期末まで二週間ぐらいです。正直精が入りません。どないしましょう。

 

今日は短く済ませます。チューターをしていて説明が難しいと思ったエピソードをひとつばかり。

 

桃太郎は日本人であれば必ず通る話ですね。その中で、

 

『おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました』

 

という描写があります。これは最早小学生でも空で言えるレベルの認知度です(多分)。

 

この文章の構造は

『人物』は『目的地』へ『その目的地での行動』に行く、となっていますね。私が教える教科書でもそう教えています。

ところが『目的地での行動』の欄で教科書では『〇〇ます』から『ます』を取ったものを挿入するようにと記載されています。

例 田中さんはレストランにごはんを食べに行きました。

 

しかしここで桃太郎の爺さん婆さんは『洗濯』と『芝刈り』、という行為の名詞形に『に』がくっついて、そして我々はそれに違和感を覚えないわけです。

 

もし教科書どおりであれば『爺さんは山へ芝を刈りに』『芝刈りをしに』でなければなりません。

 

では『洗濯』に動詞的要素が含まれるのか。しかし洗濯『ます』とは言わないわけで、それは間違っています。

 

我々には思考停止で可能な『洗濯に→洗濯しに』を英語でどうやって生徒に説明すればいいんですかね…

 

前途多難です。

 

カミゴリ

アメリカでは昨日8日に金環日食が観測されました。なんと観測可能なエリアに沿うようにAirbnb(民泊サイト)の予約が埋まっているという地図が話題になっています。

https://www.axios.com/2024/04/05/airbnb-bookings-eclipse-april-8-map

 

さて、今回も労働に関する話題です。文句を垂れてる暇があったらインターン応募の一つでもしろやという正論にはノイズキャンセルをし、今回の『歯車になりたい問題』について話していきます。

 

社会全体が『夢を見るように』『成功した経営者になれるように』と誘導していると思えるこの頃ですが、私にはそこまでの野心も気力もありません。私の目指すは父のように、『サラリーマンとして社会の歯車となり、家庭を築き、背伸びをしない幸せを掴む』ことです。

ですがアメリカでは残念ながら、成功者教育がかなり盛んに思えます。講演会なども『若くして財を成した経営者』や『アントレプレナー(起業家)』といった面々が多いです。勿論彼らの話は非常に為になり、無駄かと言われるとそうは言い切れない節はあります。

 

ですが逆に、そんな一握りのニンゲンの話をされても、あまり実感が沸かないというのもこれまた事実です。また、先ほど上げたような経営者を経営者たらしめるのは彼らのもとで汗を、血を流し、会社に貢献する社員(ここでは便宜上歯車と呼ばせてもらいますが)がいるわけです。私の父もいい年ですからベテラン戦士として中間管理職に就いているわけですが、そういった有能な人材の元に経営者というのは存在するわけです。

 

ですから私は是々非々、中間管理職やサラリーマンの講演会などがあっても面白い、というか是非開いてほしい、と思ったりもします。何を考え働き、何を人生の楽しみとするか。経営者などの『外れ値』とも言える人たちではなく、その他大勢のマジョリティの私達の将来を正直に反映しているともいえるこのイベントがあれば飛んでいって話を聞くのに、と思います。

 

 

この間ツイッターでこんな投稿を見かけました。

私はこれにかなり同意する節があり、今の教育は、そしてその教育の産物である我々若い世代は『船頭多くして船山に登る』状態に陥るのではないか、と危惧しています。日本の教育がロボット生産のようだ、という人もいます。勿論一元的な詰め込み、暗記などはあまり効果はないかもしれないし、改革はしたほうが良いかもしれません。しかしだからといって全員がクリエイティブになってしまうと、それはそれで問題があるように私は思います。

 

よく就活での質問の『あなたをものに例えるとしたら』と聞かれたときに『潤滑油』と応える学生は少なくないと言われています。非常にまとまりよい答えと言っていいでしょう。しかし潤滑油というのは『歯車』あっての潤滑油です。こすれ合う金属がなければ潤滑油は飲めもしない、環境にも悪い液体に過ぎません。堆肥になる生活排水の方がまだ有用な液体ではないでしょうか。

 

ものにたとえてと言われたときに堂々と『歯車』と答えられるように、私も私自身を金属のように鍛え直し、硬いが脆くない、そしてときには柔軟に、靭やかにいることができるように精進していきたいと思います。

 

カミゴリ

今私の願いごとが叶うならば、インターンが欲しい。

先日私は教授の知り合いの会社に厄介にならんと面接を受けたんですが、これが残念ながら不採用となってしまいました。まあ手応えもなかったもので仕方ないとはいえ、血涙がほとばしらん悔恨の念に苛まれる日々を送っています。

 

さて恨んでもこの結果は変わりはしません故、今回の話題に入りたいと思います。

皆さんも面接の際は気をつけておくんなまし。

 

先日とあるツイッターの投稿で気になったことがありました。それは、『専業主婦こそが平等への道』といったものです。このタイトルは私がつけたものですが、その投稿は非常に興味深い点をついていました。

 

投稿は、『高学歴の女性が会社をやめて専業主婦になり、その後にパートで労働市場に参加することで、高学歴の人材が中小企業に回帰する』という理論です。

実際に私の母は現代の水準で見ても非常に優秀な学歴を有しており、新卒で行員となりました。その後に会計資格も取得しましたがその後紆余曲折あって私が誕生し、その後は専業主婦でした。そして私が巣立ったあとには地元の事務所などで事務職についています。

 

母の勤めている会計事務所は、地元向けの小さな事務所で、会計士の社長さんと副社長兼雑務の社長の奥様、そして主婦のパートさん(経理)が四人ほどで回している会社です。母もこのパートなわけですが、こういった中小企業においては就職中の学生にはあまり見向きもされず、必要になってくるのが経理ができるちょい強ママさん達なわけです。こういった構造の中で職歴が悪くなく、かつ寿退社をした主婦というのは引く手数多なわけです。

 

これが全女性が専業主婦にならずにいるとどうなるでしょうか。大企業は優秀な女性人材を抱え込み、人材の『循環』が行われなくなります。これは『個人主義』においては非常に良いことのように思えますが、『日本全体』としては個人の都合によってブレーキが踏まれている状態に近いわけです。

 

男性はそれなりに稼ぎ、女性は『寿退社で子供を育て、育ったら彼女らが中小企業の屋台骨となって支える』、というのがなぜ日本が成長できたのかにつながっていると思います。

 

私の好きな経済評論家の柯隆先生の主張に、『金は大企業が作るが、雇用は中小企業が作る』というのがあります。もちろんトヨタが一割利益が増えるのは、中小企業全てが倍の業績を叩き出すより効果は大きいでしょう。しかし日本の雇用は中小企業に支えられており、雇用が減れば失業者が増え、『実態としての景気』は落ちていきます。そういった意味で、その中小の『背骨』としての優秀な主婦達、というのは日本にとってとても大事なのでは、と思う日々です。

 

女性方はこれを見て心外だと思われるやもしれませんが、これは個人よりも社会全体として考えたときのことを思って言っています。別に今更専業主婦が増えるとも思えませんしこの仕組みはいつか崩壊するでしょう。しかしそうなったときに中小に『使い物になるママさん』を抜きにしても自立している体力はあるのでしょうか。答え合わせは50年後にでもしてみましょう。

 

カミゴリ