徐福は和国の王になるため出雲王をテロ暗殺
■徐福集団渡来紀元前219年頃に出雲王国に徐福集団が渡来してきた。●石見の海岸(五十猛海岸)に見たことがない数十隻の大船団だった。秦国から来た渡来集団は千数百人にのぼった大渡来集団だった。アリの隊列のように次々と上陸した。秦から来た彼らは、高級機織りの技術を持っていたので秦(ハタ)族と呼ばれた。その当時の出雲王国のオオナモチ(主王)は、西出雲王国・神門臣家の第八代出雲国王の大国主であった。またスクナヒコ(副王)は東出雲王国・富家の事代主であった。徐福は出雲王国では、和国風の名前としてホアカリ(火明)の名前を使った。●大屋の地に屋形を構えていたが、大国主の娘・高照姫を奥方として迎えたい、と希望した。神門臣家と親しくなっていた渡来系の通訳が、その旨を伝えた。大国主はそれに応じることを決められ、高照姫は大屋の屋形に輿入れした。■大国主の后・八上(やがみ)姫大国主は稲葉(因幡)国からも八上(やがみ)姫后を迎えた。その出身地(鳥取県河原町曳田)には、延喜式内社で八上(やがみ)姫神社と呼ばれたことのある●売沼(めぬま)神社が鎮座し、八上(やがみ)姫命を祭神としている。八上(やがみ)姫は、豪族・曳田家の娘だった。社の南方に古墳があるが、被葬者は曳田家の人だと言われる。その一族は豪族として永く栄えたものと思われる。島根県斐川郡斐川町の●「湯の川温泉」では、八上(やがみ)姫が、ここの湯に入ったと伝えられ、それで「美人の湯」の名前がついたと言う。斐川町直江には、●御井神社が鎮座していて、祭神は八上(やがみ)姫がお生みになった木俣(きまた)姫(下照したてる姫)となっている。その姫は、「安産の守り神」として崇拝されている。社の西方には、彼女が産湯に使ったとて言われる井戸がある。下照(したてる)姫は、伯耆国のタテハヅチの嫁になった。伯耆一宮の倭文(しとり)神社(鳥取県湯梨浜町宮内)には、この夫婦神が祭られた。社の名は下照(したてる)姫が人々に、倭文(しとり)織りを教えたことに依る。■出雲両国王同時暗殺テロ事件その後に出雲では徐福が出雲王国内を震撼させる事件、を起こしたため直接、徐福にまつわる遺跡等は、残されていない。仮にあったとしても、そんな縁起の悪いものは壊され、撤去されているはずだ。ただ徐福が高照姫との間に生まれた、五十猛に因むものは、残っている。まず徐福集団が上陸した海岸は●五十猛海岸になっている。近くに●五十猛神社もある。出雲空港に北方には、徐福と一緒に来た海童集団が住みついて、今でも海童として来日たことを伝えている●海童神社がある。徐福は大国主の娘・高照姫を妻にもらっておきながら、とんでもない事件を起こす。出雲両国王の同時暗殺テロだった。徐福は和国の王になるため、始皇帝を騙して出雲王国にやってきた。和国の王になるためには、大国主の代わりに自分がなるのが手っ取り早いと考えた。その事件の現場■粟嶋神社 非業の事件現場の一つが●粟嶋神社である。粟嶋神社は現在、陸続きであるが、当時は島だった。江戸時代末期に埋め立てられ陸続きになった。東出雲王国・富家の事代主は●王ノ海(中海)をわたり、島根半島の東端に住まわれたの妃のヌナカワ姫の館に行った。そこには越後の糸魚川から来た、ヌナカワ姫が住んでいた。そこへ○○が諸手舟でやって来た。●「園の長浜(出雲市西園町)で八千矛(大国主)様が行方不明になったから、事代主様も来て探して下さい」と言って、事代主を舟に乗せた。舟は弓ケ浜の粟島(米子市彦名町)に着いた。すると海童(かいどう)たちが現れ、舟を取り囲んだ。海童というのは、徐福がシャントン半島から連れてきた少年たちを言う。捕らわれた事代主は、粟島の裏の洞窟に幽閉された。八千矛(大国主)王も●猪目洞窟に幽閉された。後日、事代主の遺体は粟島の洞窟で見つかった。死因は餓死と、判定された。その遺体は●熊野山(松江市八雲町)に埋葬された。その後、島全体が神社になり、事代主の御霊をまつっている。鳥居の近くに万葉集の355番・生石村主(いずしすぐり)作の歌の石碑がある。それには「大汝(おおあなもち) 少名彦の いましけむ 志都の岩屋は幾代経ぬらむ」その歌は、大国主と事代主がそれぞれ岩屋に居られたことを伝えている。この「黄泉(よみ)の岩屋」の話は奈良の都にも聞こえて、出雲は「黄泉(よみ)の国」だと言われるようになり、「記紀」にも書かれた。奈良時代までは、都の貴族も出雲王国の大国主と事代主のことを覚えていてよく語られていた。しかし日本書紀が出て、講義されるようになると、出雲王国のことは人々は話さなくなった。かれらが徐福の指示により、非業の死を遂げたことも知っていた。そして都の貴族たちの中には、海部王朝や物部王朝の子孫が多かった。かれらは大国主と事代主の怨霊を恐れていた。また当時の都の政府関係者は、物部勢力が出雲王朝を滅ぼしことを覚えていたので、旧出雲王国の神霊を恐れていた。尚、古事記では、この事件のことを「スサノオが天照大神(出雲の太陽の女神)の耕作田の畔(畔)をこわし、用水溝を埋め、新米のご飯を供えた神殿に排泄物を、まき散らした」という例え話で暗示している。また古事記では、事代主の枯死事件は、事代主の入水(自死)に書き変えられた。さらに王子・タテミナカタ・建御名方のことは悪意を持って書かれた。この粟嶋神社は出雲王国の非業を、象徴する場所である。丘の急な階段を昇ると、頂上に社がある。祭神は少名彦・事代主である。頂上の後ろからの眺めがすばらしい。古代の数々の歴史を秘めた王の海(中海)が一望のもとに見える。紀元前220年ごろイズモ王国の少名彦スクナヒコであった事代主が越前の糸魚川の方からヌナカワ姫を后として迎えられ、ヌナカワ姫は島根半島の東端に住まわれた。■美保神社事代主が不慮の死に遭い、ヌナカワ姫は故郷の越前に帰られること決断された。娘のミホススミ姫は、その地に留まり亡き父・事代主(通称、エビスさん)の御霊を祠をつくり祀った。その後、紀元3世紀にミホススミ姫の住居跡に建てられのが●美保神社である。拝殿から見て左の屋根の下には、事代主命をまつった。本殿右側にはミホススミ姫を、三穂津姫命の名前でまつった。また千木も縦削ぎと横削ぎが併存しているが、それは先住イズモ族と渡来系(九州・物部氏系)が恩讐を乗り越えて、仲良くしようとの意味が込められている。「記紀」が先住系を国ツ神とし、渡来系の神を天ツ神と呼ぶのは差別であるので、そのような表現は慎むべきである。この社殿の形には、過去に苦い対立と抗争があった先住系、渡来系社会の未来に向かう新しい決を表している。本殿前の拝殿には、妻入りの大屋根がある。その前に、比翼(ひよく)造りと呼ばれる小屋根がある。これは包容力のある心で、未来のイズモを築いていこうという理想を示している。拝殿の柱列はギリシャのパルテノン神殿を連想させる。また拝殿の側面は、なんと解放的なことか。どこからでも人々が入れる。先住系の人でも、渡来系の人でも隔てなく、受け入れている。これ以上に民族的に平等で、どこの人でも受け入れる形を示した神社建築は、日本では他にないだろう。9本柱の神殿建築では、現存するものの中では最も古い。また娘のミホススミ姫に因んで地名も●美保関になった。江戸時代中期に美保神社では事代主の不慮の死を忘れまいと京都から事代主の子孫の大田政清を招いて、古事記を参考にして、構成された神事が、美保関町で行われる。12月3日「諸手舟神事」、4月7日がクライマックスの「青紫垣神事」という神事である。また全国えびす社3385社の総本宮がイズモの美保神社である。「えびす」さんとは事代主のことである。それだけ全国に事代主の子孫がいることになる。尚、島根県の観光情報には、「記紀」を鵜呑みにして事代主は大国主の子息と堂々と書かれているが、「記紀」の受け売りの嘘の情報である。紀旧東出雲王家の向家が神主になっていたが、多忙であったので、美保神社の管理を神職の横山家に任せた。米子市と境港市がある●弓ヶ浜半島は今は陸続きだが、古代は島であった。黄泉の島→夜見の島→弓ヶ浜と名前が変わった。なぜ●黄泉の島と言われたかは、粟島で事代主が非業の死を迎えられ、黄泉(よみ)の国に行かれた、と言われた。それで粟島の対岸にあった島を黄泉の国・黄泉の島と呼んだ。■「諏訪王国建立」に繋がった、事代主の后、沼川(ヌナカワ)姫の、その後沼川(ヌナカワ)姫は、ヒスイがとれる越ノ国から事代主の后に迎えられ、美保の郷にお住みになられていた。事代主が不慮の事件に遭い、夜見ケ浜の粟島で天に昇られ、沼川(ヌナカワ)姫は淋しさがつのり、古里の姫川や黒姫山の景色ばかり想い出された。そして越後国糸魚川の実家に、帰ることを決意された。王子のタケミナカタは、父君を助け出すことの出来なかった、苦い思いのある出雲を離れたく思い、母君とともに越後国に移った。娘のミホススミは出雲の美保関に残り、父の霊を慰めることになった。彼女の住居には美保の社が建てられ、現在、美保神社となっている。事代主命と三穂津姫(沼川姫のこと)が祭られた。●上越市居多には●一ノ宮・沼川神社が鎮座する。王子のタケミナカタはその後、信濃国の諏訪地方まで進出し、●諏訪王国をつくった。そのとき以来かれの子孫は江戸時代まで、この地の豪族として栄えた。諏訪湖沿岸には、タケミナカタをまつる●諏訪大社の社殿が四か所に建てられた。そこの下社(下諏訪町)の社殿は、出雲地方の社殿に似て、正面が妻入りで締め縄が太い特徴を示している。諏訪湖北側の諏訪大社は、春宮と秋宮に分かれている。それには出雲王国時代に春分大祭と秋分大祭が重んじられた影響が考えられる。春宮と秋宮では、春祭りと秋祭りで祭りの場所が移動する。そのときサイノカミのクナトの夫婦神が、舟形の山車に載せられて遷宮する。これが史実であるが、古事記では、「タケミナカタが力比べをしようといどみ、タケミカヅチがタケミナカタを掴みねひしぎ投げ放ったら、タケミナカタはシナノ国のスワの海に逃げた」という悪意のある神話に変えている。■事件後の姫たち・大国主の后・多伎津姫(たきつひめ)宗像三姉妹の一人であり大国主の后だった多伎津姫(たきつひめ)は、住まわれたとこが地名として●多伎町となっている。また多伎津姫(たきつひめ)は大国主(八千矛)の王子・アジスキタカ彦を生んだ。出雲市遙堪(ようかん)には、アジスキタカ彦をまつる阿須伎神社が鎮座している。多伎津姫(たきつひめ)大国主が亡くなられた後、オウノ群のアダカヤ・阿太加夜(東出雲町)に住む、宗像三姉妹の一人である、姉の田心姫(たこりひめ)の許に、移り住まわれた。田心姫(たこりひめ)は後で、オウノ群を離れ、●伯耆国(現米子市宗像)に移られた。その跡は今は●宗像神社となっている。多伎津姫(たきつひめ)だけはそのまま残られた。彼女はアダカヤ主(ぬし)と呼ばれ、没後に●阿太加夜(アダカヤ)神社にまつられた。宗像神社(米子市宗像)の近くにも、阿太加夜(アダカヤ)神社が建てられた。■丹波王国徐福と高照(たかてる)姫の間に、五十猛・イソタケが生まれた。徐福は王になれず、高照姫に五十猛の成長を託し、秦国に一時帰国することを決断した。、徐福は次は、さらに多くの秦族を連れてきて和国の王になることを胸に帰国した。大国主の孫娘・大屋姫は、高照姫の世話をするために、大屋の屋形に移り住んだ。高照姫とイソタケは、その後で五十猛海岸に移り住んだ。後者の育った所は、かれの名にちなみ●五十猛の地名となった。かれの死後には、その地に五十猛神社が建てられた。大屋姫は、しばらく大屋に住んでいた。●大屋の地名は、彼女が住んだとに因む。大屋の地には彼女の死後に建てられた、●大屋姫神社(大田市)が鎮座している。イソタケ(五十猛)は成長すると父の意志に従い、●丹波国に移住した。母君の高照姫と後に奥方となる大屋姫も、ともに移転した。五十猛(イソタケ)は大屋姫と結婚し、タカクラジ(高倉下)をもうけた。出雲王の親族であった大伴氏の祖・日臣(ひおみ)も、付き添いとして行ったという。イソタケ(五十猛)は石見国や出雲国にいる大部分の秦(ハタ)族を、丹波国に集めた。かれは移住先で指導者となり、カゴヤマ(香語山)と名前を改めた。そして海(あま)香語山、海(あま)は後に海部(あまべ)氏となった。海(あま)香語山(カゴヤマ)の親族が住んだ所は、丹後半島方面にあった。丹後半島にも、秦(ハタ)の字から「畑」に変わった地名が多く、●「畑谷」もある。その半島の●伊根町には、徐福をまつる●新井崎神社がある。その社(やしろ)は、かれらハタ族がまつった社である。カゴヤマ(香語山)の子孫は丹後国で、豪族になった者が多い。そのうち竹野川流域(京丹後市)に住んだ一族がいた。かれらは●竹野神社を建てた。竹野は、「陶けん」が出土した所である。ハタ族は由良(ゆら)川を逆上って、南にも広がった。その川の流域に、徐福の名前の「福」にちなむ●福井や●福知山の地名がある。舞鶴(まいづる)の南には、カゴヤマが仙人を尊び天を拝んだ●弥仙山がある。ハタ族の居住地域を、●丹波王国だと言う人もいる。その後、海香語山(あまのかごやま)は九州の徐福の娘・穂屋姫と重婚し、海村雲(あまのむらくも)をもうけた。