戦後79年になる。
若いころ読んだ古い書物を読んでいると、
ここに書いてあることはいま起きていることの暗喩なのか。
それともいま起きていることがデジャヴなのか。
と思うことがある。
いや、バカなそんなことはない。
むかしにいま起きることがわかるはずはない。
と思う。
たしかに、そんなはずはない。
いま起きてはいない。しかし、これから起こるかもしれない。
そんな恐れはわずかながらある。
少し前の稿で、
歴史は繰り返さないが韻を踏む
ということに触れた。
歴史が繰り返すのならわかりやすいのだが、韻を踏むとなると、それが危機だった場合、直前にならないとまたは事が起きてみてはじめてわかることもある。
その時は手遅れかもしれないところが、はるかに恐ろしい。
それは、古い書物といっても1974(昭和49)年に書かれたものである。
『歴史と視点』
司馬遼太郎の随筆である。
『歴史と視点』 Amazonウェブサイトより
司馬さんは二十歳のとき、学徒動員で兵隊にとられた。
その際、通知書に「戦車手」と書かれていたという。
司馬さんは戦車兵になった。
彼は速成教育を受けるべく満州の四平街にある陸軍戦車学校へ送られた。
1944(昭和19)年のことである。
司馬さんは戦車に素人だっただけでなく機械が苦手だった。
その彼でも日本の戦車の脆弱さを知っていた。
その5年前、日本軍に悲劇が起きている。
ノモンハン事件。
詳述は省くが、満州国と外モンゴルで起きた国境紛争で、日本軍とソ連軍が直接対決した衝突事件だ。
結果は、日本軍側が航空戦では数に劣りながらも常に優勢であったものの、地上戦は戦車火砲の力の差がはなはだしく敗退に終わった。3人に1人は死んでおり死傷者率約7割というから全滅に近い信じがたい大敗である。
ノモンハンの戦場まで徒歩で移動する関東軍の歩兵たち JBpressウェブサイトより
日本軍の戦車は、九八式というものが多数で砲身がとびきり短く貫徹力がにぶく、連発はできても敵戦車の鋼板にカスリ傷も与えられなかった。
一方、ソ連のBT戦車は長い砲身で貫徹力が強く日本の戦車は一発で仕止められた。
司馬さんは後年作家となったが、ついにノモンハンを書くことはなかった。
ただ、怒りのこもった随筆を書いている。
ノモンハンで生き残った日本軍の戦車小隊長、中隊長の数人が、発狂して廃人になったというはなしを、私は戦車学校のときにきいて戦慄したことがある。
命中しても貫徹しないような兵器をもたされて戦場に出されれば、マジメな将校であればあるほど発狂するのが当然であろう。
この一事だけでも、日本陸軍の首脳にろくな戦争指導力がなかったといえる。
(「軍神・西住戦車長」より)
その5年後、ソ連国境にさほど遠くない満州の野に司馬さんはいる。
彼は満州に渡る前、友人に戦車手となったことを話すと、その友人は
戦車なら死ぬなあ、百パーセントあかんなぁ
と気の毒そうに言ったという。
彼の父は陸軍の獣医将校で軍隊のことに通じていたのだ。
戦車の戦果は、その装甲の強さ、速度、砲の貫徹力といった技術で決まるのだ。
司馬さんは戦地にいて大きな幻滅を感じていた。
戦車は軍の先鋒をひきうける兵種であり、その喧騒で巨大で鈍重な物体がひとたび敵の視野のなかに入るとき、敵はそのあたりの火力をぜんぶこれに集中し、これをまず潰すことに全力をあげる。
九八式軽戦車 Wikipediaより
そのあとの彼の表現は、ある意味で発狂した戦車隊長と同質のトラウマを負った者のうめき声に聞こえる。
じつに陰鬱な乗物である上に、戦車兵の戦死の状況ほど気味のわるいものはなかった。
たとえば敵の徹甲弾が戦車の横っ腹を打ちぬいたとしても、もう一方の横っ腹まで串刺しにする力はなく、車内できりきりとミキサーのように旋回するため乗員の肉も骨もこまぎれになり、遺体収容作業の場合はひときれずつ箸でつまんで外へ出さねばならない。
年頃だけに死ぬことは苦にならなかったが、自分が挽肉になるという想像は愉快なものではなかった。
(「戦車・この憂鬱な乗物」より)
司馬さんは自分の憤りをもこう説明している、
「戦車であればいいじゃないか。防御鋼板の薄さは大和魂でおぎなう。それに薄ければ機動力もある。砲の力がよわいというが、敵の歩兵や砲兵に対しては有効ではないか」(略)
と、戦後、私に参謀をつとめたことのある兵科の少佐がいったことがある。
技術将校が硬論を吐くとすぐ飛ばされた。兵科将校のいうことにご無理ごもっともという出入り商人的な技術将校だけが出世されるという仕組みになっていた、という。
彼は痛烈なまでにいう。
参謀本部に集まっていた政治好きのキチガイそのままの政治的空想をもった陸軍軍人たちがこの戦車を作った、と。
そして、歴史の韻のモトとなった言葉をこう言った。
その〝組織〟としてでなく個々の高級軍人として、かれらが自分の胸に手をあてて本当に日本が勝てるとおもっただろうか。
勝てると思ったとすればそれは軍事専門家でもなんでもなく、素人か、それともキチガイか、そのどちらかにちがいない。
おそらくかれら個々の本心はとても勝てないとおもっていたであろう。
しかし、その本心をたとえ同僚に話したとしてもかれは官僚として自滅するにちがいなく、極端にいえば自分の保身のほうが国家の存亡よりも大事だったのである。
集団がいっせいに傾斜をはじめたときに、ひとり醒めた言動をするということがいかに勇気が要るかということはわかるが、しかしそれにしても昭和前期の陸軍の指導層というものはひどいものであった。
玉音放送を聞いたあと皇居前にひれ伏す人たち 西日本新聞ウェブサイトより
四平街の戦車のなかで、司馬さんは自分の国を唾棄するほど呪ったに違いない。
この戦争体験が、彼が書いた作品の原点になっていた。
どうして日本人はこんなバカになったんだろうというのが22歳のときの感想でした。
むかしは違っただろうと。私の作品というのは22歳の自分へ書いている手紙でした。
日本人とはなんぞやということがテーマでした。
敗戦そのものよりも、なぜこういったつまらない国になったのか。
国を運営している人々がなぜこんなにお粗末なのかと考えました。
(1991年・文化功労者受賞の記者会見より)
司馬さんが幻滅したそうした時代といまは決定的に異なる。
いま、高級軍人など存在しない。
いまは民主主義の世の中だ。
いま、私たち国民が国の政治を決定する権利を持つ。
私たち国民は、選挙を通じて代弁者として議員を選び、代表機関である議会などを通じて主権を行使する。
その責任もまた私たち国民にある、ということだ。
私たち国民から権力を負託された人たちがいる。負託することで私たちは主権を行使し、その責任も私たちにある。
そういうことになっている。
その現実を踏まえて、歴史の韻をもう一度繰り返してみたい。
その〝組織〟でなくおのれ一個人として、彼らが自分の胸に手をあてて、本当にこの国とこの国の人々にとって利益とおもっただろうか。
おそらくかれら個々の本心としては国民にとっては利益とおもっても〝組織〟にとっては不利益とおもっていただろう。
しかし本心をたとえ個人的に同僚に話したとしてもかれは組織人として自滅するにちがいなく、極端にいえば自分の保身のほうがこの国とこの国の人々の利益よりも大事だったのである。
ときとして個人は、このように組織というものに、長いものにまかれるようにして自分の本心を放棄してはいまいか。
そういう歴史の韻がいまもありはしないだろうか。
技術がすべての戦車の脆弱さを大和魂でおぎなうと言った高級軍人によって、ノモンハンで八千人余の兵隊が亡くなった。
間違いなく彼らは私たちと同じこの国の人々だ。
繰り返していえば、いまは時代が違う。
民主主義の世の中だ。
そんなバカなことが起こるはずはない。
国会議事堂 Wikipediaより
しかし、いま〝組織〟は無謬だろうか。
〝組織〟によって人の命は1人でも損なわれていないだろうか。
とかく民主主義の国の国民は、つらい。
国民は、国の政治を決定する権利を持つ。
国民は、選挙を通じて代弁者として議員を選び、代表機関である議会などを通じて主権を行使する。
その責任もまた国民にある。
司馬さんはバブル経済が崩壊したとき、これを第二の敗戦であると言い、それを見逃した日本人に対して「明日はない」と言って猛省を促した。
そして、いままた。
泉下で、司馬さん、
どうして日本人はこんなバカになったんだろう。
そう言ってはいないだろうか。
【参考】
司馬遼太郎『歴史と視点』(新潮文庫)
司馬遼太郎『この国のかたち』(文春文庫)
福間良明『司馬遼太郎の時代』(中央公論新書)