イエスの菩提心 | 森羅万象をつなぐスーパーコネクターどろんnのブログ

森羅万象をつなぐスーパーコネクターどろんnのブログ

あなたと森羅万象すべてをつなぎます!

意気 真心 義理 人情を大切にしていきたいです。

幸せ言葉
ついてる 楽しい 幸せです 愛します 許します 感謝します
ありがとう うれしい 
やってやれないことはない やらずにできるわけがない

ごきげんよう どろんnです

いつもいいね並びにフォローありがとうございます

三寒四温と言うが もはや何回なってんねん笑い泣き

と突っ込みながら 夜も明けきらない時間(始発電車w)に

毎日通勤しておりますが 今年は色々と急激の変化と

その対応に明け暮れそうであると 予言めいたことを

書いておいて 覚悟しております笑い泣き

 

 

 

 

 

 

ー天上天下唯我独尊

(釈尊がルンビニー園で誕生なされたなり七歩歩いて右手で天を指し、
左手で地をさして上記のお言葉を仰った)






ー旅人に尋ねてみた 何処まで行くのかと いつになれば終えるのかと
旅人は答えた 終わりなどはないさ 終わらせることは出来るけど
 そうじゃあ お気をつけて と言ったのは ずいぶん前で
彼は未だ還らない 彼が僕自身だと知ったのは 今更になってだった

               (ポルノグラフィティ アゲハ蝶)

 

 

 

 

 

 

 

 最近は量子物理学の世界でも 宇宙=意識 というものが 少しずつですが

その関連性が明らかになっていますが シュレディンガーのように

 

 

 

ー観察者がその粒子の振る舞いに影響を与える

 

 

 

というのは 意識が宇宙と密接に関わり合っているのを見て取れる例の一つ

であるといえます

 

 

 

 また 法華経においても 自らの意志や行動 思考が その世界を救う

とあり まずは その世界の成り立ちである宇宙を瞑想することにより

少しずつ 自分(意識)というものを奥深く知り その使命を知る

というものがあり またよくある禅の問答で

 

 

 

 

ーあなたが死ぬば その宇宙(世界)は滅ぶか

 

 

 

 

という問いに対して    ーその通りだ

 

 

 

とあり 

 

 

 

ー人間の死は 一つの宇宙の終わりである(生じたものは必ず滅する)

 

 

 

と 一人一宇宙 の定義を暗に意味しております

 

 

 

 

ーこの会場にたくさんの人がいますけど 実はみんな違う世界に
いるんですよ  一人一宇宙なんです
 出会っているように思うのは みんなでルールを一緒にしているからです
 共通のルールでやっているから お互いが出会ったように見える 
同じ世界の中にいるように見えるけれども 違うんです 皆宇宙なんですよ
 そして それぞれのことを体験しているんです
 そして出会っている それがこの時代の特徴です


 まったく別の所から語ると ー私 という存在もありません
3次元を歩いているー私 は 名前を付けられ 物心ついたことにそれを
受け入れたー私 です 確実に周りによってつくられ アイデンティティを
もって生きています そうすると みんながいることで社会が成り立っている
というのは非常にあいまいな話になります 外の世界を見ている人など
本当は誰一人としていないのですから
 たとえば 部屋にいる人たちにー観葉植物はどこにありますか? と聞くと
目の前にある観葉植物を目指して ーここにあります と言うでしょう
 目の前の観葉植物を認識しているのは 彼らの脳です 観葉植物を
見ているつもりでも 実際には 彼らの瞳のレンズを通して入ってきた映像が
視神経で信号になり 後頭部にスクリーンの座があって そこに再映像化して
いるにすぎません 人間は構造として 自分の脳にあるスクリーンに映った像しか
見ることが出来ないのです

 つまり 私たちは認識でしか世界をとらえていません 実際には見ていません
ということは 世界は一人ひとりの中にしかないことになります それなのに
なんとなく一つの世界を共有して生きている様な錯覚を起こしています
言語を介してコミュニケーションをしているつもりになっているけれど その実
お互いに全然かすってもいないのです
 重要な仕事を請け負ったり 重要なポジションについている人が ーここで死ねない
私が死んだら 明日 この仕事はどうなるんだ などという事がありますが
実際の所 その人が亡くなれば 世界そのものが消えます もっと言うと
その人が亡くなれば 宇宙が消えます 
 ーいや 私が死んでも家族は残るし お葬式だってある という反論もあるでしょうが
それは残された側の認識の世界で続く話であって やはり自分が亡くなれば 
宇宙はなくなるのです つまり 一人一世界 が消えます
 
 その意味からすると 世界の起源とはどういうことでしょう?
たった一つの認識が生まれた所 それがすべての起源とは言えませんか?

                     (時空を超えて生きる 他 Kan.)

 

 

 

この話を聞いて 思い出すのは 超新星大爆発 などにより 既に亡くなっている

星の光が 夜の星空に浮かび 現在生きている人間の網膜に映って ーその存在はある 

と錯覚している という有名な話しです

 

 

つまり ー既に存在していないものが あるように見えている

 

 

また 仏教の教えにあるように およそ

 

 

 

ーないもの(空)が あると錯覚することこそ 人間の苦しむ因である

 

 

 

これが 四聖諦(苦諦 集諦 滅諦 道諦)となり 

 

 

 

ー人は生まれながらにして 病 老 死 の苦しみから逃れられることができない

 

 

 

それは本質的にはーある と思っている粗雑な肉体が やがて時を経るにつれて

エントロピーの法則により カオスになっていき やがて土に帰る という

理は何人たりとも 逃れることは出来ず 避けようがない事実である 

ということです  ゆえに最終的には

 

 

 

 

ーその輪廻世界から逃れること(解脱)を勧める ブッダの菩提心の話しになります

あるブッダとの問答として

 

 

 

ーこのように絶妙な見者におたずねしようとここに来ました どのように世間を

観察する人が 死王はみることがないのですか? 

ブッダは答えた

ー常によく気を付け 自我に固執する見解を打ち破って 世界を空なりと観ぜよ

そうすれば死を乗り越えることが出来るだろう このように世界を観ずる人を

(死の王)は見ることがない

 

 

ここで大事なことは それは

 

 

 

ー肉体的な目で見ることではなく 心の澱みない眼でもって 物質界を観想し

その執着の輪廻を断ち切りなさい

 

 

 

ということです 

 

 

 

ー人間とは 見えるから罪を犯す 

 

 

 

ともいえます  

 

 

 

ー攀念智(はんねんち)

 

 

 

とも言いますが ネットの掲示板やコメント欄を見れば明らかですが

 

 

 

人を告発する者 人を蔑む者 人を羨む者 人を裁く者

 

 

 

といったおよそ 魑魅魍魎が跋扈した空間が展開されていますw

 

 

彼 彼女の認識は永遠に生きる者として その認識を悪戯に見える対象に

自らを差し置き 批評批判して その実 世間一般では箸にも棒に懸からず 

孤独で誰も相手にしてくれない存在である という まごうことなき事実は 

永遠に変わらない ことを 実際問題として本人はどこかで認識しているものです

 

 

 

ー粗雑な肉体を持つ人間が その心も粗雑なままにエントロピーにより

カオスになっていく様(さま)を果たして誰が見たいか

 

 

 

というw 死霊 生霊世界が脳内に勝手に展開されますがw 

ではどうするかとすれば ブッダが述べるように

 

 

 

 

ーこの宇宙(意識)を知りなさい そして その宇宙に対して偉大な魂として

責任(菩提心)を持ちなさい

 

 

 

 

この菩提心の話しとして イエスのラザロの死と復活がありますが

 

 

 

 

ーマリヤは、イエスのおられる所に行ってお目にかかり、その足もとに

ひれ伏して言った、

「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は

死ななかったでしょう」。 

イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのを

ごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、 

「彼をどこに置いたのか」。彼らはイエスに言った、

「主よ、きて、ごらん下さい」。 

イエスは涙を流された。 するとユダヤ人たちは言った、

「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」。

 

 

 

自分の父母に対しても彼を探し求めた先で ー私が父の家にいることを

しらなかったのですか

という冷血ぶりwを示していたと思えば この有様であるという事ですw

およそ正覚者とはこのようなものでw 例え 死んでも寝ているのを起こすように

復活させられるとしても 根底にある菩提心において マリヤの誠実な涙や

周りの人の悲しみにおいて 思わず魂の呻(うめ)きを覚えられた

ということです この菩提心を

 

 

 

ー慈悲の心

 

 

 

とも呼びますが それがつまり

 

 

 

 

ー一切衆生を苦しみの輪廻から救いたいという本願

 

 

 

 

であるということです 後にその弟子にも裏切られ十字架の上で

 

 

 

 

ーこの者たちは何をしているのかわからないのです

 

 

 

 

とすべての人類の贖罪を嘆願するその姿は 十字架という菩提樹になり

未だにあまたの民をあまねく照らし その許しの波動を世界に伝導している

といえます  別府さんの本(天皇の龍)でイエスに関するこんな逸話があります

 

 

 

 

ー夢の中に 人が一対一で話している場面が様々出てきます

それぞれの場面で 人がどのような意識で話し 聴いているのか 

例えば 本意から話しているのか 本意から目を背けながら話しているのか

あるいは自己防衛の意識に占められて聴いているのか言ったことが

すべて私に筒抜けになっていました 場面の数は100を超えていたでしょう

 その中の一つの場面で極めて高度な意識を持った聴き手がいました

その人物に限っては 私は聴き手の意識に完全に入り込むことに成功しました

 入り込んでみると その聴き手は相手を見ている自分の視座だけでなく

相手の内側から自分を見ている視座を有しており 自分と相手との両者から

同時に物事を眺めていたことが判りました 相手の立場を思いやるも何も

最初から両者の中に同時に存在しているのです それも慈しみにあふれた

意識でもって・・・

 私からすると 彼のやり方は話を聴くことでさえ 生きる芸術です

ーこれがイエスです

と声がして 目が覚めました

 

 

 

およそ常人では及ばない境地ではありますがw 誰もがなろうと思えば

その道は開いているということで ーたたけよ さらばひらかれん

ー求めよ さらば与えられん ということです 

煩悩即菩提 とあるように 苦しみの道は救いの道である

それは隣人愛のように 路傍で倒れている異邦人を助けないことがあろうか

あなたが偉大な魂であるからこそ 煩悩は存在し あなたはやがて

菩提への道に至るとした時 あなたはただ目覚めて それを求めるだけで良い 

と知ることになるのです(イエスとブッダの果てしない慈悲に守られながら)

最後にヨガナンダの名言で締めくくります

 

 

 

 

 

 

ーしかし 人は 必ずしもあなたの言葉だけでなく その背後にある誠意と

実行力にも耳を傾けています 誠実な人の言葉には 世界が動かされます