8月6日が来ると必ず映し出される風景がある。
原爆ドーム。
原爆投下の象徴的な存在である。
テレビで、ニュース動画で、新聞で、通勤通学電車にゆられながら、家事をしながら、あるいは旅先で、その光景を横目で見ながら、平和な一日が過ぎてゆく。
あるいは、どこかで祈りを捧げる方もおられるかもしれない。
あのキノコ雲の下で、どんなことが起きたか身をもって知る人はそう多くないだろう。
たとえば、あの雲の下にいた被爆者のみなさんはことし3月末時点で9万9130人。
去年の同じ時期より7695人少なくなり、ついに10万人を切った。
公表されている被爆者数のピークは、1981(昭和56)年の37万2264人だから、4人に3人はお亡くなりになられていることになる。
原爆ドーム 広島県ウェブサイトより
あるニュース番組に出演された日本被団協の箕牧智之さん(83)は、自分ももう高齢で戦後90年のときはもういないと思うという旨を話されていた。
私の親も昭和ヒトケタで戦争体験者ではあるが、空襲のような戦災には遭っていない。
ゆえに、戦時の教育、食糧事情や貧困については聞くことがあっても、恐怖や悲惨さを聞いたことはあまりない。せいぜい南の空が空襲で真っ赤だったと話す程度だ。
私の伯父は戦没者である。21歳のとき、中国大陸で戦病死した。むろん私は戦後生まれだから、生前の伯父を知らない。
私は遺族ではないが遺族の子ではある。
その出征から亡くなるまでの経緯は、成人になってかなり経ってから知った。
そういう意味では、私のように戦争と、か細いながらもつながりのある人も少なくないのではなかろうか。
戦争について、私が衝撃をもって実感したのは、中学生の頃だった。
いつだったかははっきりしない。
テレビからだった。
ピカドン
ご存知の方は少なくないかもしれない。
『ピカドン』は、10分そこそこの短編アニメーション映画である。
『ピカドン』のワンシーン 京都国際マンガミュージアムウェブサイトより
1945年8月6日、午前8時15分。
戦時下ではあるが、その寸前まで、人々には、仕事に出かける人たち、市電に乗る人たち、洗濯をする老婆、校庭で体操をする生徒たち、家で赤ん坊に乳をあげる母親、そうしたいつもと変わりない暮らしがあった。
その時、太陽の100倍もの閃光がピカッとひかり、つづいてドンという衝撃波が人々を襲った。
原爆は今も多くの人々を苦しめ、その恐ろしさは計り知れない。
当時の様子をできるだけ正確に再現したこの作品には、不幸な出来事が繰り返されないよう、平和への祈りが凝縮されている。
広島の原爆を初めてアニメーションで描いた作品だ。
実写ではないが、映像に配慮も迷いもないぶん、人によっては気分が悪くなるかもしれない。私はいまも思い出すだけで、動悸がしてしまう。
ありきたりな日常が、そのピカドンの爆風のなかで、すべて壊れるのである。
むろん、人もだ。
人が溶ける。
眼球が、どろりと落ちる。
手を引っ張ると、骨だけが残る。
男も、女も、年寄りも、幼な子も、みな…。
もはや地獄だ。
次元がちがう話なのだが、たとえば、人がやさしさやいたわりを身につけるには、友だちが転んだとき、
ああ痛かったろうな
と、感じる気持ちを、その都度自分の中で作り上げていきさえすればよいと、いう。
私たちは、転んだ友だちのようにキノコ雲の下の人たちに、気持ちを寄せることができないのだろうか。
広島に原爆投下直後、上空に広がるキノコ雲 朝日新聞ウェブサイトより
平和を祈る
と、世間はいう。
人はそのとき脳裏に何を思うのだろう。
体験として戦争を知らない私は、何を思えばいいのだろう。
いつまでもこの平和が続きますように、と念ずることだろうか。
それとも、平和を祈るということは、キノコ雲の下にいたのが、私の親や、私の子や、私の妻や、私の恋人や、私の兄弟姉妹だと思うことであるというのは、見当違いだろうか。
こんな話もある。
原爆の火
というものが、ある場所にいまだに灯っている。
福岡県八女市には、原爆が投下された当時、広島にいた八女出身の故・山本達雄氏が持ち帰った焼け跡の火がいまもともし続けられている。
八女市の「平和の塔」に原爆の火が燃え続けている 広島ニュース食べタインジャーウェブサイトより
原爆の火を持ち帰った達雄氏の息子である陶芸家・山本拓道氏が、なぜ父親がこの火を燃やし続けたかの意味を語っている。
達雄氏は軍の仕事で広島にいた。
達雄氏もピカドンを見た一人だ。彼は生き延びた。
しかし、達雄氏が父のように慕っていた叔父は被爆し、その遺骨さえ見つからなかった。
達雄氏は叔父の住んでいた場所でくすぶっていた火を形見に持ち帰って、仏壇やかまどで絶やすことなく燃やし続けた。
息子の拓道氏がその火について父に尋ねた。
父は何も言わずに飲んでいた酒をブルブルっと震わせてパッと投げて、
貴様なんかに何がわかるか
と、言ったという。
広島で見たり聞いたりしたことが、あまりに悲惨であまり話できるないようではなかったと思う。
と拓道氏は言う。
拓道氏は、父の思いを調べていくうちに、父が地元の子供たちに生々しい感情を語る映像を見つける。
腹が立って腹が立って、恨みごとの火。
反感心を起こして、俺がアメリカに復讐するときの材料にするというような、とんでもない気持ちを起こしてこの火を消さなかったこともある。
達雄氏にとって、この火は平和を祈る火ではなかった。
叔父や多くの人の命を奪った「恨みの火」だったのだ。
拓道氏は、たどり着いた父の本心をこのように言う。
大事な火として扱ってくれるのはとてもうれしいけれど、いちばんもとに何があったのかがだんだん薄れていくのがいまの現実。
父が一番言いたかったのは、
これは平和の火じゃないぞ
これは原子爆弾の恨みの火たい
父のそういう思いのうえにともっているのが、〝平和の火〟だとみんなに知ってほしい。
戦後80年ともなると原爆の、戦争の恐ろしさがだんだん薄れてくることは否めない。
悲惨さの実感がなくなってくるからだろう。
あのキノコ雲の下で起きた、もがき苦しむ無数の人たちの断末魔のうめき声。
それを達雄氏は目の当たりにしたのだ。
父・達雄氏の最期のひと言が何であったかを拓道氏はこう言った。
人間同士が殺し合うやうな愚かなことは、もうそろそろやめなきゃいかん
特攻は4500人を超える戦死者を出した NHKオンデマンドより
山本達雄氏のような戦争体験者が第一世代ならば、子の拓道氏は第二世代であり、すでに高齢者になってきている。
私もどちらかといえばその世代に近い。
いまや日本の中核層は第三世代であり、子どもや若者たちは第四世代だといえる。
私ですら、遺族の子でありながら、
戦争への恨み
戦争への嫌悪
戦争の悲惨さ
戦争の愚かしさ
という切実さを、第一世代とあまり共有していないように思う。
共有がすべてとはいわないが、では私たちが口々に唱える「平和」のもとになるものは何だろうか。
いくらでも平和を口にはできる。
そうあらねばならぬとあるときは共感し、あるときは批判もする。
達雄氏のようにはいかないが、平和への思いに〝土性骨〟をぶち込まなければ、平和は守れないのではあるまいか。
住民たちが次々と身を投げたサイパン島バンザイクリフ NHKウェブサイトより
以下、余談を。
私など戦後世代は、戦後は永遠に戦後だと思ってきた。
それが、最近になって「新しい戦前」などと言われている。私など、どうも戦前という言葉を聞くと神経質になってしまう。
戦後になって、これは戦前に似ていると言った意外な人物がいた。
初代宮内庁長官である田島道治氏が昭和天皇との対話を詳細に書き残した『拝謁記』というのがある。
その昭和27年4月18日の拝謁ではこんな記録がある。
田島長官に、天皇がいう。
国会の様子についてだ。
一部、現代かなづかいになおす。
私は実に心配しているのだが、戦争前の状況というか、大正末期から昭和の始めへかけての社会の有様と最近は非常に似てると思う。
国会はやはり其頃と実際少しも変りなく、国家社会より党の事を考えたような様子でその言論や実勢力を行い、政府側の答弁も責任逃れのような事ばかりでなげかわしい有様はさっきいった頃と少しも違いない。
このとき、天皇は
戦前に似ている
と言っている。
昭和天皇の生々しい発言を記録した田島初代宮内庁長官(右) NHKウェブサイトより
その2ヶ月後の6月24日の拝謁ではこんな記録がある。
日本が再建する為には、この際は、挙国一致であるべきだと思うに、国の前途など少しも考えぬような風に党利党略に専念してるように国会の有様は、民主化とか、憲法改正とかいうが、少しも戦前の議会のわるかった処は改まって居らない。
と、憤りをあらわしている。
このときの天皇の言葉には、今にも重なるような気になるワードが繰り返されているように思える。
話柄が右往左往してしまっているが、つまりは、平和は絶対的に存在するものではなく、つねに戦争と相対して存在しているということである。
平和と戦争は天秤の左と右。
平和は、もはやだれかまかせで守れるものではあるまい。
戦争が人間世界のものである限りにおいて、戦争のもとのもとのタネは、人間ひとりひとりの中に存在しているに違いない。
ひょっとして、そのタネは意外な顔をしているかもしれない。それに気づかなければ、やがてそれは芽吹く。
結局は、ひとりひとりがそのタネを、できれば摘み、少なくとも芽吹かないようにしておくことしかないのではあるまいか。
以上、拙劣ながら私的雑感まで。的はずれの折はご寛恕のほど。
原爆死没者慰霊碑 広島市ウェブサイトより
※「戦争」に関する拙稿はこちら
◉かえりみれば眇眇〜原体験は人に何をもたらす〜
◉ 戦後80年の自問〜瞑目して聞く歴史のなかの言葉〜
◉ ドラマ『坂の上の雲』ふたたび〜忘れない「成功は失敗の母」の視点〜
◉ 四平街の戦車から考える〜司馬遼太郎が遺した歴史の韻〜
◉ 歴史家がひもとく真理①〜「歴史は繰り返さないが韻を踏む」〜
◉ ポーツマス、そして日比谷〜坂の上の雲のあとの泥沼〜
◉ 終戦というこの日に〜生きられなかった貴方へ〜