手元にある古い写真の中に、私の家族たちがいる。
ただ、その中に私はいない。
いるのは、祖父母、父とそのきょうだいたちだ。
昭和20年3月。
真ん中に軍服を着ている伯父なる人がいる。
21歳の若者だ。
私はこの人を知らない。
この写真の中でこの人だけ会ったことがない。
この写真が撮影された十数年後に、私は生まれている。
写真の背景には家族たちの住む古い借家の玄関に、日章旗と旭日旗が交差して飾られている。
この当時、どの家でも見られた入営し出征する身内の者を送り出す風景である。
このころ、すでに東京は大空襲によって10万人の市民が亡くなり、下町の大部分が焼け野原になっている。
焦土と化した東京 Wikipediaより
わが大君に召されたる
命栄えある朝ぼらけ
讃へて送る一億の
歓呼は高く天を衝く
いざ征けつはもの日本男児
という出征兵士を送る歌があったというが、写真を見る限りとても違和感がある。
写真の中には、笑顔はなく、家族の日常に「国」という人買いが来て、カメラを構えて気ぜわしく写真を撮り、伯父なる若者の手を引いて足早に去っていった。
そんな印象がある。
8月13日はお盆の迎え火の日だ。
数日のあいだ、私の実家の仏壇にも、先祖たちのたましいが宿る火が灯されている。
その灯りを通して、私は会ったことのない伯父と対面することができる。
この伯父が、新人類世代の私の知る「戦争」である。
古い手紙がある。
そこには、それからの伯父・栄一(仮名)のことが書かれていた。
昭和21年付、栄一の所属する部隊の部隊長から栄一の父(私の祖父)あての巻紙の長い手紙だった。
読むうちに、部隊長の悔恨と謝罪の書であることがわかった。
栄一殿には御承知のこととは存じますが、昨年4月1日、○○部隊に入営され、まもなく支那派遣の大命を受け、九州博多港出帆。
4月16日南京着と同時にこの日より小生の隊員として転属してまいり、不肖・安田(仮名)の部下となり、飛行機整備の任務に邁進することとなりました。
栄一は、自分がどこへ赴任するか知っていたのだろうか。
東京大空襲があったにもかかわらず、大陸に渡ることになるのだ。
若く血気盛んとはいえ、生身の人間だ。
「みんな、征くのだ。」とわが身に言い聞かせていたのではなかろうか。
その後、部隊は南京に約2か月間とどまり6月27日、命を受けて徐州に移動いたしましたが、
当時の困難な状況下にもかかわらず入営前得られたる優秀なる技能を発揮して、部隊任務遂行のため、孜々として努力しておられたのでありますが、
炎熱烈しく当時雨多くして気候不順なりし、7月中旬頃、渡支以来の疲労累積のため感冒と急性腸炎にて病床に臥す身となりましたが、
これは軽症にて旬日を出でずして治癒し健康を取り戻されました。
栄一は飛行機の整備兵であった。階級は二等兵。
徐州にきて、このようにわずか半月で病臥している。
とくに病弱でなかった栄一にとっても、そうとう劣悪な環境だったのだろう。
当時は隊員一丸となり作業に次ぐ作業にて真に死力を尽くしての活動が繰り返され、炎天より露深き朝へと徹夜作業もまた行われました。
しかるに7月下旬にいたり再度下肢、次いで顔および腹部に浮腫を生じましたので休養室において衛生部員の指導看護を受け、本人また熱心に治療に努めましたが、
病勢悪化の傾向逐次現れましたので、将来を思い隊治療をやめまして、徐州の兵站病院に入院しました。
入院後は病院の優秀なる施設と院長某大佐殿、某中尉殿以下衛生兵看護婦の懸命なる看護と本人の真摯なる療養にもかかわらず、
軽癒の徴見えず8月19日に両湿性胸膜炎兼結核性腹膜炎となり、
次いで9月7日に至り肺結核兼両湿性胸膜炎兼結核性腹膜炎と病名決定し、
衰弱次第に加わり、関係衛生部員の努力と薬名の効なく、ついに9月9日午前6時30分、江蘇省徐州郊外兵站病院にて不帰の客となりました。
栄一が徐州の病院で病と闘っている昭和20年8月15日正午、ポツダム宣言受諾による終戦を日本国民に伝える目的で、いわゆる玉音放送が流れた。
日本が降伏し、戦争が終わったのである。
栄一、行年21歳。
終戦の日からすでに25日が過ぎていた。
しかし、栄一の死は戦病死として扱われ、院号居士の戒名が与えられ、その名は靖国に刻まれた。
安田部隊長の手紙には、
臨終に間に合わなかったこと
もし生きていれば温厚篤実な人柄と優秀な技術で祖国復興に貢献しただろうこと
遺骸は居留民経営の火葬場にて荼毘に付されたこと
徐州の寺で告別式を行ったこと
遺骨は部隊に警護され内地に帰還し関係部署によって送る手はずになっていること
などが記されていた。
生者必滅は現世の習とは申しながらご遺族のご悲嘆を察し申し上げれば、栄一殿のご永眠は部隊長として誠に申し訳なく痛恨の極みにて、ご遺族に対し深くお詫び申し上げる次第であります。
この誠実な部隊長の丁寧なお手紙のおかげで、残された者は出征していった者の最期の様子を知ることができた。
しかし、伯父の遺骨は遺族の手に届くことはなかった。
たしかに白木の箱は渡された。
近くの寺まで白木の箱を首にかけ祖父が歩いたそうだが、その箱には何もはいっていなかった。
だから、私の家の墓に行っても伯父はいない。
いま、私の実家の仏壇にともるその灯りを通して、私は伯父と対面することができるのだ。
以上が、私の唯一知ることのできる身内の「戦争」だ。
一昨日、伯父の弟である私の叔父が私に言った。
親父やおふくろは涙を見せなかったんだよな。
死んで息子が帰ってきても…という意味だった。
令和のいま、戦争は遠くなった。
私にもなぜ涙が出なかったのか理解できない。
しかし、情がないのではなく、涙が出ない理由はあったはずだ。
おかえりなさい。ごくろうさまでした。よくがんばりました。
子への愛情をこめて、吐息をつくように思ったのではないか。
そして何より、わびしすぎる思いを禁じえなかったのではないか。
私にとって、生きたくても生きられなかった伯父は、自分の生命の重さ、一日一日の大切さ、人としてまっとうであるかを問う「影」のような存在になっている。