■出雲王国の風景


 出雲の北部には、島根半島がある。その半島は天然の防波堤であった。王の海は波静かで、その岸は良い港となった。誤解が多いが王国の都は現在の松江市である。そこに国の内外から交易の舟が来た。出雲の輸出品はカネと首飾りに使われる玉類であった。勾玉も韓国人が高価で買い求めた
。特に鉄は各地の人々に重宝され、買いに来る人々で出雲(松江市)の港や村は賑わった。景気がよかったので毎日、景色の良いところで老若男女が昼間から宴会を開いていた。出雲では庶民は労役を課せられることもなく、厳しい年貢もなかった。それがDNAに刷り込まれていて今も、エビスさん、ダイコクさん信仰が続いているのかも知れない。出雲で採れる良質の砂鉄と鉄製品は各地から求められた。豪族たちが最も欲しがったの鉄器は、槍の先に付ける双刃の小刀であった。それはウメガイと呼ばれた。それで木を削って木製品をつくるために、日用品としても、使われた。イズモ族はインドでの風習であった祭りを、各地で続けていた。春分の日に春祭りを、秋分の日には
秋祭りを村中で行った。それは年2回の待ちに待った祭りだった。メインは歌垣で、それはあとのお楽しみ付の合コンのようなものだった。現代人は紀元前200年頃の事代主がいた時代を想像しずらいと思うが、胎児の形の勾玉を造るには、その曲線の多い胎児形に石を加工する技術ならびに、また勾玉に糸を通すために穴を開けなければならない。そのためには穴を作るには鉄の錐(きり)が必要だ。石を加工して胎児形の勾玉を造るのは、現代でも容易ではない。紀元前の出雲王国には、現代でも難しい技術をもっていた文化の発展していた国だった。その名残が松江市に玉造り温泉とか勾玉づくりとして残っている。


■幸の神(サイノカミ)

 その後、出雲の各地の代表は春分の日と秋分の日に王宮・神魂の丘(松江市大庭町・王の庭、場という意味)に集まり大祭を行った。そしてドラビダ族=縄文人=出雲族の民族移住の指導者だったクナト王を民族の守護神として定め、幸の神(サイノカミ)と呼んだ。また幸の神(サイノカミ)は家族神(幸の神三神)で構成された。主神が「クナト大神」、母神を「幸姫の命」、息子神を「
サルタヒコ」と呼ばれた。サルタはドラビダ語で長鼻(男性器の隠語)という意味なので、サルタ彦は「鼻高神」とも呼ばれる。幸の神(サイノカミ)の特色は子孫繁栄(生殖)の神である。先祖・幸の神を敬い、子孫繁栄の守護を祈願するものだった。子孫繁栄には結婚と出産が必要である。幸の神(サイノカミ)は「縁結びと子宝の神」とも言われる。子孫繁栄(生殖)には広い意味では、
夫婦円満、子宝安産、万物創生、五穀豊穣、男女和合、豊作祈願、招福除厄、無病息災・・等が含まれる。つまり性の原理(生命創生・五穀豊穣・自然原理)を芽出たいとする考えが人生の基本になっていた。また古代は医療が未発達で祈るしかなかった。自然の猛威の前にも同様だった。世界の3大宗教は性を罪悪視する考え方だが、日本人は幸の神(サイノカミ)のおかげで、性に対して寛容な国民性となった。また3大宗教のような一神教、排他的な考えをもつことが避けられた。また幸の神(サイノカミ)のおかげで日本人は先祖神を何より敬う精神構造になった。幸の神の(サイノカミ)が全国に広まり、各地の御柱(男根崇拝)祭り、有名なもので名古屋小牧の「豊年祭り」、長野の女男神像、等がある。尚、神道というのは幸の神(サイノカミ)が国家に横取りされたものである。地方の田舎の家では神棚に先祖神・幸の神(サイノカミ)を拝んでおり、神道とかと呼ぶ庶民はいないのである。正月と言えば日本最大の行事であるが、正月も元々は幸の神(サイノカミ)の行事として始まった。正月は幸の神(サイノカミ)さんのことを特別に歳徳神・歳神(としがみ)さんと呼んだ。お供えを用意し先祖神の歳神(としがみ)さんを家に招き迎えた。そして女夫が添寝をし、仲よく幸せにやっていますよというところを見せて、先祖神・歳神(としがみ)さんに安心をしてもらうことが重要だった。だから正月の姫初めは大事な神事だった。尚、紀元前100年頃にヤマトに出雲族が建てた正月の神さんを祭る御歳神神社が鎮座する。「記紀」が出た後、神社の祭神は政府の意向で出雲系の神、及び「幸の神」はずいぶん変えられた。それは「記紀」で初めて登場したイザナギとかイザナミ等々に変えられた。それでも出雲系の神、大国主や事代主を祭る神社が現在でも、全国各地に多数ある。それだけ幸の神(サイノカミ)信仰が、日本全土にひろまっている証拠である。それは縄文人=出雲族=日本人の民族の風習・伝統・行事といった民衆レベルのことは、支配者が変わろうが、なかなか変わることはないのである。またへびのトグロに似た山が、「神がこもる山」(神名備山かんなびやま)として崇拝された。中国地方最高峰の大山は、伯耆富士ともいわれるように、三角錐の形をしており、代表的な神名備山である。その大山は、出雲王国時代から奈良時代までは、大神(おおがみ)山と呼ばれていた。何故、大神山(おおがみやま)と呼ばれていたかと言うと、出雲王国の王宮がある大庭おおば(松江市大庭町)から、春・秋の年2回の大祭の時に遠方、各地から参集した豪族たちは、、各種、催しもの・宴会が終わった最後に、全員で東の彼方にクナトの大神がこもるとされた崇高な大神山(おおがみやま)に向かっ
て遥拝した。その後、大神山(おおがみやま)の麓には、大神山(おおがみやま)神社が遥拝地として建てられた。また後に大神山(おおがみやま)の、山腹に大神山(おおがみやま)神社奥社も建てられ、現在も続いている。尚、なぜ大神山(おおがみやま)が、大山(だいせん)と呼ばれるようになったかというと、奈良時代に仏教勢力が強くなり大神山に大山寺(だいせんじ)を建てた
。それ以降、地元の人々は大神山(おおがみやま)と言わずに、大山寺(だいせんじ)があるので大山(だいせん)と呼ぶようになった。尚、大神山(おおがみやま)神社が出雲王国、サイノカミ、クナトの大神の名残を今に留めている。しかし残念ながら、なぜ昔、大神山(おおがみやま)と言われていたのかということを知っている地元の人は、いない。これも「記紀」の影響で出雲王国
が忘れられたからだ。


■「三」は聖数

 尚、サイノカミ(幸の神)三神というように、幸の神では、「三」が聖数として扱われた。それで結婚式で使う三三九度用の三つ重ねの盃は「三三クナト」の意味が込められている。大きい盃は花婿を、中の盃は花嫁を、上の盃ははうまれてくる赤ん坊を象徴する。三宝も幸の神からだ。 また、三拍子そろうと縁起が良い、も幸の神三神からきている。万歳三唱(当時はイズメ、イズ
メイズメ)も聖数「三」からきている。締めの拍子を三つ打つのも同様である。

 幸の神三植物は松竹梅だ。松の葉は乙女の下の毛に似ているので(若松様)と呼ばれ縁起が良い。竹の筒は男性のアレである。梅の花は、幸の神では「産め」に通じるので、最高の花とされる。
 
■「八」も聖数

 太陽信仰からきており、日本海軍旗のように、朝日が八方に光りを放つ姿に見えるのでその八本の光から来ている、という。 サイノカミ(幸の神)では、「八」も聖数になっている。例えば「ワラヘビ」は尻尾を八回巻き終わると、竜の威力が現れると言う。頭に締める「ハチマキ」はそれに起源を持ち、ヘビの霊力により、幸運が訪れると言われた。 八の字は末広がりで縁起が良いと言われた。地名・人名では八雲、八束郡、八重垣、八千矛(やちほこ・大国主の個人名)、八重波津身(やえなつみ・事代主の個人名)
 
 出雲の枕詞が「八雲立つ」になったのは、八の聖数のためだった。  


■■出雲王国へ徐福集団(秦族)の渡来・紀元前219年頃■■

中国では秦国が全土を統一する前に、シャントン(山東)省方面に斉(せい)という国があった。斉は秦に亡ばされた。そこに徐福という人がいた。紀元前219年頃、出雲王国の海岸に秦国人の乗った船が着いた。和国では当時は、丸木船を使っていたから、その船は立派に見えた。それは板を組み合わせて作られている、いわゆる構造船であった。上陸した秦人たちを出雲兵がすぐ捕まえて、王宮に連れてきた。かれらは通訳と銅器製作の技術者であったが、秦国から持ってきた青銅器を、オオナモチに捧げた。そして青銅器が和人の好みに合わないならば、造り変えると申し出た。土産物は、銅剣と銅鋒に似た鐘(除族の旬よう)だったようである。後者を参考にして、銅鋒が作
られ、出雲では神宝となった。彼らは徐福の先遣隊であった。かれらの来日の目的は後日、多勢の秦族と頭の徐福が移住することへの、許可願いであった。徐福はシャントン省の方士(道教の師)である、と語ったるオオナモチの許可を得ると、かれらは出雲にそのまま住み着いた。徐福の言動について「史記」「秦始皇本記」に記されている。「紀元前219年、始皇帝は諸郡県を巡行した。ろうや山(シャントン省)に三か月も留まった。その時、斉人の徐福らが上書して述べた。・・蓬莱の仙人は不老長寿の仙薬を持っています。心身を清め、けがれなき童男童女を連れて仙人を求めたいと思います」と。そこで始皇帝は徐福をつかわし、童男童女数千人をおくって、海に出て仙人を探させた」。シャントン半島が面する黄海では、晩秋以降には東南方向に吹く強い季節風がある。それはアナジと呼ばれる。船に帆をかけるとアナジに押されて、船は海上をすべるように進むことができる。徐福が率いた船団は、アナジに吹かれて、楽に玄界灘に達することができたる玄界灘からは東に日本海を進めば、出雲方面に着くことができる。徐福と一緒に和国に来た童男童女は「海童(かいどう)」と呼ばれた。徐福集団の日本移住は、前後二回にわたり、移住者は五千人を超えた。そして弥生時代の和国での、この移住民の活躍は、和国の文化向上に大きく貢献した。徐福集団来日は日本の歴史上、重要な事件であった。山口県下関市豊北町江尻に、土井ケ浜遺跡がある。そこからは、三百体以上の弥生人の骨が見つかった。その遺跡には、人類学ミュージアムが建てられている。その墓地の初現は、発掘された板付Ⅱ式の土器により、弥生時代前期で、紀元前二世紀前半以前であることが分かった。そのミュージアムの松下孝幸さんと、中国の人類学者・韓康信さんの共同調査の結果、その人骨に最も良く似ているのは、中国のシャントン省の古人骨であることが判明した。これらのことにより、徐福が率いて出雲へ向かった船団の一部が離れて、響灘から長門の国に上陸した可能性が大きくなった。しかし彼らの大部分は、故郷に帰れなかったらしい。かれらの死後、遺体の顔はシャントン半島の方へ向けられて、葬られていたと言う。多くの者た
ちが、望郷の念を抱いたまま亡くなったらしい。近くの甲殿遺跡からは、ガラス製トンボ玉が出土している。白色同心円文様のガラス玉は、中国戦国時代の系譜に属する。玉屋敷遺跡(長門市油谷向津具)からは,有栖細型銅剣(国指定重要文化財)が出土したが、類似の物は、同じく徐福と関係深い吉野ヶ里遺跡(佐賀県)からも出土している。徐福ひきいる大船団は、ともえあいつぎ日本 海に現れたる先頭の船は石見国五十猛(島根県太田市)の磯に着き、徐福が上陸した。他の船も、その付近に碇を下したる海童たちが続々と陸にあがって住み着いた。秦からきたので、かれらは秦族と呼ばれた。かれらは高級機織の技術を持っていたので、後には秦(ハタ)族と、呼ばれるようになった。かれらは主に、五十猛の東方に住んだ。そこには、ハタ族のハタが「畑」の字になった地名が残っている。五十猛の東南部には、畑井(秦居)や畑谷・畑中の村がある。徐福は和国に来てから、和国風の名前としてホアカリ(火明)の名前を使った。大屋の地に屋形を構えていたが、大国主の姫君・高照姫を奥方と迎えたい、と希望した。神門家臣と親しくなっていた渡来系の通訳が、その旨を伝えた。ヤチホコ(大国主)は、それに応じることを決められ、高照姫は大屋の屋形に輿入れした。徐福・ホアカリ(火明)のの奥方になった高照(たかてる)姫は、大屋の屋形で息子イソタケ(五十猛)を生んだ。 徐福・ホアカリ(火明)は道教の方士(ほうし)であったから、童男童女を夜に山頂に導き、仙人を尊ぶことを教え、道教の星神を拝ませた。仙人を意味する「仙」の字が、かれらが登った山の名に付けられている。物部神社の北方に大仙山があり、大森の石見銀山に仙ノ山がある。ハタ族は、出雲の南部にも住んだ。出雲風土記の飯石の郡に、波多の郷の記事がある。「ハタツミ(波多都身)の命の現れた処である。この故に、波多の地名になった」と
。このハタツミの命とは徐福のことで、ハタ族の代表として伝えられたのであろう。かれらは先住者の所有地でない所を探し続けて、山奥に住むことになったらしい。ハタ族は次第に東に進出し、島根半島方面にも居住地を広げた。長門の土井ケ浜遺跡に似た、弥生人の遺跡が出雲でも発掘された。約六〇体の人骨が日本海に面した古浦砂丘(松江市)に眠っていた。弥生初期に属する土器を、かれらは持ち込んでいた。かれらの住んだ跡からは、多くの土製の笛が出土している。それは手の平で握る卵形の物で、穴が七個あいている。中国で「陶けん」と呼ばれる物で、新石器時代から使われていた楽器であった。タテチョウや西川津の遺跡のある松江市は、五十点以上出土していて「陶けんのメッカ」と言われる。長門の響灘沿岸では、綾羅木団地や高野遺跡などで発見されている。また徐福集団移動先の丹後半島では、竹野や扇谷遺跡などで出た。つまり「陶けん」出土地は、第一次徐福集団が上陸した地域と一致する。民族考古学では、それは祭りのときに吹いて神霊を
招くのに使われたという。その使い方もあったであろうが、海童たちが吹いて望郷の念を紛らわしたこともあったであろう。斐川町にある出雲空港の北方には、海童集団が住み着いて、今でも海童として来日したことを伝えている、出雲市島村町がある。そこの社の名は、海童神社となっている。その社の祭日には、幟が立てられるが、それに「海童神社」の名が書かれている。そこから斐伊川を挟んだ対岸に、浮洲神社がある。「浮洲」は、「蓬莱島」になぞらえられ、道教の理想郷とされた。だから浮洲神社も徐福の聖地だと言うことができる。尚、徐福はその後、とんでもない事件を起こすが、自分が出雲王国で王になることが、できないことを悟ると、高照(たかてる)姫にイソタケの成長を託し、秦国に一時帰国することを決断した。徐福は次は、さらに多くの秦族を連れてきて和国の王になることを胸に帰国した。大国主の孫娘・大屋姫は、高照姫の世話をするために、大屋の屋形に移り住んだ。高照姫とイソタケは、その後で五十猛海岸に移り住んだ。後者の育った所は、かれの名にちなみ五十猛の地名となった。かれの死後には、その地に五十猛神社が建てられた。大屋姫は、しばらく大屋に住んでいた。大屋の地名は、彼女が住んだとに因む。大屋の地には彼女の死後に建てられた、大屋姫神社(大田市)が鎮座している。イソタケ(五十猛)は成長すると父の意志に従い、丹波国に移住した。母君の高照姫と後に奥方となる大屋姫も、ともに移転した。五十猛(イソタケ)は大屋姫と結婚し、タカクラジ(高倉下)をもうけた。出雲王の親族であった大伴氏の祖・日臣(ひおみ)も、付き添いとして行ったという。イソタケ(五十猛)は石見国や出雲国にいる大部分の秦(ハタ)族を、丹波国に集めた。かれは移住先で指導者となり、カゴヤマ(香語山)と名前を改めた。そして海(あま)香語山、海(あま)は後に海部(あまべ)氏となった。海(あま)香語山(カゴヤマ)の親族が住んだ所は、丹後半島方面にあった。丹後半島にも
、秦(ハタ)の字から「畑」に変わった地名が多く、「畑谷」もある。その半島の伊根町には、徐福をまつる新井崎神社がある。その社(やしろ)は、かれらハタ族がまつった社である。カゴヤマ(香語山)の子孫は丹後国で、豪族になった者が多い。そのうち竹野川流域(京丹後市)に住んだ一族がいた。かれらは竹野神社を建てた。竹野は、「陶けん」が出土した所である。ハタ族は由良
(ゆら)川を逆上って、南にも広がった。その川の流域に、徐福の名前の「福」にちなむ福井や福知山の地名がある。舞鶴(まいづる)の南には、カゴヤマが仙人を尊び天を拝んだ弥仙山がある。ハタ族の居住地域を、丹波王国だと言う人もいる。その後、海香語山(あまのかごやま)は九州の徐福の娘・穂屋姫と重婚し、海村雲(あまのむらくも)をもうけた。息子の村雲命は成人すると、一万人前後の丹波人を引き連れて、ヤマトに進出し、出雲の事代主の子孫の登美(とび)家と協力して、海部王朝を作った。海部王朝では登美(とび)家から后を迎ええる習慣があり、三代以上それが続いたので、登美(とび)家の血が圧倒的に濃くなり、出雲系の磯城(登美家が住んでいた地名により)王朝に変わった。つまりヤマトの政権は海部王朝が二代つづき、それ以降は出雲系である磯城王朝になった。


■出雲王国を襲った同時暗殺テロ■紀元前210年代頃■

大国主(ヤチホコ)は園の長浜にでかけたとき、行方不明になった。その地にはサイノカミを祭る祠があったという。そのとき東出雲王国・富家の事代主は王宮のある松江市大庭には不在で、王の海(中海)わたり、島根半島東端の美保関(松江市美保関町)の港の妃の館に行っていた。そこには越後の糸魚川から来た、沼川(ヌナカワ)姫が住んでいた。事代主は姫に逢いに行き、海岸で釣りをしていた事代主の所に、○○家の○○がが諸手舟に乗って使者としてやって来た。このことが現在、美保神社では、「諸手舟神事」として、毎年12月3日に美保港で行われている。迎えに来た○○は、事代主副王に告げた。「園の長浜(出雲市西園町)で八千矛(ヤチホコ)様が行方不明になったから、事代主様も来て探して下さい」と言って、事代主を舟に乗せた。舟は弓ケ浜の粟島(米子市彦名町)に着いた。すると海童(かいどう)たちが現れ、舟を取り囲んだ。海童というのは、徐福がシャントン半島から連れてきた少年たちを言う。事代主は、粟島の裏の洞窟に幽閉された。現在、その粟島は島全体が神社となり粟嶋神社として事代主をまつっている。大国主(ヤチホコ王)も猪目(いのめ)洞窟に幽閉された。主王と副王が同時に、洞窟で枯死するという非業な事件に、出雲王国では大きな衝撃が走った。また国の機能も麻痺してしまった。尚、「記紀」ではこの事件を、事代主が入水(自死)したようにして、事実を歪曲して書いた。