■■出雲王国■■


■紀元前400年頃成立し、紀元後250年頃滅ぶ。決して国譲りではない。

■約700年間の王国史の間に、合計17人のオオナモチが存在。スクナヒコも同数。

■オオナモチ(大名持ち)とは、大穴持ち(野だたらの横穴・鉄生産の支配者の意)

■スクナヒコとは、若い王の意味

■出雲両王家はオオナモチ・スクナヒコを交替でした。

■出雲王国の初代王、菅之八耳には二人の息子がいた、2王制とした。直轄地を東西にわけた。

■東の領地を支配する王家が、富(とみ)家、出雲臣家。後に向(むき・むかい)家を名のる。

■竜鱗枠(りゅうりんわく)銅剣交差紋。東出雲王国・富家、向家の紋章。外枠はいわゆる亀甲紋でなく、イズモ族の崇拝するオロチ竜神のウロコの形である。銅剣は王者の象徴とも言われた。中の×印の意味は、剣による交戦ではなかった。古代には、あたらしい命が発生する尊いマー
ク、と考えられた。銅剣・銅鐸で×印は向家のものを示す。また神社の社紋の外枠は亀甲紋でなく、竜鱗枠(りゅうりんわく)である。

■西の領地を支配する王家が、神門臣(かんどおみ)家と呼ばれた。

■東出雲王国(松江市)と西出雲王国(出雲市)が存在した。

■出雲王国は武力で成立した国ではなかった。「野だたら」による繁栄で自然と国ができた。

■出雲王国はサイノカミを信仰する宗教国家であった。

■縁結びによる広域出雲王国の範囲は日本海沿岸各地、東は越(新潟)から西は北九州。及び四国方面。

■事代主の后としてヒスイがとれる越ノ国から沼川(ヌナカワ)姫が后として迎えられた。また6代出雲王の王子・アタカタスが北九州に進出し、ムナカタ(宗像)家を起こした。という事情からだ。

■各地の豪族の娘と結婚(複婚)する縁結びによる弱い連合体であった。

■主王を「オオナモチ」、副王を「スクナヒコ」という職名である。

■第八代オオナモチが(個人名・八千矛・やちほこ)。「記紀」では大国主とされた。

■第八代スクナヒコが(個人名・八重波津身・やえなつみ)「記紀」では事代主とされた。

■沼川(ヌナカワ)は姫越ノ国糸魚川から事代主の后として嫁がれた。

■事代主+沼川(ヌナカワ)姫=タケミナカタ→諏訪王国を造る

■活玉依(イクタマヨリ)は、摂津国三島(大阪市高槻市)から事代主の后として嫁がれた。

■事代主+活玉依(イクタマヨリ)=クシヒカタ→ヤマトを最初に開拓。ヤマト初代副王

■クシヒカタの家は登美(とび)家と称し、出雲王家・富(とみ)家の分家にあたる。

■登美家は、後に磯城方面に住んだので、磯城登美家とも言われる。磯城県主である。

■事代主+活玉依(イクタマヨリ)=タタライスズ姫→三輪山の初代、太陽祭祀の姫巫女。

■海(天)村雲+タタライスズ姫=姫巫女の権威が、王より上であった。


■■■■徐福と出雲王家はすぐ混血した■■■■

■秦から徐福は約2千人弱の秦人を引き連れ出雲王国に渡来してきた(紀元前219年頃)

■徐福(出雲)→火明(ホアカリ)と和国風の名前を名のる。「記紀」ではスサノオとされた

■徐福・ホアカリ(出雲)+高照姫(大国主の娘)=五十猛(いそたけ)誕生。

■徐福は出雲王国で王に就任することができず、失望し、一旦秦に帰国する。

■五十猛は、姓を海(あま)とし、海(あま)五十猛となる。

■海 五十猛は成人し、出雲の秦(ハタ)族を引き連れ、丹波に移住する。

■海 五十猛→海 香語山(かごやま)(丹波で改名する)

■海 香語山+大屋姫(大国主の孫娘)=高倉下→紀伊国造→武内宿祢→蘇我氏

■五十猛+穂屋姫(九州の徐福の娘)=海 村雲が誕生。「記紀」が海を(天)の字に変える

■海 村雲は成人し、出雲人が開拓したヤマトへ1万人近い丹波人を引き連れ、集団移住する。

■海(天)村雲+タタライスズ姫(事代主の娘)=→海部氏(尾張氏)→

■秦から徐福は約3人千の秦人を引き連れ九州に再来日した(紀元前210年頃)

■徐福(九州)→ニギハヤヒという名前を名のる。「記紀」ではニニギノという名にされた。

■徐福(出雲)→火明(ホアカリ)、徐福(九州)→ニギハヤヒで同一人物異名である。

■「記紀」では徐福(出雲)はスサノオ、徐福(九州)はニニギノという名にされた。

■徐福(九州)+市杵島姫(出雲王国の分家・宗像家の娘)=ホホヒデミ誕生→物部氏

■徐福(出雲)での五十猛、徐福(九州)でのホホヒデミは腹異の兄弟である。

■「記紀」では腹異の兄弟、五十猛とホホヒデミのことを海彦と山彦の神話にしている。

■徐福(出雲)での五十猛が海部氏、徐福(九州)でのホホヒデミが物部氏になる。

■古代の政治を動かした海部氏と物部氏の始祖が徐福である。その意味でも徐福の渡来は、歴史上、大変に重要なことであり、徐福渡来が分からなければ古代史は理解できない。渡来人と言っても、出雲王家の血とすぐ交わっているのである。だから、単純に出雲系とか渡来系と区別するのは、簡単にいかない。女系家族制の影響もあり、母方の血も重要になる。古代では、血筋が有力視された。奈良時代の都の貴族のほとんどが、海部氏・物部氏・事代主の子孫であったが、大きくとらえれば、みな出雲王家および徐福の血を引き継いでいるので、あまり血筋をとやかく言うことには意味がない。ただ子孫には、自分の家は、海部氏系とか物部氏とか事代主とかの、こだわりがあった。また徐福の腹異いの子孫である物部氏と海部氏は仲が悪く、お互い対抗心を持っていた。腹異いの兄弟の確執は、それは現代にも言える話だ。それを「記紀」では山彦と海彦の話で例えている。尚、物部氏の家系は藤原不比等によって本家筋は歴史の闇に葬られた。物部氏の親族は鈴木姓を名乗った。海部氏の家系はその家系図の「海部氏本系図」、と「海部氏勘注系図」が、国宝となっているにことをもっても現代に脈々と続いている。家系図が国宝となっているのは海部氏家だけである。民間の家系図が国宝になっていることは、どういう意味があるか考えてみてください。海部元首相や、日商岩井の海部副社長も海部氏の家系である。また徐福と一緒に渡来してきた秦(ハタ)族とよばれた人たちの子孫は日本人の多数に上る。波多(はた)や秦(はた)を名乗る人は子孫である。有名な人では、羽田元首相。羽田元首相は自分は秦(ハタ)族の子孫だと明言されている。和国に縄文→弥生と文化向上に尽くしたのが渡来人秦(ハタ)族である。なので本来はかれらは称賛されていい人達である。渡来人=悪人ではなく、渡来人=和国の文化発展に貢献した人、である。日本の歴史では、そのへんのところを、下手に隠している。光と影があったが、光の部分は正当に評価が必要だ。だから和国の権力者が出自が渡来人であっても、何ら問題は、
ないのである。また徐福の子孫も2世代以降には出雲王家の血が入っているのであり隠す必要はないと思われる。尚、出雲族=縄文人=ドラビダ族というのは、母系家族制の権力指向がない、平和を尊ぶ民族だが、反面、人が良い、騙されやすいという欠点がある。それにひきかえ、徐福にしてもヒボコにしても戦乱の絶えない国からやってきて戦には長じており、実践経験の乏しい出雲族とは断然、違っていた。また父系家族制で権力指向のかたまりだ。平和だった和国に、そういう、渡来人がやってきたら、渡来人系がおのずと支配者階級になるのは、いたしかたないことかも、知れない。尚、誤解があるといけないのでかくが、決して和国・出雲人が文化が遅れていたとかでなくインダス文明の子孫であったのでそれなりにあった。中国は4千年の歴史といっても、ほとんどが西のオリエントから文化は入ってきた。それに対して日本は直接インドからインダス文明をひきついでいたので、中国に引けをとるようなことは、さほどなかった。但し中国は父系制度だったため権力指向が強いため政治体制が進んでいた。母系制度の平和に暮らしていた日本人は征服されやすい面があった。しかし人民は簡単に渡来人系には従わない。そこでヤマトの歴代大王は、事代主の血を引く三輪山の姫巫女を后に迎え、その人気を利用し、政権を維持した。また「幸の神」を神道として、国家行事に取り入れ、人心の掌握に努めた。但し、支配者階級に都合が良かったとはいえ、さすがに出雲王国を史実から葬りさったのは、やりすぎだ。それは当時の支配者が先住出雲系でなく、渡来系だと自ら言っているようなものだ。しかし、出雲王国に限らず、アイヌ民族にしても然り、次に記述する安倍王国にしても、敗者の歴史とは正史からは抹消されてしまう運命にある。古今東西そういうもので、さほど異なものではない。。但し、歴史の闇に葬られた敗者の歴史に光をあてることが、子孫の役目ではないかと考える。「記紀」が書かれた奈良時代以降、歴代政府、また政治家はわが国で最も古い出雲王国を無視しつづけてきた。それは自国の歴史について無知で日本人の先祖に対して先祖不幸をしていると、言われても仕方がないのである。