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森羅万象をつなぐスーパーコネクターどろんnのブログ

あなたと森羅万象すべてをつなぎます!

意気 真心 義理 人情を大切にしていきたいです。

幸せ言葉
ついてる 楽しい 幸せです 愛します 許します 感謝します
ありがとう うれしい 
やってやれないことはない やらずにできるわけがない

みなさん ごきげんよう どろんnです

いつもいいね並びにフォローありがとうございます

明けましておめでとうございます

今年もよろしくお願いします

年末位から記憶が飛んでおりますがw

少しずつ戻ってきましたのでブログでも とwww

去年は開示と暴露の年でしたがw 今年は新たな歴史観と

生き方の再考の時代へと導かれている気がします

 

 

 

 

 

平安

 

 

 

いにしえより 語り継がれた 伝説にいわく

 

世の中が混沌し 人々に不和や争い

 

疑心が生じたとき

 

7頭の龍たち 天界より集まりて

 

合体し虹色の龍となりて

 

地上を平和へと導く・・・と

 

 

 

 

 

 

 天皇の龍という保江先生に感銘を受けた高知の教員の方が

書いた本に 今心工房さんの虹色の龍をテーマにした平安が

あるのですが 仏教世界で言う

 

 

 

ーミロクノヨ

 

 

 

の到来が 失われた縄文時代の再興という形で世界を再び

席巻し 一大ムーブメントとなる という今日のお話しです

 

 

 

今年はー辰年 ですが 古来より 日本の山と大地の地形を

なぞらえた龍神信仰や シャーマニズムが土着文化として

存在しており 熊襲や蝦夷など 渡来系で構成される大和朝廷に

追われるまでは そういったアニミズム文化と宇宙観が

存在していたとされます

 

 

 

しかしながら 西欧の中世に代表されるように 目には目を 

毒を食らわば皿まで といった権謀術数と支配の時代となり 

SNS文化に代表される ー妬み 嫉み ひがみ やっかみ 

というやり玉とそれを引きずり下ろす ことに執心する 

決して満たされない人々の構図が徐々に蔓延していったと

いえます

 

 

 

それはローマの剣闘士と同じで ある意味でーShow time の

催しとして 祭りの様な神事ではなく 個人の憂さの解消と同時に

国家利益や 相手の支配計画の為に 半ば恣意的にかつ効果的に

戦争やテロとして用いられてきた忌まわしき歴史が現在にも

引き継がれているということです

 

 

 

しかしながら 椅子取りゲームのように 搾取できる国も天然資源も

枯渇し続け 膨大な借金と紙幣の増刷 チェンジルールを駆使して

手を替え品を替え 平静を装ってはいるが 内心では誰もが

 

 

 

ーこれはとても続かない 持続 不 可能である

 

 

 

と悟っているものです しかし抜け出す術もなく 

事態は泥沼化と膠着を余儀なくされ 

 

 

 

ーもはや 変わらない 変われない

 

 

 

 

という厭戦ムードの停滞がこの地球の波動を覆っているということです

 

 

 

 

 

ー温故知新

 

 

 

 

ということわざがありますが 本当にこんな持続不可能な社会が誕生したのは

ー3千年瞬き という山陰神道の表 博耀さんの言葉を借りれば 一瞬のことであり

それはーアチマリカム の言葉にあるように

 

 

 

 

ー神様すいませんでした やってみたけれどうまくいきませんでした

もう一度お姿を現し わたしたちを再び導いて下さい

 

 

 

 

という すべては陰と陽の世界の繰り返しとすれば ー陰の時代の終焉 を

今時代の節目として 人類は目の当たりにしている ということに

気が付きます

 

 

 

 

 

ー有り難し   そして

 

 

 

 

失い 再び手にする

 

 

 

 

 

神の分け御霊の成長という 永久機関のサイクルの中で

この手法が効果的に用いられてきたと知ります

人類の手によって痛められた地球が 再び再生の期間に

入るようにです

 

 

 

 

表さんは ー皆さんがこの地球 日本に生まれたのは

ただわいたわけじゃないとぼくはいっておるのです

皆さん 一人一人が 使命を持って 目的をもって

生まれてきたといっておるのです

そして今それを思い出して それを当たり前のものとして

生活してほしいといってるのです

 

 

 

 

日本人に脈打つ龍の血は 偽りや騙し という体裁や

建前を嫌い ー己として使命を果たす という自覚の下に

それに呼応して目覚め 本来の生命力を存分に発揮するという

ことです

再び各々にその血が目覚めたとき 来る世界の道しるべとなり

日本人を模範として 新たな夜明けを人類は再び迎えることが

できるように思います

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ごきげんよう どろんnです

いつもいいね 並びにフォローありがとうございます

Amebaのブロガーのパートナーがいて 他愛もない

メッセを送る(一方的w)のですが たまに以前投げた球が

宇宙を通じて 思わぬ方向でズバーンとキャッチャーミットに

ダイレクトで返ってくることがありますポーン

彼女の持つ聖母マリアの導きと慈しみと忍耐の加護を得て

おっさんは今後も不思議な事象と果てしないひらめきを

皆さまにシェアしたいと思いますおねがい

 

 

 

そんなパートナーに紹介された

 

 

ープルーフオブヘブン

 

 

というエベンアレクサンダー博士の実質脳死の状態で見た

臨死体験の話しがあるのですが これまで左脳的に考えて

死後の世界などないと 切り捨てていた人が反対に

 

 

ー死後の世界の証明へと駆り出されることになったw

 

 

という面白い出来事になった訳ですが 丁度

脳と意識の関係性で臨死体験を例えると

 

 

ー左脳(分析 過去未来 自分)の時間と空間の制約がなくなり

右脳(原子脳 今 無限)の世界があらわになった世界

 

 

といえ 本来宇宙に匹敵する人間の意識は

 

 

ー狭い空間と時間という体に押し込められている

 

 

と知ります その中で左脳よりの現代人の思考は

 

 

ーテープレコーダーのように恐れや行動しない理由という

心の声を繰り返し そこに意識の大半のエネルギーを遣う

 

 

というジレンマを抱えつつ それでも頭(論理)で解決しようと

もがくものです

 

 

 

しかし 灯台下暗しの様に その左脳の声の覆いを何らかの

理由で取り払った時 そこにあるのはネバーランド

(境界なき世界)だった とした時

 

 

ー自分(左脳)がこの世界で成し遂げようとしている夢や現実

(ないし恐れ)など取るに足らないものであった

自分はゼロの存在であり 無限の彼方までその意識の裾野を

広げ あらゆるものはエネルギーで繋がっている

 

 

丁度映画フックでロビンウィリアムズ演じるピーターの妻が 

けたたましく鳴り響く会社からの携帯(左脳の声)を棄てるシーンは

象徴的といえます

 

 

 

 

私たちは自分の環境にあるものをインプットして 自分の世界と

いうモノをつくりあげています 一人ひとりが別々に自分の世界をつ

くっているというのに なぜかみんな同じ世界にいると錯覚しています 

だから わかりあっているつもりになって
わかりあえなければ ー裏切りだ とまで思います

 地球というのは不思議な場所で  みんなと同じ世界を生きるために

生まれてきたはずなのに 一人ひとりが違う世界を引き受けたまま 

そこから逃れることが出来ない現実を抱えています

 自分の人生をさらっと眺めた時に ーああ 自分は機械なんだ 

という自覚はあるでしょうか? 機械のところでしか生きていない 

インプットしたもので反応するところでしか生きていない という

自覚です その自覚があれば まだいいほうだと思います
 
 人と人が 自分という存在の奥深くまで響き合うことなく

生きること まるで機械と機械がコミュニケーションしているように

生きること 感性ではなく反応だけで生きることを
ー催眠状態 と言います
 
 カセットテープレコーダーにたとえてみると わかりやすい

かもしれません
 はじめて言葉を獲得したとき 人は自分の内側から出てきた言葉を

声に乗せて会話をしていました 今は 相手に会った瞬間 

レコーダーのプレイボタンをガチャっと押して
ーこんにちは と言っているのです 互いにレコーダーで

対応しているので 相手の言うことなど聞いていません 

それぞれが録音したものを流し合って終わりです

 本当の会話をしたいと思っても したいという思いだけで終わって 

実際にそこから何かが生まれることはありません 

テレビの討論番組でも 最初から最後まで意見が
変わらないのはそういうことのあらわれでしょう

 本当のコミュニケーションとは人と人が出会い 自分の思う所を

口にし それを受けて相手も自分の思う所を口にし そのうちに 

自分が解けて 相手も解けて ともに変わることです 

 

より価値の高いものにー物事を変質させる力(アルケミー)が
起こるところに 人と人が出会う本当の意味があるのです
外側のインプットされたものが自分だ という錯覚から覚めると

ー自分はどこから来たのだろう? 

という感覚をぐっとつかむ段階がやってきます そこまでくると
自分の意識が二か所あることに気づきます 

 


 一つは 内側をしっかり実感しながら 外側という物質的な

世界もあるという実感 もう一つは まったく形のない世界の知覚です 
 


 ー内側を実感しながら 外側の物質的な世界を見ている 

といっても 通常私たちの意識は一方向(シングルアクション)

になりがちです 
 つまり ー内側の世界だけを見ているか あるいは 

ー外側の世界だけを見ているかのどちらか一方の状態で生きています
 それがきちんと二方向(ダブルアクション)に向くようになると

 つまり 
ー外側の世界を見ると同時に 内側の世界を見る ことが

できるようになると
その向こうにー形のない世界 が立ち現れてきます

 そのとき 目の前に展開するのは物質的な世界でも 自分が

ここにいるということは形のない世界があるからだ と気づきが訪れます
 そして ドラマではない本当の世界が立ち上がると同時に 

たとえば算数の約分をして八分の四が二分の一になると気持ちが

いいように スカッとした感覚におちます
 
 言葉にすると難しいですが 悟りを開くというのは 

二つのアテンションのバランスが完全にとれたときに 

主体も対象も落ちるという感覚です
 それはときどき垣間見る覚醒体験とは別の体験で 

ー唯一存在 即 唯一非在
というものです
 その世界が立ち上がった時に 人生を生きるとは 物質の世界と

形のない世界をつなぎながら 本来の存在で生きるものになります

 

                                                         ー時空を超えて生きる Kan

 

 

 

 真の自分というのは 自覚している意識のこと(顕在意識)

ではありません

意識のほとんどが潜在意識ですが 潜在意識は自覚することが出来ません
 では どのように 真の自分と向き合ったらよいのでしょう 

瞑想も悪くないのですが それよりもー自分の周りがどうなっているか 

を見るのが手っ取り早い方法です
 
 自分の環境 周囲の人々たちの態度などはー自分自身 より

距離があるのでエゴの影響が弱くなります 
 現実は真の自分の投影ですから 真の自分は自分の中から探すより 

外側から探した方が見つけやすいかもしれません
 
 周りを見ることと 内観することをバランスよく交互に

やることが必要ですが悩んでいる時や八方塞がりのときは 

自分の殻に閉じこもっていることが多いと思いますので 

そういうときほど外側の世界と向き合って見てください
 外側の世界は あなたの意識の投影ですから

 例えば 他人の態度とか それに対する自分自身の心の反応
置かれている環境と それに対する自分自身の心の反応
自分が興味のある動画やニュース 小説などの物語 それに対する

自分自身の心の反応 などです 

 

 

あなたの周りにいる人やもの 遭遇する出来事など それらすべては

あなたとご縁のあるものなので そのご縁があなた自身です
 あなたという存在はエネルギーで 実体がありません あなたは

他との関係(ご縁)によって定義されます

 二章で私が認識しているー私という存在は わたしという

実体ではなく 他人の波と自分の波が衝突したところである 

という説明をしました ここではそれを言い換えています
 すべてはあなた自身が何かに気づくために あなたの潜在意識が

引き寄せていることなのです
 すべては高次のあなたが望んでいることなのです この事実に

納得がいかなくても仮定でもいいのです

 仮にー目の前の現実すべてが 高次のあなたが望んている

ことだとしたら それは何のために起きているのか ということに

気づいていくと 直面している悩みや苦しみから解放されます
 ーなぜ自分に必要なのか に気が付くことが出来れば 執着から

解放されて選択肢が増えたり 具体的な解決策に気づくことができます
 ただ あまり深く傷ついていたり 辛い場合 現実逃避することは

悪いことではありません タイミングが来たら ちゃんと気づくように

なっていますし なるようになりますので無理をすることはありません

 

                                                 ー終わりなき魂を生きる 月夜見

 

 

 

リコネクション エリックパールより

 

 

ーその後ある種の堕落 僕たちを愛と幸福の中で一つに
結び付けてくれていた諸力からの離脱 ーが起こった
 ー分離
 ある人たちは この出来事がエデンの園に起因するとしている
 またある文化は これはそれよりも前のある時点に起因する
としている わずかに内容が異なることはあるが この話は
世界共通で 人類の集合的無意識の中に閉じ込められ 僕たちの
遺伝子に刻み込まれている

 程度に差はあるが リコネクション現象は 内在する記憶の中で
この黄金時代に僕たちを連れ戻し 僕たちがすべての生命と深く
つながっているという原初の感覚に結び付けてくれる しかしながら
それは単に時代を逆行するというだけでなく 新たな何かに向かって
前進することでもあるのだ ヒーリングはこの全体性から

やってくるのだ
 それが真のヒーリングであり 進化的ヒーリングなのだ

 ー全体だった そのため 僕たちをリコネクトさせる特定の周波数は
必要ではなかったのだ 最初からずっと僕たちに備わっていたものは
この種の周波数を受け入れ それに順応することができるレベルまで
集合意識を高める能力なのだ ついに僕たちの集合意識はそのレベルに
達し 宇宙が それらの周波数を公開する時間は今だと決めたのだ

 僕たちはみな この新しいヒーリング周波数を運ぶ能力を持っている
 グルとか 聖人 聖女といった少数の選ばれた人たちだけに与えられる
能力ではないのだ その能力はこの時代の贈り物であり 僕たちが
導きのために必要とする知性や叡智はすでにちゃんと用意されている
 人類として僕たちが入っていこうとしている周波数レベルでは 

真実でないものはそれらの振動(波動)と同調することが

できないばかりか
 密度が高すぎて それレベルにとどまることができずただ離れていく
ことなるだろう


 ー分離の感覚は癒され 迷信は解き放たれるだろう


 非常に多くの恐れがどのようにして愛と美の儀式に見せかけて

やってくるのかを認識することにより恐れから抜け出すという 

ワクワクするようなプロセスに僕たちは乗り出しているところなのだ

 

 

エゴはまた 物事をあるがままに正しく評価する能力の中に そして
正しく評価することがヒーリングにおいて 僕たちの役割であると
認識する能力の中にー入り込んでくる
 僕たちがすでに完全・完璧な状態で現れているものと交流している

ことを認識するときー完成しているものに手を加えたい という気持ちは

なくなるだろう

 その完全性に手を加えようとすること 何かー加え ようとすること
ー改善しよう とすることはそこに顕現しているものを僕たちから
そしてその完全性から どんどん遠くへ押しやってしまうことに

なるだけだ

ーこれは自分の内部に基礎を置く(すなわち主観志向の)かわりに 

自分の外部に基礎を置いた(すなわち客観志向の)自尊心の表れである

僕たちはこのような人を知っている そのような人は 自分は重要だと

感じるために 何かに変化を起こさずにはいられないのだ 

変化そのものに内在する価値のためにではなく 

ー良くなったこと を見せるために 何かに対して自分が行ったことの

効果の外的証拠を得て 願わくばそれを他の人たちに
認めてもらわんがために これは僕がー霊的に人を出し抜く術 と呼ぶ
エゴの形態だ

 

 

感傷的な愛は リコネクテイブ・ヒーリングを仲介する愛ではない
 そのような愛は 宇宙を創造している愛の本質からほど遠い
 死後の世界を体験した人で その体験そのものがー愛 である
ことを理解できるレベルまで行った人に聞いてみるといい

 これらのヒーラーたちは 愛を甘言と勘違いしているのだ
 それはホルモン性の愛でもなければーあなたがいなくてはダメ
式の愛でもなければ 目を潤ませてーお気持ちをお察しします
式の愛でもない それはすべてのものを包容する創造と意識の
愛なのだ それはあなたがエゴから抜け出し 脇にしりぞき


ー観察するものと観察されるものの両方になれる


ようにしてくれた それにより患者にも恩恵をもたらす愛なのだ
 それは身体を創造したパワーにその身体を癒させてあげる愛だ
 そのとき 変容が起こる そのとき 光と情報が流れる これが愛だ

 ー愛を体験する準備ができる前に恐れをすべて手放す必要はない
あなたは恐れを腕に抱えたまま愛の中に入っていくことができる
 ひとたび愛の中に足を踏み入れれば 恐れは幻想である本性を
現し 愛だけがそこに残るのだ

 

 

 

 

 ヘリゲルの師 阿波研造が的を射る時に 射ようとする自分も

これから射る的も ー滅び ただ放たれた矢が 闇夜の静寂を

切り裂き 吸い込まれるように的の中心へといざなわれた

 その射(しゃ)を得たのは何のためだったか?

という野暮な質問は もはや宵闇のその厳粛な空気の中で 

ただ頭を下げ それに謝を示す 阿波の後ろ姿をもって

察しなければならないものであろう     by どろんn

 

 

 

 

一九二〇年( 大正九年) 、四十一歳の時に阿波は、決定的に

エキセントリックな体験をする

次のように表現している。 「 大爆発」を経験する

 

阿波は ある深夜、家族も寝静まり、四周は寂として音なく

月が穏やかに夜の闇を照らすのを見るだけである

研造は一人道場に入り、

愛用の弓矢とともに静かに的前に進んだ。

 

決意があった

肉体が先に滅びるか、精神が生き残るか。

 無発。統一 。

一歩たりとも退かぬ覚悟の射であった。

 

苦闘が続く。肉体は既にその限界を越えた。

わがいのちもここに究まる。

 

 

 

遂に滅びた。

 

 

 

と思ったとき 天来の妙音が響いた。

 

天来と思ったのは、これまで自分にも耳にしたことのない、

もっとも澄明で、もっとも高く強い弦音であり的中音であった。

 聞いたと思ったと同じ瞬間、自己は粉微塵に消し飛んで、 

 目も弦む五彩の中、天地宇宙に轟々たる大波紋が充満した

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ごきげんよう どろんnです

いつもいいね並びにフォローありがとうございます

近年はパンデミックなどで 異常気象 天変地異が逆に

日常化していて また市井の台所事情はインフレや政府の

増税するかもしれないw という真綿で首をしめられている

ような日常が続きますが 各地で資本主義のほころびが

垣間見られている中で これまでの物質至上主義という

ー持続不可能 な社会から ー持続可能な社会 へ

というパラダイムシフトを人類は危機感を持たなければ

ならない時に差し掛かっているのかもしれません

 

 

 

 

 

陰陽師の世界でいえばこの世界は 

 

ー念 

 

というエネルギーが取り巻いているとされます

 

多くの場合 人は馬鹿にされたり 年齢的な焦りが生じると

 

ープラスの念よりも強力なマイナスの念が起こり 

プラスの念よりも強力で一瞬の内に燃え広がり執拗に消えない

炎のような念を生じます これらを

 

ー執念

 

とも呼んだりしますが 人間が願望を成就する中でそういった

マイナスの念を取り込んで エネルギーにする性質は古今の

歴史を見ても枚挙に暇がないということです

 

 

それはウクライナの戦争にあるように 過去の歴史における

屈辱と理想の実現のために多くの人が ある一人の野望の為に

犠牲となり それはまるでその炎が燃え広がり 大陸を飲み

焼き尽くすまで終わることはありません こういった姿勢は

 

ー持続不可能な社会 

 

といえます 

 

 

 

イエローハットの鍵山秀三郎さんは

 

ー会社の利益だけを上げれば何をしたっていい そういった

会社は世相を悪くし 働く従業員の心を荒廃させ

そんな会社はとても続かない とおっしゃられます

 

では持続可能な社会とは何か とした時に

まず浮かぶことは

 

 

ー足るを知る者は富む 足るを知らぬ者は貧しい

 

 

という老子の言葉です 例えば 

 

全員が一人腰掛けられる椅子があったとして それを

全員が一人が腰掛けられることだけを願えば それは実現します

 

しかし 誰かがそれを奪ったり 仲間内でそれらを

牛耳れば たちまちの内にその場は地獄と化します

 

 

鍵山さんの話しで 戦時中にやかんに入っただけの水をその日一日

兄妹で回し飲みしなければならないときに 自分は少しだけ飲んで

あとは譲ったとあって ー忍耐と我慢をして しかしながら

その心は豊かであったというのを思い出します

 

ー耐え忍ぶ心がなければ 世相を確実に悪くします

 

と述べられますが 鍵山さんにとって

 

ー今日食べる食事や水という物質よりも 家族の命を繋ぐ為に

自らを使役し我慢するという美徳の中に 普遍的な命題を

見つけます それはイエスの最期の晩餐のようにです

 

 

ー分け与えられたものはパンではなく

イエスの永遠の命を分け与えられた

 

 

つまり これが今回のタイトルになる 

 

ー精神世界がリアルになる時 というお話しです

 

 

ある聖者が当時世界を飲み込まんとしていた

アレクサンダー大王に述べます

 

 

ー早晩死ぬ身のアレキサンダーは 決して神などではない 

 

ー自分の内なる国土の支配者にもなれない男がどうして世界の

支配者になれよう?

 

彼はまだ 生きながらに黄泉の国へ行ったこともなければ 

この地球の域をはるかに

超えたあの大空の太陽の軌道についても何も知らぬ
この地上でさえ 大部分の国では彼の名前など聞いたことも

ないではないか

 

続けてヨギは神とはどういうものかを語ります

 

ー至高の王である神は 不遜な悪の創造者ではなく 

光の創造者であり また 生命や 水や 人間の肉体や 

魂の創造者だ その神は人が死によって解放されたとき 

すべての者を 不幸や病のない国に迎え入れて下さるお方だ
それ以外に私の崇める神はない 神は殺戮を憎み 戦いを

仕掛けるようなことは決してなさらぬ

 

 

当時世界を征服することが至上である思っていたアレクサンダー

大王に ある一人のヨギーがその不遜な態度の支配者に

一喝します 

 

ー自分の内なる国土の支配者にもなれない男がどうして世界の

支配者になれよう?

 

 

 

これも鍵山さんの話しで 

 

ー戦時中は疎開先で割り当てられた作物のあまり実らない

畑で両親は日が明けないときから せっせと働きに出かけて行った 

愚痴も泣き言も言わないで 子供たちの為に懸命に働く

うしろ姿を思い出しては合掌します

 

されど 懇切丁寧に真心を込めて作った畑も台風や

嵐がくれば 一瞬のうちに苦労も水の泡になります

 

ーこの秋は 雨か嵐か知らねども 今日のつとめの 田草取るなり

 

という言葉がありますが 鍵山さんは

 

ー見返りを求める姿は人を駄目にします この作物のならない

畑があったからこそ 今の自分があります と述べます

 

 

つまり この世界の目に見える代償を見える限り欲した

アレクサンダー大王と

自然の中で 見返りを求めない姿勢を手にした鍵山さん

いよいよそのリアルの違いが見えてきました

 

 

 

二宮尊徳は

 

ー翁はこう言われた

天道は自然である 人道は天道に従うけれども また人為である

人道を尽くして天道に任すべきである 人為をゆるがせにして天道を

恨んではいけない 庭前の落葉は天道である 無心に日夜積もる

これを払わないのは人道ではない 払えばまた落ちる それに心を煩わし

心を労し 一葉が落ちれば 箒を取って立つなどは 塵芥のために

使い立てられるというもので 愚かな事だ 木の葉の落ちるのは天道

である 人道をもって毎朝一度は払うがよい しかしまた落ちても捨て

置いて 無心の落葉に使い立てられてはいけない また人道をゆるがせ

にして 積もり放題にしてはならない これが人道である 愚人であろうと

悪人であろうと よく教えるがよい 教えて聞かなくても それに心を

労してはならない 聞かないからと言って捨てることなく 何度でも教えるが

よい 教えてもその通りにしないからと言って憤慨してはいけない 聞かない

からといって捨ててしまうのは不仁である 教えてもその通りにしないからと

いって憤慨するのは天智である 不仁と不智とは徳者の恐れる所である

仁・智二つを心がけて 自分の徳を全うすべきだ

 

 

勘のいい人はわかるとおもいますがw 精神世界のリアルとは

ー禅 の心得であると解きます 弓と禅では

 

ーあなたは意志をもって右手を開く。つまりその際あなたは
意識的である。あなたは無心になることを、矢がひとりでに
離れるまで待っていることを、学ばなければならない。

 

 

それはイエスの

 

ー自分の義を、見られるために人の前で行わないように、

注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの

父から報いを受けることがないであろう。

 

 

 

ーイエスはこの無心に仕える心をー僕 と呼びますが

尊徳はそれをー勤め と述べます

 

 

 

ー翁はこう言われた 

人道は人がつくったものである だから自然に行われる
天理とは別である 天理とは春には生じ秋には枯れ 火は乾いたものに
燃えつき 水は低い所に流れる 昼夜働いて永遠に変わらないものである
人道は日々夜々尽力を尽くし 保護して成り立つ それゆえ天道の自然に
任せれば たちまち廃れて行われなくなる だから人道は 情欲のままに
するときは成り立たないものだ たとえば 漫々たる海上には道がないよう

だが船道を定め それによらなければ岩にふれる 道路も同じこと 自分の

思うままに行けば突きあたる 言語も同じ 思うままに言葉を出せば 

たちまち争いを生ずる
 そこで人道は 欲を押え 情を制し 勤め勤めて成るものだ うまい食事
美しい着物が欲しいのは天性の自然だ これを押え それを忍んで家産の
分内にしたがわせる 身体の安逸 奢侈を願うのもまた同じことだ 好きな
酒をひかえ 安逸を戒め 欲しい美食・美服を押え 分限の内からさらに
節約し 余裕を生じ それを他人に譲り 将来に備えるべきだ これを

人道というものである

 

 

 

かくも現代人は文明も発展し使える時間も増えたのに やれスマホだ

やれ鬱だ と忙しそうですw しかし 瞑想もそうですが 無心で

一点に集中する中で 余計な迷いやおごりが取れて  

ー余裕 や ースペース が出来て そこに ーひらめき や 

ー開運 がもたらされます

 愚痴を言う人は年がら年中愚痴ってw 自分の心をそれで埋めつくして

およそ何もできません

 それは良い方向に導こうとする神がいても 一切耳をふさいで聞こえない

ようにしているかのようです しかし

 天国地獄胸三寸 とあるように 心の浄土とは自らの心の在り方次第

今その心が地獄であれば 二元論で言っても確実に天国が同時に存在しています

 それには心の余裕という人への献身がなければ とても見つけることのできない

灯台下暗しなものであります

 以前ホームレスと背広のサラリーマンに 服につけたお金を取ってもいいと

した企画があって ホームレスは今日一日必要なお金を取り サラリーマンは

あーでもないこーでもないと支払いがあるからと いっぱい取っていったのを

見た時 さもありなんと思ったものです

 そのホームレスは仲間で困っている人間にそのお金を使い サラリーマンは

自分の月々の支払いにお金を使った時w どちらが人生の勝者で余裕が

あるかは言うまでもない気が致します

 時間がない まだ足りない と周囲に騒ぐ前にw

 あなたの座った席を譲ったり 寄ったりしてあげた時 あなたの心は

今豊かで余裕があると知るのです