「宇宙を知りたい」と思う。
宇宙を知れば、
それは「すべて」を知ったことになる。
では、宇宙を知るために、
どういう手段をとるか?
それが問題だ。
「理論物理学」を通じて、
全宇宙を貫く「法則」を知るか。
さらには「素粒子物理学」を駆使して、
宇宙が「何で」できているかを解明するか?
「文学」「宗教」の観点から、
宇宙が「どうして」創られたのか
(あるいは創られねばならなかったのか)を
説明(描写)するか。
いやいや、最初に挙げた全宇宙の「法則」を知る手段は
もともとは(キリスト教のような)「宗教」の役割だった。
(法則=神の意志、だから)
または、「数学」を通じて
宇宙の「かたち」を測定するか。
数学のなかの幾何学のなかの「位相幾何学」、
すなわち「トポロジー」を駆使することによって、
「宇宙の形」を知る(類推)することができ、
そして、
「もし宇宙に巡らせたロープを手元に回収できたなら、
宇宙の形は丸いと言える」
という、かの「ポアンカレ予想」が数学者たちの前に立ちはだかる・・・。
春日真人 著
『100年の難問はなぜ解けたのか ー 天才数学者の光りと影 ー』
は題名の通り、
20世紀初頭に「知の巨人」アンリ・ポアンカレによって
突きつけられた「難問中の難問」が、
21世紀早々、ロシアのグリゴリ・ペレリマン博士の
奇跡のような知的膂力によって、
「悪夢のように」証明されるまでの軌跡を
丹念に追ったドキュメンタリーである。
「数学の難問を解いて、何のためになるの?」
という、一般・大多数の意識が占有的に支配するなか、
それでも世界(の一部)は最先端の「数学」によって
切り拓かれているのだということが実感される。
同時に、人間の思考・思考実験の限りのなさに
めくるめくような歓喜をおぼえる。
0次元が「点」だということはみんな知ってる。
1次元が「線(分)」であり、2次元が「面」であり、
3次元が「立体」であり、
そして・・・、
4次元が「立体+時間」の時空であることも。
では5次元とは、6次元とは、
10次元とは・・・?
高次元空間を考えるとき、その空間を実際にイメージできるということですか。例えば頭の中に「五次元」を映像で描くことができるのでしょうか。
「いいえ、正確に言うとできません。あくまで『数学的に見る』のです。(後略)」
これは筆者の春日氏が、「次元の壁を打ち破った男」、
スティーブン・スメール博士にインタビューしたときの会話である。
おれはこの部分を読んだとき、
ちょっと安心(?)した。
もし、5次元空間を「映像」としてまざまざと思い描けると言われたら、
もうそれはおれにとって「宇宙人」だ。
一生かかっても、「5次元を映像として思い描ける人」の
脳内イメージを「思い描く」ことはできない。
でも数学上の、計算上の話だとしたら・・・。
3次元というのは座標(X1,X2,X3)で表せる。
5次元だと座標(X1,X2,X3,X4,X5)だ。
100次元だと座標(X1,X2,・・・X100)。
ま。SF小説の「設定」のようなものだ。
この「設定」のなかで、数学者たちは、
想像と計算と思考の翼を思うさまひろげているのかあ!
それなら、どうにかイメージができる・・・
・・・かもしれない。
いや、やっぱり無理かな・・・。
このように、
「最先端の数学者」たちの考えることなど
まったく、さっぱり理解できない人であろうと、
自分には実感として想像もできない頭脳が存在し、
自分には「見えない戦い」が世界で日々繰り広げられている、
という事実に思いを馳せることのできる謙虚な想像力の持ち主なら、
感心のため息とともに本書を楽しむことができると思う。
本書はまず2つの「驚き」を発端とする。
1つ目は、およそ100年の間、世の天才数学者たちを悩ませ、
ときには絶望の淵へと追いやりつづけた世紀の難問、
「ポアンカレ予想」が、2002年、
ロシアのペレリマンによってついに証明されたこと。
そして2つ目の驚きは、
その功績によって授与された「フィールズ賞」の受賞が、
当のペレリマンによって拒否されたことだ。
「四年に一度しか与えられないフィールズ賞を拒否した数学者は、これまでひとりもいません。国際数学連合にとって信じられない打撃です。(後略)」(ウルフガング・ハーケン博士)
グリゴリ・ペレリマンとは何者なのか?
この「難問」が本書のスタートとなる。
構成としては、まず、
(1)ペレリマンのフィールズ賞の受賞拒否の衝撃
↓
(2)ペレリマンの評判・人柄
の紹介から始まり、一転して、
↓
(3)「ポアンカレ予想」とポアンカレについての解説
↓
(4)「ポアンカレ予想」の基礎となる「トポロジー」の解説
と続き、
↓
(5)「ポアンカレ予想」の証明に挑戦し、
(そして挫折した)多くの天才・秀才数学者たちを紹介している。
そのなかには、先述したスティーブン・スメール博士や、
「マジシャン」の異名を持つ天才、ウィリアム・サーストンなど、
そうそうたる数学者たちが含まれる。
ちなみに、「曲率」のエキスパートであり、
自ら「フィールズ賞」歴代受賞者のひとりであり、
「8つの宇宙の形」を提示したサーストン博士は、
「ポアンカレ予想」の証明にいま一歩と迫りながらも、
「特異点」の壁に撥ね返されて証明を諦めた。
・・・といっても具体的にどういうことか解らないよね。
おれもさっぱり解らない。
そもそも「ポアンカレ予想」にしたところで、
精確には、
「単連結な三次元閉多様体は、三次元球面と同相と言えるか」
だ。
言える「か」だよ。
この問いかけに対し、
「真」なら真、「偽」なら偽であることを証明しなければならない。
ほとんどの数学者たちは、
(あのポアンカレが提示しているのだから)「真」に違いないと判断し、
「真」であることを証明しようとして、
挫折した。
それを受けて、いっそのこと「偽」であることを証明しようとした
数学者もいた。こちらも証明し切れずに挫折した。
まさに死屍累々。
ポアンカレ予想の証明に全生活を捧げ、
失意(と「難問に挑みつづけたという喜び」)のうちに、
一生を終えた数学者もいる。
ところが・・・。
二○○二年の秋、数学界に奇妙な噂が流れた。インターネット上に、ポアンカレ予想と幾何化予想の証明が出ているというのだ。/ポアンカレ予想を証明したという数学者たちの早合点は、しばしば数学界を騒がせていた。言うなれば「よくある話」だった。そのインターネットの論文についても、最初はほとんどの数学者が本気にしなかった。
しかし、その論文を半信半疑で読んだある数学者は、
「噂の論文の著者の名を目にして、慌てた」。
数学界において、グリゴリ・ペレリマンの評価は、
それだけ特異にして堅牢なものだったのだ。
ちなみに、ペレリマンの証明は、
ポアンカレ予想、すなわち
「単連結な三次元閉多様体は、三次元球面と同相である」
ことを「真」であると証明したものだ。
サーストンが弾き返された「特異点」の問題を、
大胆(というのも愚かな)新しい概念を導入しつつ、
見事に克服してみせたのだ。
ペレリマンの証明の「正しさ」は
多くの数学者たちの検算により確認され、
そして、
「単連結な三次元閉多様体は、三次元球面と同相である」
ことは「定理」となった・・・。
本書は「数学」そのものの解説書ではなく、
「数学史」の一面を切り取ったものであり、
むしろ、数学者たちの内面に切り込んだ、
「人文科学」的な性質のものだ。
なかでも「文系」的な事項は、
ペレリマンの超人的な克己と、
彼が「フィールズ賞」と、
「ミレニアム懸賞問題」の賞金100万ドルを拒否した真意だ。
著者と、ペレリマンの恩師である
アレクサンドル・アブラモフ氏は、
真相を知るべくペレリマンへの面会を求めた。
しかし、結局会うことはできない。
「謎」は謎のまま残される。
しかし想像できるのは、
「○○を成し遂げる」ことにほとんど求道的に、
(あるいは「求道」を超えて)
人智のすべてを捧げた人間にとっては、
「○○を成し遂げたご褒美として□□をあげます」
というような条件付けで○○の価値をはかられるようなことは、
まるで見当違いの、耐えがたい「屈辱」なのかもしれない。
人間の「欲求」とはなんなのか?
人間の「欲求」と「営為」をすべて「経済的報償」に結びつける
矮小化への強烈な「否」。
それがペレリマンの、一見不可解な行動の真相なのではないかと
想像する。
宇宙の広大さ・深淵さから見れば、
ペレリマンの頭脳など「0次元」に近いのかもしれないが、
ペレリマンの頭脳からすると、
一般的な多くの人間の頭脳は「0次元」みたいなものかもしれない。
・・・・・・・。
眼の前には夏休みの「夏期講習」に向かう高校生のグループ。
そのうちのひとりの発した、
「数学なんて受験が終ればなんの役にも立たないよな~」
という言葉。同意する仲間たち。
「数学なんて役に立たない」??
そのとおり。
ただし「数学」を使わない職業に就けば、ね。
「考える」ことなどに「意味」が無い、と思うならね。
(この点で「数学」は「哲学」と同じ扱いだ)
眼のまえにひろがるのは、
人間の「欲求」と「営為」を、
すべて「経済的報償」に結びつけることへの強烈な「礼賛」・・・。