日本最大の秘密にして最大のタブー
和国(出雲王国)は徐福集団(古代最大の渡来集団・弥生人)により滅ぼされる。和国は渡来人に牛耳られた。奈良の都の貴族はほとんどは徐福の子孫であった。記紀では本当の和国の歴史は隠された。騙され続けている日本人のルーツ。日本人の思考停止の古代史を糺す。
古代史で欠落している最大の重要なことは、2点。
1点目が、徐福の渡来大集団
2点目が、出雲王国の事実
最近、エグザイルが「島根には本物がある」、というプロモーションに出演していて話題になっていますが、その昔、ラフカディオハーンも松江に日本の古代の元風景を感じたと、いうことを残しています。古代出雲王国は和国で最初に文明が開いた国です。和国で鉄が最初に生産されたのが出雲のたたら製鉄です。鉄は国家なりという言葉があるが古代においてはまさしく鉄こそが国家の繁栄を左右していた鍵だった。鉄によって石器時代から文明が飛躍し、富も集まり、自然に王国が成立した。鉄こそが文明の源になったのです。戦前、ドイツの建築家ブルーノ・タウトがを訪れ、古代の木造建築の傑作と褒めたたえた神魂神社(松江市大庭)こそが古代、出雲王国の王宮があったとこだ。ちなみに地名の大庭は王の場・庭という意味があり、現在は大庭という漢字表示になっている。古代出雲王国のことは徐福のあとに説明します。古代出雲王国こそが日本人のルーツであり、日本人はそのことを奈良時代に書かれた記紀によって神話で誤魔化されたため史実であることを忘れてしまった。
紀元前200年頃から紀元後300年頃までの神話で
誤魔化された古代史の事実を明らかにします。
■古代最大の渡来集団■紀元前219年頃■紀元前210年頃■
徐福集団は秦国から和国へ前後2回渡来している。計5000人以上が渡来してきた。古代の5000人はその後、何万、何十万人の人口になった。日本で一番多いとされる鈴木姓は物部氏系の子孫の苗字であるる徐福集団の大渡来は光と影があった。光の部分では和国の文化発展に大きく貢献した。それが社会科で習った、縄文→弥生の変化だった。教科書では縄文時代に渡来人が来て、稲作、等他、文化が伝来され弥生時代になったというふうな記述と記憶しているが、それは、いつ頃、集団渡来だったのか、数人の散発的な渡来だったのか、また、渡来人はその後どうなったのか。渡来人の頭は誰であったのか。発達した文化をもってきたのであれば、渡来人の具体的な名前とか、残ってて不思議ではない。文化がブレークスルーしたのであれば、ちゃんとした記録が残っているのが当然だ。教科書の簡単な記述は、どう考えてもおかしい。また教科書では縄文人と渡来人が、融合したと簡単に書いてるが、物見遊山で渡来人が来たとは、とうてい考えられない。「記紀」で徐福集団の渡来をいくら隠しても、徐福集団が渡来してきた出雲や丹波また二度目の渡来地の佐賀には徐福集団の伝承や、遺跡が多数残っている。
■第一次徐福集団渡来、出雲王国に現れる■紀元前219年頃■
紀元前219年頃、約2000人を引き連れた最初の渡来地は出雲王国であった。「記紀」では
出雲での徐福はスサノオという名に変えられた。また渡来してきたことは、スサノオの出雲への天
孫降臨という神話に変えられた。徐福は秦の始皇帝を騙して和国へきた。物見遊山で来たわけでな
く、真の目的は和国の王になるためだった。徐福は有名な大国主の姫・高照姫を妻にもらったにも
かかわらず、とんでもない事件を起こした。当時の第八代・主副王である大国主と事代主の同時暗
殺テロ事件を引き起こした。徐福としては自分が和国の王になるには、大国主にとって代わるのが
手っ取り早いと考えたのであろう。しかし徐福は王になれる見込みはなく一旦、秦に帰国しさらに
もっと大勢の秦人を連れてきて野望を果たそうと決断する。当時、出雲王国は文明が栄えており、
徐福集団の渡来があっても支配されるとか属国になるとかは、なかった。同時暗殺テロ事件のこと
を古事記では、「スサノオが天照大神(出雲の太陽の女神)の耕作田の畔(畔)をこわし、用水溝を埋
め、新米のご飯を供えた神殿に排泄物を、まき散らした」という例え話で暗示している。
■第二次徐福集団渡来地は九州■紀元前210年頃■
二回目の渡来地は九州有明海であった。今度は3千人余りを引き連れての渡来であった。「記紀」では九州での徐福のことをニニギネという名に変えた。そして日向、高千穂の峰に天孫降臨した神話の話に変えた。尚、徐福の九州での子孫は物部氏を名乗るようになった。子孫の代になると筑紫平野一帯を支配下に収めた。新しく秦を築くという意味で築秦国としたが、後になまって筑紫国になった。尚、「吉野ケ里遺跡」は徐福集団の居住跡である。
ヤマト政権やヤマタイコク、卑弥呼の話はその後の話であり枝葉である。この2点を隠し続けているため、古代史は要とせずさっぱり、わからない話になっているのである。尚、本プログの趣旨は例えば天皇の出自は渡来系とか、出自云々を暴くことでなく歴史の事実を残すことが目的である。
欧米の歴史においても、例えば米国の歴史では先住民を虐殺・レイプした血塗られた歴史、ハワイ王朝を陰謀で滅ぼした歴史等は正史として扱われなく、歴史の敗者の言葉は残されないのが現実です。
フランスも過去、十字軍でイスラム世界を攻め、女子供を殺して食う残虐なことをおこなっている。第4次十字軍では突き落としの刑は目隠しではなく目を抉って塔から突き落としている。フランスは主人このために働くのを拒んだ植民地人にギロチンにした。そのため植民地の町にはギロチンがあった。翻って日本では何が敗者の歴史として隠されているのか。日本の場合、世界でも唯一という古代史の歴史が神話に隠されていて史実が隠されている。神話と歴史を混同しているのである。最大の原因は歴史学会の学者は大学の教授であったり、等で国家のタブーにふれることは公務員では給料をもらっている身分では触れることはできないのである。。国立何とかセンターの所長の見解といったものも同様である。また日本では明治政府により天皇を利用した国家神道が全面にでて記紀の絶対視が行われ、天皇バンザイと国民も熱風のごとく狂気の時代を体現し、そのため自国のルーツ、古代史に疑問を持たない国民性になった。その証拠に「建国記念日」について疑念をもつ国民はいないのである。
徐福の渡来大集団
■隠された古代最大の渡来集団
■弥生時代は徐福集団によってもたされた
■弥生式土器も彼らによってもたされた
■徐福は和国の王になるため蓬莱(和国)を目指した
■徐福は不老長生の仙薬が蓬莱にあると健康オタクの始皇帝を手玉にとった胆力の人物
■ユダヤ教、道教には蓬莱信仰があった。海に浮かぶ理想の地
■秦の始皇帝の時代2度の渡来(計5千人余り)
■徐福の渡来については、記紀では隠されたが中国では正史として扱われている。出発した海岸には海童の立派な石碑がたてられている。海童というのは徐福が蓬莱(和国)に連れて行った何千人にも及ぶ童男童女のことである。他、徐福の立派ん像など
ゆかりの地に多数あり、子孫が住んでいる村は徐福村と名付けられている。
■徐福集団は和国の文化向上に大きく貢献した
■一方、徐福は出雲王国の主・副王である大国主
と事代主を身の毛も立つ壮絶な暗殺テロを行い、
命を奪った。詳細は後日記述の出雲王国の記事で
■徐福の出雲渡来については、記紀でははスサノオの出雲への天孫降臨になっている。秦から来た渡来人とは書けなかった。つまり渡来人のことは記紀では天孫降臨した表現で書かれており、渡来人のことは天孫族となっている。暗殺テロを暗喩する表現では、スサノオは新米が祭ってある神殿において排泄物をまき散らした、という表現でかかれている。
■徐福のことは出雲王国で行った悪事があるため
徐福の子孫や同じ渡来してきた集団は出自を公にしずらい面があった。また悪事が思いだされることを恐れ、出雲王国のことも神話で隠された。
■記紀が書かれた都の貴族そのほとんどは徐福の腹異いの子孫である物部氏、海部氏の子孫は先祖が出雲王国で行った悪事について800年経った奈良時代でも、そのことを覚えており大国主と事代主の怨霊に怯えていた。そのため出雲のことを黄泉の国と言って恐れた。
■出雲祝詞はなぜ行われたのか。奈良時代に出雲から神職が多数、都に行き時の政権に対して、出雲祝詞をおこなったが、それは出雲はヤマトに対して怨霊をもたず平服し、国譲りを明確にします、という意味である。
■出雲王国の暗殺テロ事件があったため、記紀では本当のことは書けなかった。徐福のことも出雲王国のことも神話でぼかされて書かれた。
■古代の5千人はその後、大きな人口になった
■日本で一番多い苗字の鈴木姓は徐福の子孫の
物部氏系の姓である
■一度目は紀元前219年頃、出雲王国に渡来
■徐福は出雲王国で主副王の暗殺テロ事件を起こしたが和国で王になることはできず一旦、秦に帰国し始皇帝に嘘の報告をしさらに大人数の人民と各種、物品を用意させ2度目の蓬莱行を始皇帝に許可させる。
■2度目は九州有明海に上陸
■記紀では船で来た渡来人とは書けず、権威を高めるため日向の峰にニニギノが天孫降臨したと書かれた。渡来人とは書けないため。
■吉野ヶ里遺跡は徐福集団の居住跡
■佐賀県には徐福長寿館があり、そこの説明にも2200年前に中国の方士・徐福が不老不死の薬を求めて佐賀に上陸したといわれてい ます。
■秦からきた彼らは新しく秦を築くという意味で筑秦
国とした。その後、なまり筑紫となった
■秦からきた彼らは高級な機織りの技術を持っていたのでハタ(秦)族と呼ばれた
■徐福は出雲ではホアカリ、九州ではニギハヤヒ
と名乗る。
■記紀では徐福のことは出雲神話でスサノオ。
九州神話ではニニギノと書かれている。
■徐福=ホアカリ=ニギハヤヒ=スサノオ=ニニギ
ノは同一人物異名である
■国宝になっている海部氏家系図には、海部氏の祖は、ニギハヤヒとなっている。すなわち徐福である。
■徐福の出雲の子孫は丹後に移住し丹後王国をつ
くり、その後ヤマト(先に出雲族が開拓)に移住。
■出雲族と協力して作ったのが初期ヤマト政権
■その子孫は海部氏となる。
■海部氏の家系図は国宝に指定。また皇室に多く
はいっている。
■記紀では天村雲とか、海彦で例えられている
■九州の徐福の子孫は物部氏となる
■記紀に書かれた神武東征は物部氏が2度にわ
たったヤマト攻めを一つにまとめて書いてある
■徐福の腹異いの海部氏と物部氏は仲が悪くお互
対抗心を持っていた
■記紀では海彦と山彦の例話で仲の悪さを書いて
ある
■記紀が書かれた奈良時代の都の貴族のほとんど
は海部氏と物部氏と事代主(出雲王)の子孫である。かれらが古代の政治を動かした。
■記紀が書かれた奈良時代、外交上、和国は渡来人(中国人)が支配者などとは書けなかった。見下される。属国扱いになる恐れがあったため。
■徐福をはじめ付いてきた集団は「ユダヤの失われた十氏族」の末裔である。
■ユダヤ人は元々、黒目・黒髪のアジア系である。
■たまに日本ユダヤ同胞論が話題になるが、上記の理由による。トンデモ話ではないのである。
■徐福は道教の方士であり、道教というのはユダヤ
教と瓜二つの教義である
■道教もユダヤ教も夜、山に登り星を拝む
■日本で仙がつく山はほとんどが彼らが信仰で登った山である
■道教の六芒星(ろくぼうせい)、ユダヤ教のダビデの星も同じである
次回は徐福が始皇帝を騙し和国にきた詳細の記事を書きます。
急上昇 総合 新登場 人気プログ