・・・とまあ、前回の「メモ」は、
「真情」を吐露したというより、
「ある設定」のもとでの、
「ある感覚」を忘れないように
という思いから咄嗟に書き記した、
「詩」みたいなものだ。
「額面」通りに解釈しないように。
でも、
抽象的な表現ながら、
どこかでおれの「根源的な」○○を
表したのかもしれない。
(○○に入る「言葉」こそが問題なのだが・・・)
・・・・・・。
さて。仕事帰りの電車の話。
まえにも言ったかもしれないが、
おれは、
「乗り換えに便利」とか
「階段のそば」
「改札の正面」
などに停まる車両は
(たいていすごく混むので)意識的に避け、
電車に乗っている間できるだけ不快な思いをしない車両を選んで乗る。
かりに、おれがよく選んで乗るのが、
10両編成の電車の8両目の最後尾付近だとしよう。
たまに気分を変えて、
第二・三候補である、
5両目とか4両目の最後尾に乗ることもある。
でも、5両目に乗ることはたまのことだったがゆえに、
あるとき乗っていて「え?(ぎょっ!)」と思ったことがある。
5両目の最後尾で立って本を読んでいたおれが、
途中でふと本から顔を上げて隣の6両目を見ると・・・、
激混み!・・・
おれは自分の眼を疑う思いで、
自分の乗っている車両を見渡した。
わざわざ見渡すまでもなく、
そこはほどよい「空き」具合。
立っている乗客がおれを含めて
ちらほらといる程度で、
いたって平和な光景だった。
それなのに、
車両のガラス扉一枚(正確には二枚)隔てたすぐ隣は、
ぎゅうぎゅうのすし詰め状態に近いのである。
(なんだろ・・・この差は・・・?)
ま。ある意味他人事だから、
それっきり、そのエピソードを忘れてしまった。
ところがつい先日、
おれは久々に5両目に乗るつもりでホームで待っていたのだが、
電車が来ていざ乗り込もうとしたとき、
モデルと見紛うミニスカートのOLが隣の6両目に乗ろうとしたので、
つい、ふらふらと一緒に・・・、
というわけではなく、
逆に、巨大なキャリーバッグを曳いている
数人のグループが5両目に乗ろうとしていたので、
急遽5両目は回避し、6両目最前部に乗ることにした。
最前部というのは、災害などで急停止があった場合
「リスク」の高い場所であるため、
ふだんは極力乗らないようにしているのだが、
でも、その日は「ま、いいか」と妥協して乗ることにした。
そこも、乗ったときはガラガラに近かった。
(座れるほどじゃないけど)
電車が進むうち、
徐々に電車内が混み始めてきた。
ふと気づくと・・・、
いつも間にか、激混み状態になっている!!
おれは車両の一番端にいたので、
あまり不快な思いはしなかったのだが、
おれのすぐそばのドア付近では、
何人もの乗客がすし詰めの密着状態になっているのだ。
(そうだよ! 思い出したよ!)
(6両目の前方って、途中からどんどん混んでくるんだ!)
(まえに、隣の車両から見てぎょっとしたじゃないか!)
しかし、そのときはまだ、
なぜこんなに混むのか分らなかった。
乗客がバラけるはずの帰りの電車であるにもかかわらず、
朝のピーク時に近い混みようなのだ。
しかし、その理由はすぐに判明した。
電車が途中の△△駅に停まったとき、
おれのそばの「すし詰め状態」の客たちが、
まるでバッテラ・・・、
いやバッタの大群が飛び去るように、
いっせいに降りていったのだ。
残った車両はガラガラだ。
そう。
もはや説明するまでもないだろうが、
△△駅で停まったときに、6両目の一番前のドアは、
改札に通じる階段の正面に位置したのだ!!
す、すげえな。
そこから距離的にはさして違わないはずの
5両目の一番後ろのドアからでは、
改札に殺到する「競争」で勝利を収めることができないのだ。
そこからじゃ、スタート時に、
すでに「出遅れ」になってしまうわけだ。
・・・なんども、言うけど、すげえな。
この「効率主義」というか「経済性」。
ふと、
「無駄な経済性」
というシニカルな言葉まで浮かんでしまった。
でも、こういう「効率主義者」がたくさん存在してくれるお陰で、
反対に「空いた」「比較的快適な」車両もできるのだけどね。
そのとき読んでいたのは、
またまたまたまた内田樹の
『疲れすぎて眠れぬ夜のために』
だ。
この本の存在は前から店頭で見て知っていたのだけど、
なんか「題名」が感傷的すぎて恥ずかしかったので、
ずーーと買わずにいた本だ。
それに、おれ、眠れないほど疲れていないし・・・。
この本について、内田樹自身は、「内田樹研究室」にて、
「今読むと『何言ってやがんの』的暴言失言が怒濤のごとくあふれてい」ると
謙遜しているが
やはり「学び」の宝庫であることに変わりはない。
題名が示す通り、
「勘違い」「間違い」によって、
半ば自業自得的に「疲れすぎて」しまっている人たちへの
忠告・・・いや、警告の書ともなっている。
若い人が分っていないのは(あるいは分ろうとしないのは)この「人間はわりと簡単に壊れる」という事実です。/「壊れる」にはいろいろな形態があります。/典型的なのは、「自分とは違う人間、こことは違う場所、今とは違う時間」の方に「今、ここにいる自分」よりも強いリアリティーを感じてしまうことです。
この引用だけだと解りにくいかもしれないが、
要するに、
自分の「可能性」の限界を知らずに、
(可能性というのは常に有限であると理解せずに)
「なりたい自分」「こうであるべき自分」「一ランク上の自分」
を実現化するため、
自分の身体や精神を長期に亘って酷使していると、
本来の「可能性」すら開花させることができない、
という逆説である。
それは愛情と同じです。/愛情をずいぶん乱暴にこき使う人がいます。相手が自分のことをどれほど愛しているのか知ろうとして、愛情を「試す」人がいます。(中略)さまざまな「試練」を愛情に与えて、それを生き延びたら、それが「ほんとうの愛情」だ、というようなことを考える。/でも、これは間違ってますよ。(中略)ほとんどの愛情は、そんなことをすれば、すぐに枯死してしまうでしょう。
(「ワンランク下の自分に」より)
あと、「不愉快な人間関係に耐える能力」を
「プラスの能力」だと勘違いすることから、
人間は「オヤジ」化していく、という説。
これも内容的に同一のことを
他の場所でも繰り返し述べているのだが、
つまりはこういうことだ。
そのまま不愉快な人間関係の中にとどまっているうちに、やがて「耐える」ということが自己目的化し、「耐える」ことのうちに自己の存在証明が凝縮されてしまったような人間
こそが、世に言う「中年のオヤジ」であるとした上で、
「不愉快な人間関係に耐えている」自分を一度でも合理化し、その生き方に意味を見出してしまった人間は、それから後の人生、繰り返し「不愉快な人間関係に耐える」生き方を選択し続けることになるのです。
と説く。
(「人はどうしてオヤジになるか」より)
どこかで「白」を「黒」と言い張ってしまった者は、
そのあとの人生において、
「あの選択は間違っていなかった!」
ということを自己に証明しつづけるために、
ずっと「白」を「黒」といい続けなければならないわけだ。
このダイナミックな「理路」は、
かつてこのブログでも取り上げた、
『健全な肉体に狂気は宿る ―生きづらさの正体』
(内田樹/春日武彦 共著)
のなかでも展開されていて、「はっ」とした。
若い女性が一生独身でいることを前提に、
三十年くらいのローンでマンションを購入する。
そういう女性は、
「一人暮らしに備えてマンションを購入したあのときの私の選択」
が間違っていなかったことを自分に証明するために、
たとえ結婚の対象となり得る男性が現れても、
その距離をあえて縮めようとしないし、
仮に交際することになっても、
「無意識」のレベルで、
その彼と別れるように、別れるようにもっていくようになる、
という意味のことを説いている。
言われてみればコロンブスの卵なのだけれど、
案外、このピットフォール(落とし穴)に
無自覚に嵌ってしまっている人が多い。
おれも、決定的な場面では無いつもりだが、
細かい場面で「過去の行動(選択)の正当化」
をしているかもしれないし・・・。
あ。でも、無いかな。
おれは小さいときから、
たくさんの「失敗」をしてきたから、
その分、
「白」を「黒」と誤魔化し「つづける」ことの
「怖さ」もわりと小さいときから気づいていたと思う。
おれにとって内田樹の著作は、
むしろ
「不快を避けているおれは情けない」
「嫌いな人間と仲良くできないおれは狭量な人間だ」
と思いつづけてきた負の自己認識を、
「ちがうよ。それこそまっとうな感覚なんだよ」
と言ってくれる「救済」の書なのである。
だから、おれはその「恩」に対する「反対給付」の思いに駆られて
これからも本を買うだろう。
疲れすぎて眠れぬ夜のために (角川文庫)