■日本人の祖先の偉大な旅
約6万年前に人類はアフリカから出発し、車も飛行機もない時代に地球上のあらゆる地域に進出、拡散した。南米の高地、北極圏、赤道直下のジャングル、寒冷地、乾燥地帯そして、それぞれの地域の気候・風土の環境に適合して、それぞれの人種・民族になっていた。大陸の東の海に浮かぶ日本列島にも、偉大な旅をして渡って来た、日本人の祖先の物語があった。それは今から3500年前の話である。
■日本人は4大文明の一つインダス文明の子孫
いわゆるイズモ族は3千年以上前に、日本の本州に民族移動したと言う。「鼻の長い動物の住む国から来た」との伝承がある。3500年以上前に、インド西北から戦闘的な民族アーリア人がインドに侵入して、先住民の土地を奪い牧畜を行った。母系制度で平和に暮らし農耕生活だった先住
民はドラビダ人だった。4大文明の一つインダス文明はドラビダ人が築いた。紀元前3800年頃から、砂漠化や洪水、河川流路の変更など、さまざまな理由にのよって衰退期であった。紀元前3500年頃、インドの中部に、クナ国と呼ばれる小王国があった。(今のグナの町らしい)そこにイラン高原で遊牧をしていたアーリア人がが次々に侵入して来た。彼らは騎馬民族で父系家族制だ
った。森の樹木を切りはらいどんどん牧場を広げて、勢力を広めた。アーリアの男たちは、クナ人の家に婿が来ていない夜の隙を狙って泊まり込み、女たちに彼らの種を植える行動に出た。彼達は父系家族民なので、戦いに長じていた。クナ国の家々は女戸主の家族だったから、まとまりが弱く、対抗できなかった。結果として、アーリア人との混血児をクナ族の女が産み、育てることが多くなった。そして多くのドラビダ族は、アーリア人の奴隷にされた。母系家族制の民族は平和的だが、父系家族制度の民族が得意の戦争には弱い面があった。この情勢の中で南方に逃れるドラビダ族もいたが、クナ地方を支配していたクナト王は別の策を考えた。当時インドには、バイカル湖方面から、ブリヤード人の商人が交易に来ることがあった。彼らから「シベリアの南方の大海原の中に住民の少ない、温暖な島がある」と聞いていた。クナト王はそこに移住しようと考えた。出雲の古老は「イズモ族は、砂の平原を通り、広い湖の近くから、長い川を流れ下って来た」と伝えている。この「砂の平原」とはゴピ砂漠のことであろう。「広い湖」とはバイカル湖だと考えられる。「長い川」は黒竜江(アムール川)であろう。クナト王は移住計画を発表し、移住集団に加わる若い元気な男女を募集した。数千人の応募があったらしい。そこで食料などを家畜の背中に積んで、案内役のブリヤード人を先頭に、移民団は出発した。まず北の山岳地帯を超えた。そこから東に進み、朝鮮半島を通る道が近い、と現代人は思うかも知れない。しかし紀元前の古代世界では、それは危険なことであった。獣でも縄張りがあり、近づくと攻撃してくる。ましてや弓矢を持つ異民族の国の中を大集団が通過すると襲撃され、犠牲者が出る時代であった。だから住人の少ないシベリアを通るのが無難であった。しかし冬のシベリアは極寒の地である。冬を避けて秋までに通過するために、移住者たちはゴビ砂漠を春に過ぎたことであろう。篠田謙一さんの研究報告によると遺伝子DNAデータバンクに登録されている縄文人29体のうち、ブリヤード人と同じ塩基性配列のものが17体あり、その配列はブリヤード人とモンゴル人に共通する、という結果が出た。登録数が少ないので偏りが考えられるが、ブリヤード人が縄文人に混血していることは間違いない。アムール川上流に自生していたソバの実をブリヤード人が倭国に伝えた、とも言われる。その上流で、移民団は木材を用意し、筏と櫂を作った。そして食料を、家畜の背中から筏に移した。食料と家畜は途中で食べられて減少し、最後にはすべてが移住者の胃袋に消えたことであろう。筏に乗ったあとは、簡単であった。川の水が数千キロの距離を間宮海峡まで、移住民を流し運んでくれた。歩き疲れることはなかった。古代にブリヤード人が倭国と交易していたことは、北海道産の黒曜石の石器がアムール川流域やバイカル湖岸から発掘されていることで証明できる。ブリヤード族はバカル湖付近
に住むが、アムール川を舟で下れば、楽に日本に来ることがてきた。アムール川は縄文時代の重要な交易の道であった。一行は樺太(サハリン)西海岸を南に進み、古代に本州人が「渡り鳥」と呼んでいた、北海道に上陸し、そののち津軽半島にに渡った。ドラビダ族はサルタヒコ(鼻高神・性神)の信仰をもっていてサルタ族とも呼ばれた。九州の宇佐八幡宮の社家であった宇佐公康さんが、社家の伝承を本にしている。それにイズモ族の移住について書いている。すなわち「サルタ族がシベリア方面から、日本列島に移動漂着した」と。宇佐八幡の付近に住んでいたウサ族は、サルタ族より先に日本に住んでいたらしい。尚、ご存じのとおり、津軽半島の三内丸山遺跡には、約5500~4000年前の1500年間ブリヤード人が定住していた。その遺跡からは現代人が想像する
より、はるかに文明が発達していたことが、伺える。日本人の遺伝子の検査により、出雲族には、ドラビダ人の他にも、アジア大陸各地の血が混じっていることが、明らかになっている。民族移動の道中の混血は当然だ。日本人の祖先は3000年前にインドから日本列島に民族移住したというと、日本人全員それは絶対にあり得ないとの反応があると思う。日本人の古代史に関する常識では、トンデモ話とされる。そういう常識になったのも「記紀」で出雲王国が抹消されたためだ。尚、これだけは理解してほしい。南米のアンデス文明を築いた民族は、最初から南米に住んでいたわけではない。我々、日本人と同じ顔つきをしたモンゴロイドが今から、1万5000年~1万2000年ほど前にアジアからベーリンク海峡をわたって、南米まで到達したのだ。そして標高6000メートルの高地で生活を始めて文明を築いたことを。我々の祖先は、想像できない、とてつもない偉大な旅をして世界中に進出、拡散し、環境に適応してそれぞれの民族になっていった事実をわかってもらいたい。我々人類・ホモサピエンスは、最初からその地域にいたわけではなく、約6万年前に人類はアフリカから出発し、紆余曲折を経ながら世界中の隅々まで拡散・進出したのであり、現代、日本人のルーツである縄文人も紆余曲折を経ながら日本列島に渡ってきた歴史があるのである。最初から日本列島に縄文人がいたわけではない。縄文人は遠い昔にどこからか日本列島に渡ってきて住み着いたという歴史がある。それが後に縄文人と呼ばれるようになった。しかし、縄文人は、いつ頃、何処から、どういう民族が、どれくらいの人数で日本列島にやって来たのか。民族のルーツ・祖先について答えられる日本人は、いないのである。多くの日本人は先祖は中国大陸や朝鮮半島から来たと漠然と思っている。確かに渡来人などにより、混血されている面があるが、基本的には違う。中国も韓国も父系家族制度の国で父が威張る民族だ。父系制度の民はまた好戦的という側面を持つ。ところがドラビダ族=縄文人=出雲族は母家族制度(婿入り婚も含む)の民族だ。
また出雲族より先に日本列島で暮らしてた日本最初の生活文化圏であった南北の、北海道・東北また沖縄・九州の民族も母系家族制度だった。家族制度から見ても縄文人のルーツ・祖先は、中国人や韓国人とは違うのである。この母系家族制度の特色は争いを好まず、平和的ということだ。和をもって尊ぶという日本人の精神は、母系家族制に起因する。家族制度(結婚形態)というのは民族の根源的なものであり、簡単には変えられないのである。しかし、その遠い昔の日本人のルーツ・縄文人については、「記紀」によって出雲王国史が抹消されたために、ドラビダ族=縄文人=出雲族の記憶も消えてしまった。日本人・縄文人の記憶のルーツは官史によって、完全に閉ざされてしまったのである。それは歴史の敗者になった出雲王国の宿命なのかもしれない。イズモ族が古代インドから来たことは、縄文時代の日本語(ヤマト言葉)か゜ドラビダ語にそっくりであることで理解できる。言語学者の大野晋さんは著書「日本語とタミル語」でタミル語の文法が日本語と似ていることを説明している。タミルはインドの南部地方で、ドラビダ族の一種が住んでいる。イズモ族が古代に共に住んだインド中部のドラビダ族のうちで、南へ移動したのがタミル人だと考えられる。
尚、ドラビダ族はブリヤード人=モンゴル人と似た顔つきだった。今のインド人はアーリア人支配以後の顔である。フィリッピン人がスペイン人に征服され血が混じり顔つきが西洋人ぽくなったのと同様である。ドラビダ語に古代モンゴルなどが混じって出雲語ができた。それが基になって日本語ができた。つまり出雲王国に各地の人が関係したから、出雲王国の言葉が共通語になり日本語が
形成されたらしい。日本人の先祖・縄文人は中国大陸や朝鮮半島から来たという大半の日本人が漠然に思っている説は言語学的にも大分、遠い。クナト王が日本列島に上陸した時に、カネの兜(かぶと)をかぶりカネの槍をもっていた、との伝承がある。ドラビダ語では、金属をカネと言った。その言葉が日本でも使われている。クナト王の所持していたカネ製品は、アカガネと呼ばれた銅製品であったらしい。インドでは紀元前1300年以上前から、鉄が使われている。金属器が生活必需品になっていたから、クナト王は移住の時、金属精錬の技術者をイズモ族として連れてきた可能性が大きい。
■出雲の「黒い川」
本州に渡たり、東北地方に住んだ後、移住者は分かれて行った。クナト王の子孫は日本海沿岸を南に移動し、最後には出雲の地に住みついた。暖かい関東平野や濃尾平野があるのに、なぜ雪深い寒い出雲に住んだのか。その訳は「出雲に黒い川があったからだ」と伝承は述べる。黒い川とは、現在の斐伊川のことであろう。その川底や河原には砂鉄がたまり、黒く見えることがある。古代には砂鉄がもっとも重要な産物だった。斐伊川は「聖なる川」としてあがめられた。その川には、「ゆまり」(小便)をするのも禁じられた。「鉄は国家なり」と言われるが、古代でも国家の繁栄を左右していた鍵は鉄だった。石器から鉄器の時代になると文明は飛躍的に発展する。自然に川底にたまった砂鉄は「川粉(かわこ)ガネ」と呼ばれたが、それだけでは足りなかった。後では山の真
砂(まさ)・(花崗岩が風化したもの)がくずされて、「鉄穴流し(かんなながし)」が行われた。それは真砂を溝に流して、砂鉄を選り採る方法である。奥出雲山地の真砂砂鉄は、チタンなど有害不純物が少なく、低温精錬が容易で還元性に優れている。タタラはドラビダ語で「猛烈な火」を意味する。日本で最初に行われた製鉄は、「野たたら」と呼ばれた。このような鉄の低温精錬は、古代にオリエント地方でも行われたことが知られている。出雲王国は「鉄器の国」とも呼ばれた。それは明治期の西洋の近代的製鉄が導入される江戸時代まで「たたら製鉄」は日本の鉄の総生産の80~90%を担っていた。尚、クナト王の子孫は、イズモに住み着いた。インドの熱帯では、常緑樹が濃緑色にしげっていた。それに対し、新しい土地では、春に芽が出た森の色が、目にしみるよう
に美しく感じられた。かれらはその色をめでて自分たちの地方を「出芽(いずめ)の国」と呼んだ。その発音が変化して「出雲の国」になったと伝わる。