第31回 内田 樹『私の身体は頭がいい』 | 不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

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読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

比較的空いている電車がホームに停まる

ドアが開く

開いたドアから客がばらばらと降りてくる

これから乗ろうとする人たちは、
降りてくる人をよけてドアのわきに立っている

降りてくる客が「いなく」なったのを見計らって、
待っていた人たちは電車に乗りはじめる


すると・・・、

じつはまだ降りようとする客が残っていて、

乗ろうとしている人とぶつかりそうになる

・・・・・・。

ドアが開き、降りる人の「流れ」が切れたと思えば、
そりゃ、乗ろうとしている人たちは乗り始めるだろう。

当然の動きだ。

もちろん、降りるほうにしても、
ドアが開いた瞬間から、
電光石火の迅さで降りなきゃならないということはないし、
降りる「流れ」に一瞬たりとも遅れちゃいけない、
というわけでもない。

ドアが開いている限り、
いつ降りようが「自由」である。

しかし、いったん「降りる客の流れ」は途切れているのだ。
そうなれば、当然、乗ろうとしている客は乗ってくる。

だから、そういうときは、
むしろ、乗ろうとする客とぶつからないよう、
降りるほうが若干の気遣いをすべきなのではないか。
(気遣いといっても、ちょっと迂回する程度のことだけど)


でも、その日「あとから・遅れて」降りてきた若い男は、
おれの前にいた年配客とすれ違いざま、
肩がぶつかったようだった。

その「遅れて降りてきた男」は、
車外に出てから、
ぶつかった年配客をものすごい形相で睨んでいた。

おれの見たところ、
おれの前に並んでいた年配客が電車に乗るタイミングは、
まったく不自然なものではなかった。

ドアが開いた途端、我れ先に乗りこもうとしたわけではなく、
降りる客の「流れ」が途切れるまで、
ちゃんとドアのわきで待っていた。
(おれはさらにその後ろにならんでいた)


で、乗ろうとしたら、
「遅れてきた男」ドアのそばで肩がぶつかったわけである。

この「遅れて降りてきた男」の言い分もわかる。

その男の言いたかったことはこうだろう。

「降りる客が優先だろうがああ!」

だ。

でもなんか違うんじゃない?
そんなタイミングで表面的な「原則論」を主張するのって。
(口では主張していないが表情が如実に主張していた)


すこしでも早く降りたいと思ったのかもしれないが、
だからといって、どんな状況下であろうと、
席からドアにむかって「最短距離」
まっしぐらに進めばいいというわけではない。


相手はもうドア部分を越えて
一歩「車内」に踏みこんでいるわけだから、
ちょっと迂回すればいいだけだ。

ドアの幅の半分のスペースは空いてるんだからさ。

その「降りようとする男」は、
(降りる客が優先だという)権利をたてに、
「もう、すでに乗っている客」を
車外に押し出してやろうとでも思ったのだろうか?



・・・・・・。

「ルール無視で乗ってきたやつはどんな顔をしてやがるんだ?」
といわんばかりに、
窓ガラス越しに相手を睨んでいる男がどんな顔をしてるのかを
車内から一瞥したおれが読んでいたのは、


しつこいくらいにまたまた内田樹の


『私の身体は頭がいい』


だ。

内容は、自ら合気道の師範でもある内田樹による
「身体論」である・・・と言おうとしたが、
そうも言い切れなくてもどかしい。

まあ、すべて「身体」「武道」に関連したことではあるのだけど、
各論のテーマは多元的で複層的だ。
「コミュニケーション」「医療」「能楽」に関連した章もある)

でも、最初の「さよならギャングたち」の章で語られている
次のフレーズがそのあとのすべての章(特に武道論)に
通底しているのではないかと思う。


武道というのは「相手の身体能力が高ければ高いほど、こちらの動きが冴える」という逆説的な体系だからである。
これが素人にはよく理解できないようである。
ふつうの「強弱勝敗」ゲームでは、できるだけ相手が弱く、身体能力が低く、身体感度が悪い方が術者は大きな利益を得ることができる。
その方が「勝つ」確率が高いからである。
(中略)
つまり勝利を求めるとは、最終的には地球上のすべての人間が自分より弱く、脆く、愚鈍であることを理想とするということである。

で、内田樹は(そしておれも、多くの人たちにとっても)「自分以外の人間がすべて『自分より弱い敵』であるような社会」「が実現したら」「退屈のあまり即死してしまうであろう。」と言う。

そうだよね。

一般的な感覚として、相手チームのプレイは下手なほうがいい。
でも、自分のチームメイトのプレイは「うまい」ほうがいい。

自分のパスや送球やバトンを、
自分の望むとおりに受け止めてくれると「気持ちがいい」

合気道の・・・、ひいては武道の求める境地とは、
人類すべてが自分の「チームメイト」になっている状況、
といったら言いすぎだろうか。

「天下無敵」の真の意味は、
自分以外の人間がすべて自分より弱い(敵ではない)
ということではなく、
文字通り「敵がいない」ということだそうだから、

この
「相手の身体能力が高ければ高いほど、こちらの動きが冴える」
ということを踏まえていると、
後段の、
「剣を道具的に扱わない」
とか、
柔道・空手における「形稽古」と「乱取」の本来の意味が
すんなりと理解でき、
中盤に置かれているやや重厚な、
「非中枢的身体論」の理解にも役立つと思う。

そんなことを言いながら、
おれ自身、「非中枢的身体論」読んでいて途中一瞬混乱してしまったのだが、
「勝負法」というのは(今日の・素人の一般的な感覚とは逆に)
「乱取(試合)」のことではなく「形稽古」のことなんだね。深く納得。

さらにわかりやすい喩えも最後の最後に載っている。

「相手の身体能力が高ければ高いほど、こちらの動きが冴える」

この「相手」を、自分が操作している「自動車」に置き換えると、
車の性能がよいほど、レスポンスが鋭敏であるほど、
快適なドライブが楽しめることになる。

つまり、相手(車)と自分(人)との一体化。

ここで「自分VS自動車」という敵対する
「二元論」を当てはめていては、
「運転操作はぎこちないものになる」

そして、一転、「武道的な動き」とは、
母国語的(=持って生まれた)身体コードからはずれた動き、
であるという、「序破急」を含めた極意につながっていく。

スリリングだ。


軽い「小論」としては、

「オリンピック」や
「家を探す」や
「胆力について」が

楽しい。

ドーピングがなぜいけないのかもよく分からない。
(ド-ピングというのは)シャブと同じで、未来を担保にして現在の身体能力を「買っている」わけである。そういうのは「やりたければやれば」と思う。
内臓がぼろぼろになっても、骨が腐っても、命を縮めてもいま勝ちたいというのは、人間の狂気のありようとしてはしごく「まっとうな狂い方」である。

(「・オリンピック・」より)

いいな~。この文章(文体)。
とくに「未来を担保にして・・・」とか、
「まっとうな狂い方」といった書き方は、
それぞれ両極端な表現だけど、
どちらも、書こうと思ってもなかなか書けない。

・・・・・・。

ところで、「いざ勝負」となると、
「自分以外の人間がすべて自分より劣っている」ほうが
たしかに有利なんだけど、
でも「勝負」って、ごくごく限られた状況下のものだ、
というのが生活における実感だ。

だいたい日常生活では、相手が自分より「劣って」ばかりいたら、
腹立つもの。いや、困るもの。

いつでも、どこでも「降りる人が優先だろ!」と主張するばかりで、
状況に応じてレスポンス・行動を変えることもできない人間ばかりだったら、
おれ、不快のあまり「即死」するわ。


なかにはいるけどね。

相手の能力が低ければ低いほど、
優越感・有利感をおぼえてか、
上機嫌になる(一見母性的な)「勝負師」が。うええ。


でも、そこで上機嫌になることはおれにはできない。


それはたぶん、「勝負師」より、おれのほうが
赤の他人のことも自分の「味方」だと思っているから、
味方の「性能」が悪いと、不快に感じるのにちがいない。







私の身体は頭がいい (文春文庫)