彼らの脳です 観葉植物を
見ているつもりでも 実際には 彼らの瞳のレンズを通して入ってきた映像が
視神経で信号になり 後頭部にスクリーンの座があって そこに再映像化して
いるにすぎません 人間は構造として 自分の脳にあるスクリーンに映った像しか
見ることが出来ないのです

 つまり 私たちは認識でしか世界をとらえていません 実際には見ていません
ということは 世界は一人ひとりの中にしかないことになります それなのに
なんとなく一つの世界を共有して生きている様な錯覚を起こしています
言語を介してコミュニケーションをしているつもりになっているけれど その実
お互いに全然かすってもいないのです
 重要な仕事を請け負ったり 重要なポジションについている人が ーここで死ねない
私が死んだら 明日 この仕事はどうなるんだ などという事がありますが
実際の所 その人が亡くなれば 世界そのものが消えます もっと言うと
その人が亡くなれば 宇宙が消えます 
 ーいや 私が死んでも家族は残るし お葬式だってある という反論もあるでしょうが
それは残された側の認識の世界で続く話であって やはり自分が亡くなれば 
宇宙はなくなるのです つまり 一人一世界 が消えます
 
 その意味からすると 世界の起源とはどういうことでしょう?
たった一つの認識が生まれた所 それがすべての起源とは言えませんか?

                     (時空を超えて生きる 他 Kan.)

 

 

 

この話を聞いて 思い出すのは 超新星大爆発 などにより 既に亡くなっている

星の光が 夜の星空に浮かび 現在生きている人間の網膜に映って ーその存在はある 

と錯覚している という有名な話しです

 

 

つまり ー既に存在していないものが あるように見えている

 

 

また 仏教の教えにあるように およそ

 

 

 

ーないもの(空)が あると錯覚することこそ 人間の苦しむ因である

 

 

 

これが 四聖諦(苦諦 集諦 滅諦 道諦)となり 

 

 

 

ー人は生まれながらにして 病 老 死 の苦しみから逃れられることができない

 

 

 

それは本質的にはーある と思っている粗雑な肉体が やがて時を経るにつれて

エントロピーの法則により カオスになっていき やがて土に帰る という

理は何人たりとも 逃れることは出来ず 避けようがない事実である 

ということです  ゆえに最終的には

 

 

 

 

ーその輪廻世界から逃れること(解脱)を勧める ブッダの菩提心の話しになります

あるブッダとの問答として

 

 

 

ーこのように絶妙な見者におたずねしようとここに来ました どのように世間を

観察する人が 死王はみることがないのですか? 

ブッダは答えた

ー常によく気を付け 自我に固執する見解を打ち破って 世界を空なりと観ぜよ

そうすれば死を乗り越えることが出来るだろう このように世界を観ずる人を

(死の王)は見ることがない

 

 

ここで大事なことは それは

 

 

 

ー肉体的な目で見ることではなく 心の澱みない眼でもって 物質界を観想し

その執着の輪廻を断ち切りなさい

 

 

 

ということです 

 

 

 

ー人間とは 見えるから罪を犯す 

 

 

 

ともいえます  

 

 

 

ー攀念智(はんねんち)

 

 

 

とも言いますが ネットの掲示板やコメント欄を見れば明らかですが

 

 

 

人を告発する者 人を蔑む者 人を羨む者 人を裁く者

 

 

 

といったおよそ 魑魅魍魎が跋扈した空間が展開されていますw

 

 

彼 彼女の認識は永遠に生きる者として その認識を悪戯に見える対象に

自らを差し置き 批評批判して その実 世間一般では箸にも棒に懸からず 

孤独で誰も相手にしてくれない存在である という まごうことなき事実は 

永遠に変わらない ことを 実際問題として本人はどこかで認識しているものです

 

 

 

ー粗雑な肉体を持つ人間が その心も粗雑なままにエントロピーにより

カオスになっていく様(さま)を果たして誰が見たいか

 

 

 

というw 死霊 生霊世界が脳内に勝手に展開されますがw 

ではどうするかとすれば ブッダが述べるように

 

 

 

 

ーこの宇宙(意識)を知りなさい そして その宇宙に対して偉大な魂として

責任(菩提心)を持ちなさい

 

 

 

 

この菩提心の話しとして イエスのラザロの死と復活がありますが

 

 

 

 

ーマリヤは、イエスのおられる所に行ってお目にかかり、その足もとに

ひれ伏して言った、

「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は

死ななかったでしょう」。 

イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのを

ごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、 

「彼をどこに置いたのか」。彼らはイエスに言った、

「主よ、きて、ごらん下さい」。 

イエスは涙を流された。 するとユダヤ人たちは言った、

「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」。

 

 

 

自分の父母に対しても彼を探し求めた先で ー私が父の家にいることを

しらなかったのですか

という冷血ぶりwを示していたと思えば この有様であるという事ですw

およそ正覚者とはこのようなものでw 例え 死んでも寝ているのを起こすように

復活させられるとしても 根底にある菩提心において マリヤの誠実な涙や

周りの人の悲しみにおいて 思わず魂の呻(うめ)きを覚えられた

ということです この菩提心を

 

 

 

ー慈悲の心

 

 

 

とも呼びますが それがつまり

 

 

 

 

ー一切衆生を苦しみの輪廻から救いたいという本願

 

 

 

 

であるということです 後にその弟子にも裏切られ十字架の上で

 

 

 

 

ーこの者たちは何をしているのかわからないのです

 

 

 

 

とすべての人類の贖罪を嘆願するその姿は 十字架という菩提樹になり

未だにあまたの民をあまねく照らし その許しの波動を世界に伝導している

といえます  別府さんの本(天皇の龍)でイエスに関するこんな逸話があります

 

 

 

 

ー夢の中に 人が一対一で話している場面が様々出てきます

それぞれの場面で 人がどのような意識で話し 聴いているのか 

例えば 本意から話しているのか 本意から目を背けながら話しているのか

あるいは自己防衛の意識に占められて聴いているのか言ったことが

すべて私に筒抜けになっていました 場面の数は100を超えていたでしょう

 その中の一つの場面で極めて高度な意識を持った聴き手がいました

その人物に限っては 私は聴き手の意識に完全に入り込むことに成功しました

 入り込んでみると その聴き手は相手を見ている自分の視座だけでなく

相手の内側から自分を見ている視座を有しており 自分と相手との両者から

同時に物事を眺めていたことが判りました 相手の立場を思いやるも何も

最初から両者の中に同時に存在しているのです それも慈しみにあふれた

意識でもって・・・

 私からすると 彼のやり方は話を聴くことでさえ 生きる芸術です

ーこれがイエスです

と声がして 目が覚めました

 

 

 

およそ常人では及ばない境地ではありますがw 誰もがなろうと思えば

その道は開いているということで ーたたけよ さらばひらかれん

ー求めよ さらば与えられん ということです 

煩悩即菩提 とあるように 苦しみの道は救いの道である

それは隣人愛のように 路傍で倒れている異邦人を助けないことがあろうか

あなたが偉大な魂であるからこそ 煩悩は存在し あなたはやがて

菩提への道に至るとした時 あなたはただ目覚めて それを求めるだけで良い 

と知ることになるのです(イエスとブッダの果てしない慈悲に守られながら)

最後にヨガナンダの名言で締めくくります

 

 

 

 

 

 

ーしかし 人は 必ずしもあなたの言葉だけでなく その背後にある誠意と

実行力にも耳を傾けています 誠実な人の言葉には 世界が動かされます