軽きこと綿毛の如く【前】〜武士が命を懸ける理由(源満仲・那須与一)〜 | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

命懸けでやれば何も怖いものはない、という。

いまの世でいえば、命懸けといっても、戦争は別として多くの場合は、生死が五分五分のところで、そういう言葉を吐いてはいまい。

しかし、いにしえ、命懸けとはほんとうに生死を賭けていた。
なぜそんなに自分の命を軽く扱うのか、というほどに命をかけている。

大河ドラマ『光る君へ』第10回「月夜の陰謀」では、花山天皇が藤原兼家の罠によって出家されられ、皇位をおわれる〈寛和の変〉が描かれていた。
兼家の陰謀では、次男の道兼が、花山天皇を連れ出して寺にゆき出家させる〝実行犯〟。いちばんの汚れ役だ。

以前の稿でも述べたが、藤原冬嗣以来、その直系一族は天皇近くに仕え、次第に富と権力を握り、政敵を排斥していった。

この一族は、右大臣・菅原道真を昌泰の変で、左大臣・源高明(醍醐天皇の子)を安和の変でいずれも大宰府へ追いやり、寛和の変では花山天皇を退位に追いこんだ。
意中の皇子を天皇にするためにだ。

以来、明治維新までこの一族は天皇の最もそばにいて決して離れていない。

藤原道兼は花山退位の陰謀の実行犯を担当していたが、安和の変以来、自ら手を汚したくない藤原家の代わりに手を汚し、その代償として実利を得る道を選んだ者たちがいる。

◉源満仲・源頼信の場合

源高明が外祖父になることを恐れた藤原氏に、高明に謀反の恐れありと密告したのは、そうした者たちであった。

その一人を源満仲(912〜997)という。

清和天皇のひ孫ではあるものの藤原氏と血縁がないため、冷や飯食いに甘んじざるを得ない族党であった。

その満仲。
当初は源高明の家人であったとされる。
それまで正六位下・左馬助という一介の下級役人であった。
律令制にあって、貴族とよばれる者たちの位階は従五位下以上とされている。
五位以上の者は、殿上人とよばれ昇殿を許された。
満仲は清和源氏の長者でありながら、この時は貴族にあらず、地下役人に過ぎなかった。

それが、である。
安和の変のあと、一躍、正五位下の位を賜っている。
新たに仕えたのは藤原摂関家の兼家だ。

高明が親王を東国に迎えて乱を起こそうとしたと密告したという記録があるが、それはかなり後世の資料であって、真相はよくわかっていない。
ひょっとしたら満仲は、藤原兼家が源高明を罠に陥れるために送り込んだスパイだったかもしれない。

 

源満仲像 和樂ウェブサイトより

変のあと飛躍したのは位階だけではなかった。
満仲は摂津守の職を賜った。
名誉だけでなく実利を得たのだ。
摂津国に所領をもらい、摂津多田(兵庫県川西市)に土着、そこを拠点とした。
密告の見返りというほかない。

満仲は大きな私有地を得た。
うれしかっただろう。
多田の地を開拓するととともに、多くの郎党を養い武士団を形成した。

満仲の後半生の目標は決まった。
藤原摂関家に家芸である武技をもって尽忠し、私有地を増やして強大な武士団を作ろうと。


越後守
越前守
伊予守
陸奥守
鎮守府将軍

その後の満仲の輝かしい経歴である。
江戸時代の「いろはかるた」に

武士のはじまり 多田ノ満仲 

というのがある。
平将門と同時代の人ではあるが、将門は武士として失敗し、満仲は武士として成功した。

将門はあれだけ武力を持ちながら、やり方を間違えた。わしはその轍は踏まぬ。
もしわし一代で無理なら代を重ねて、大業を成してみせる。


小説の満仲なら、そういいそうだ。

あるじを裏切って密告という汚れ仕事をし、新たなあるじに取り入った満仲とその一族。

実は満仲の父・経基も似たようなことをしている。
経基が武蔵守として在地に赴任していたとき、地元の郡司とトラブルが起きた。
その仲裁をしたのが坂東で人気と実力のあった平将門。
トラブルは和解して落着したのだが、将門と郡司がグルになって自分を殺害しようとしたと誤認して都へ逃げかえり、朝廷に将門謀反と告訴した。
しかし、中立の立場をとる坂東の国司たちから事実無根の報告が入ったことによって、誣告罪で拘束されてしまう。
その後、将門が本当に謀反を起こしたことによって罪を許され、むしろ功績をみとめられ従五位下に叙せられた。

経基にはとりたてて武功はなく、戦わず逃げ帰ったり、権力者に言いつけたり、追討を命じられても戦地に赴くまでに他の者が鎮定してしまったりと、どうにも不甲斐ない。

しかし、筋の悪い手ではあるが二度はない好機をとらえて、功名をあげ出世をつかむところは共通している。

 

源経基像(月岡芳年画) Wikipediaより

武官貴族の身となった満仲一族が探し出した生きる道は、藤原摂関家のボディガードだった。

武技に秀でた勇猛な彼らは、盗賊が横行して治安が悪く政敵も多い都で、藤原摂関家の警護にあたったのである。
彼らの刃は決してあるじに向けられてはならない。信用がなければ付ける職ではない。
権力者に常に寄り添っているのだ。
私語だって耳に入る。機微な情報も手に取るようにわかるだろう。
栄達の機会は増えこそすれ減ることはない。

たとえば、満仲の三男・源頼信(968〜1048)は花山天皇を宮中から連れ出した道兼のボディガードをしている。

彼はこののち、坂東の混乱を収拾するような大仕事をするが、このときの言動の異質さが頭から離れないでいる。
以前の稿で述べたことであるが、再掲する。

あるじの道兼はやがて、父や兄と不和になった。

その憤怒と憎悪の姿を見たとき、頼信は兄の頼光を前にこう言った。



 

わが君(道兼)を関白にし奉るために、中ノ関白(道隆)をオレが殺す。


オレが刀を引き抜いてあの御殿に突入するなら、防ぐことができる者など誰もいやしないのだ。

 



さすがに頼光は驚いて頼信をとめた。



 

やめておけ。


第一に必ず殺せるかといえばわからない。


第二に殺せたとしても、その罪がおよんで関白になれないかもしれぬ。


第三にたとえ関白になれたとしても、先方は報復を考えるだろう。


一生の間、お前は殿様をお守りできるのか、できないであろう。

殺人を厭わない殺伐な気風
主君と仰ぐ者に対して理非を問わない忠義心

この勇猛勁烈の者ども。
貴族とも凡下ともちがう。武士とはまさにそういう者をいうのだろう。


頼信の荒々しさをどう理解したらよいのか。
武士だからなのか、彼だけが特異なのだろうか。

考えてみると、頼信には頼義と頼清という子がいたが、あるじである藤原頼通に息子たちを推挙するとき、頼義は武官として、頼清は秘書として推挙したという。だから、清和源氏のすべてが武人的人格ではない。
むしろ兄弟の中でもっとも武人的な者が源氏の継承者となっているといったほうが当たっていよう。


 

源満仲・源頼信を祀る多田神社 川西市ウェブサイトより

◉源義経・那須与一の場合

平安時代中期から、とくに坂東にはこうした命知らずの武士が群がりでた。

彼らは必然的に武力が必要だった。
満仲の場合、その功により朝廷から大きな領地を得た。武士団を養えるほどの私有地をである。

彼らはその私有地を死守すべく武装した。
一方、私有地を固定化、強大化するために権力者にすり寄り、無報酬で仕えた。

私有地の〝私〟とは、俺のモノということだ。
大化改新以来、日本は律令社会だ。律令制の原則は公地公民だから、土地は国のものである。その後、天皇家や藤原氏などの有力貴族がどんどん国有地の私有地化を進めていったが、そのことは彼らには無縁であった。
〝私〟とは彼らにとって、惑溺するほど魅力的なものであった。

寸土といえども私有地は〝私〟の財産である。

〝私〟があってはじめて自分の人生なのであり、〝私〟がなければその手にあるものは無であり、自分の一生は他人の人生の一部であり名前のない木偶のような甲斐なき人生だったのではないか。

でなければ命などかけはしない。


荘園村落遺跡「田染荘小崎」 日本ユネスコ協会連盟ウェブサイトより

 

彼らは、しばしば誇らしげに私有地の地名を名乗った。

満仲は領地である摂津国多田を名字として名乗った。「いろはかるた」にもあるように多田満仲とよばれた。
源義仲は信濃国木曽の地名を名乗り、木曽義仲とよばれた。
平姓の畠山重忠は武蔵国畠山、梶原景時は相模国梶原の所有する土地の名を名乗った。

藤原道長の末流だという須藤という武士は下野国那須に所領をもらい那須氏を名乗った。
扇の的を射たことで有名な那須与一(?〜1189?)はそれである。

命を懸ける一つの理由がわかる。

那須与一は、源頼朝の平家追討に参加して源義経(1159〜1189)の軍に配属された。
屋島の戦いでの活躍は歌舞伎や落語の演目になるほど有名な話だ。
平家方の軍船に掲げられた扇をその強弓で見事に射落とすのだが、そのときに次のように名乗りをあげた。

南無八幡台菩薩、日光の権現、那須の湯泉大明神。
願わくはあの扇の真中射させ給え。
これを射損ずるならば、弓を折り、自害しなければ申し訳が立ち申さぬ。
今一度那須へ帰らせたいと思し召さば、この矢、外させたもうな。


注目なのは、失敗したときは自害すると敵味方の前で宣言したことだ。
まさか、失敗したら「なんちゃって」などと笑ってすますはずもない。
おそらくその場で腹を切るだろう。

 

扇の的をねらう那須与一(渡辺美術館蔵) Wikipediaより

「扇の的」の場面は、実際の戦闘行為はまだおこなわれていない。
平家軍はたくさんの舟に乗って海に浮かんでいる。
義経軍は海岸に布陣している。

一艘の舟が近寄ってきて、船上の若い美女が扇を開いて立てかけ手招きをしている。

義経は傍らの部下に、

あれはどういうことだと思う?

と尋ねる。
部下の武士は、

この扇を射ってみよ、ということだと思います。ただ、義経殿自らが射ろうと近づけば、敵は矢を放ってくるでしょう。ここは他の者にやらせるのがよろしいかと。

と答える。

そこで義経はいう。

やれる者はいるのか?

部下は答える。

矢が上手な者はいくらでもおりますが、その中でも下野国の住人、那須与一がもっとも腕利きです。

義経は那須与一を呼び寄せる。
与一は当時20歳ぐらいの小柄な若者で、まだ何の武功をあげていなかった。

やれ、と命じられて与一はいう。

失敗したら鎌倉武士として後世までの恥となりましょう。

確実に成功する方に命じてください。

それを聞いた義経は怒り、与一はやるしかなくなった。

北風が激しく吹いて波も高い。
ふなばたはゆらゆら揺れて、扇も上下左右にさだまらない。

与一は、前述のように神仏の名をあげ、的をはずしたら死にますと宣言した。

与一は、鏑矢を取って弓につがいて、キリキリとひきしぼり、ヒョウと放つ!
鏑矢はあたりに響きわたるほど長く鳴り、誤りなく扇の要の際から一寸ほど上をヒュッと射切ったのだ。

与一は見事に扇を射落とし、その功績で戦後は頼朝から五か国に荘園を賜った。

土地と生命と。
武士はその二択に命を懸けたのである。


『義経八島之名誉』屋島の戦い・弓流しの図 古美術もりみやウェブサイトより

 

屋島の戦いでは義経自身にも、命を懸けた理由がわかる逸話が残っている。

扇の的の一件のあと、義経軍は優勢となり馬の腹が浸かるほど海に乗り入れて、平家軍を攻め立てた。
義経軍の兵たちが平家の舟から繰り出される熊手を太刀や薙刀で払い除けながら戦っていると、義経はどうしたことか弓を海に落としてしまった。

義経はうつぶせになり、鞭で弓をかき寄せながら、命を危険にさらしてまで拾おうとしている。
味方の兵たちは「お捨てなされ、お捨てなされ」と言い喚くが、ついに拾い上げると、義経は笑いながら帰ってきた。


兵はみな呆れて、
「たとえ高価な武具であろうと、命には代えられませぬぞ」というと義経は、こう言った。


弓が惜しくて拾ったのではない。
私の弱い弓を敵が拾って、

『これが源氏の総大将・九郎義経の弓か』

などとあざ笑われるのが悔しいからこそ、命を賭けてでも拾ったのだ。

源義経の軍事の才能は世界と比べても際立っているのだが、体格に恵まれなかったために武芸はさほど優れておらず、弓も張りの弱いものを用いていた。
弱弓が敵に知られれば、義経の恥辱になる。
それならば死んだほうがマシであった。

命を惜しむな、名こそ惜しめ

恥辱と生命と。
武士はその二択に命を懸けたのである。

 

義経も、与一も、おそらくこの頃の武士は、味方に対しても、敵に対しても、先祖に対しても、後世の歴史に対しても、恐るべく潔く、誇り高かったと思える。