軽きこと綿毛の如く【後】〜武士が命を懸ける理由(鎌倉景正・今井兼平)〜 | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

前稿につづいて、戦場で命を懸ける武士たちの姿を追う。

 

◉鎌倉景正の場合

歌舞伎役者の市川團十郎の十八番に『暫(しばらく)』がある。
『暫』は、日本のヒーローものの元祖だ。
超人的な力を持つスーパースターが主人公。

ストーリーは単純明快な勧善懲悪ものだ。
善良な男女が悪人に捕らえられて、まさに殺されようとしたときに、

 

し~ば~ら~く~

 

という掛け声とともに現れた正義のヒーローが現れて、大立ち回りで悪役をやっつける。

ヒーローの名は鎌倉権五郎景正。

鎌倉権五郎景正(1069〜?)は、平安時代中期の武士で実在の人物だ。
彼が、歴史上にあらわれるのはほんの僅かでしかない。
その景正が、後世、超人的ヒーローとして庶民の前に登場するのは、彼に何かよほどのことがあるからだろう。

 

市川團十郎の演じる『暫』 スポーツ報知ウェブサイトより

実際の景正は、戦場での異常な行動が後世の語り草となっている。

源義家に従い後三年の役(1083~1087)に従軍した景正は、右目を射抜かれながらも奮闘したという逸話が『奥州後三年記』に残されている。

清原家衡・武衡が、秋田県横手のあたりにある金沢柵に籠城。

源義家の軍勢がこれを攻撃。
景正は源義家の先鋒軍に属して奮戦していた。

景正はこの頃はまだ16歳の若者に過ぎなかった。


義家は配下の武士に号令し、城門に向かって正面攻撃を仕掛けた。

城頭には清原家衡方の弓の名手たちが楯を並べ、矢をそろえて敵が来るのを待っている。
こんな状況下で寄手の先頭に立つというのはよほどの勇者でなければならない。



先陣を争ったのは三浦為継と鎌倉景正で二人はいとこ同士だった。


矢は当然ながらこの二人に降り注いだ。
この時、相手の放った矢が景政の右目を射抜いて頭部を貫通し、鉢付の板にまで達した。
 
普通ならば、これで終わりだ。
死なないまでも戦線離脱であるが、このあと尋常でないことが起きる。

 

右目を射られた鎌倉景正(後三年合戦絵巻) 

アキハクコレクションウェブサイトより
 
景正は矢を抜こうともせず、相手を射返して倒し、さらに戦って本陣に引き返した。
その様子を見て為継が気遣い、あとを追った。
景正は馬からずり落ちて倒れた。
 
為継は矢を引き抜いてやるべく、景正の顔の片方に土足をのせ、矢をつかみ、踏ん張ろうとすると下の景政がにわかに刀を抜き、下から為継を突こうとした。

為継はあわてて飛びのいた。

怒ったのは景正の方だった。
 
面を踏むな!!
 
景正がいふやう、「弓矢にあたりて死するはつはものの望むところなり。いかでか生きながら足にてつらをふまるる事あらん。しかし汝をかたきとしてわれ爰(ここ)にて死なん」といふ。
 
矢に当たって死ぬるは、武者の本懐だが、生きながら面を土足にかけられることなどあってよいことか。
いまからはお前こそが敵だ、死ねっ!

 
為継は謝り、景正のそばに膝をつき片膝をもって景政の片頰をおさえ、やっと矢を引き抜いた。
その間、景正は声をあげなかった。
 
何という価値観だろう。
生への執着のなさ、命の軽さ、そして、強烈な自尊と廉恥。
そんなに恥ずかしい俺なら生きていたくない。辱めたお前を殺して俺も死ぬ、と言うのだ。

敵の矢が景正の右目を射抜いて頭部を貫通したところで、景正自身は生きることを忘れたのではないか。

死兵

ということであろう。
関ヶ原の戦いで西軍の敗北が決したとき、西軍にあって最後まで戦場に残っていた島津義弘隊は、敵中を突破するという前進退却を敢行し、多大な犠牲を払いながらも戦場を脱出することに成功した。
生還したのは千三百のうち三百というから、まさにこのときの島津兵が死兵というにふさわしい。

景正はこの異常な状態で、

われはすでに生きてはいない。
すでに幽界の鬼である。
あとは恥とならないよう勇敢に誇り高く戦い、一人でも敵を斃して潔く死のう。


と思ったのではないか。

彼は武士として敵を斃しここで死ぬ気でいた。

敵味方がその姿を見ている。

美しく死ぬことに命を懸けたのだ。
為継の〝面に足〟は、勇者の最期を汚す許されざる行為だったのであろう。


景正は、結果としてこの戦いで死ぬことなく生きた。
しかし、彼はその血流を梶原氏や大庭氏、長尾氏という後世の名族に繋いだことはわかっているが、その後の詳しい生き様についてはわかっていない。

鎌倉景正を祀る御霊神社(鎌倉市) Wikipediaより

◉今井兼平の場合

土地や恥辱や名誉という生命より重いものに、武士は命を懸けた。
武士という者が、戦いの末に敗れて、もう死しか道がなくなったときはどういう行動に出るのだろう。
どういう命の懸け方をするのだろう。

源頼朝・義経と同時期に覇権を争った者に木曽義仲がいる。
義仲の乳母の子である今井兼平(1152〜1184)は最側近として最後まで義仲に随従した。
兼平は義仲の2歳年上で、乳兄弟になる。おそらく誰よりも強い主従の絆があったに違いない。

義仲は京にあって全てがうまくゆかず、大挙西上する鎌倉勢の義経軍と激突。
多くの味方が離れてゆき、多勢に無勢で敗走する。

義仲は今井兼平ら数名の家臣とともに落ち延びるが、最後は義仲・兼平のたった2騎となった。
兼平は義仲にいう。

この私が一人いれば、武者千人分とお思いになってください。矢がまだ7、8本ありますので、しばらく敵の進撃を防げます。

だから、その間に向こうに見える松原に入ってしずかに自害なされ、というのだ。

鎌倉勢は功名手柄に急ぎ、たちまち五十騎ほどが餓狼のように追ってきた。

義仲はいう。

わしは本来、都で戦死すべきだったのを、こうしてここまで逃げて来た。
それはお前と同じ所で死のうと思ったからなんだ。
別々の所で死ぬよりも、同じ場所で討死しよう。


この後の兼平の言葉は、武士であることの廉恥心(清らかで恥を知る心)と誇りを義仲よりも強く持っていることがわかる。

武士というものは、どんな手柄があっても、最期に情けないことをすると、長い間のキズとなって残るものです。
もう後続の味方はおりません。
無名の者に討たれれば、『あれほど日本で有名な木曽殿を、誰それの家来にすぎない者が討ち取った』などと言われるのは、とても残念です。
どうかあの松原に入って自害してください。


大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の木曽義仲(青木崇高・右)と今井兼平(町田悠宇)(C)NHK スポニチANNEXより

 

義仲が松原に消えてゆくのを見届けると、たかだかと名乗りをあげて、五十騎に向かっていく。
矢継ぎ早に数騎を討ち取ると、抜刀して暴れまわる。
そうこうするうちに遠くで、木曽殿を打ち取ったりの声が響いた。

兼平には、死しかない。
それは、死をもって我がどんな武士であるかを見せつける場であり時だったのだ。


これからは誰かをかばうために戦う必要もない。
ご覧じよ、東国の者ども。
これが日本一の剛の者の最期の姿よ。


そう叫ぶと兼平は、太刀の先を口にくわえて、馬から飛んでさかさまに落ち、自らを太刀で貫くようして亡くなったのである。 

命を惜しむな、名こそ惜しめ

兼平は、あるじ義仲を廉恥と誇りある死へといざない、自らは一人でも多くの敵を斃し、そして敵の手にかかることなく、その勇敢さと潔さでみずからの死を飾ったのである。

この時期の武士にとって、命はまことにたんぽぽの綿毛のように軽い。
しかし、それより重いものがある、そのために命を懸けていることを、満仲が、頼信が、与一が、義経が、景正が、そして兼平が見せてくれている。これもこの国の歴史のひとつの情景である。

 

以下、余談になる。

 

剣をもって戦う者の心理は、

 

相討ち

 

だというのである。

戦場で命のやりとりをしていた武士にとって、この心理がもっとも当てはまるような気がする。

 

作家・海音寺潮五郎はこう書いている。


古流の剣法では、剣法の奥義は相討ちにあるという。

無住心剣流の開祖針ヶ谷夕雲は、こう言っている。
「上古より近代までの軍記共に見るに、相討ちを心安く思ひこめ、いつも相討ちよと心得たる武士は、一代運さへ尽きぬほどなれば、無類の勇を働きたること限りもなし。自分を全うして勝ちを取らんと思ひ打ちたる者、思ふままに勝ちを得たるは一人も見えず
宮本武蔵と佐々木小次郎との仕合は、この理をよく語っている。
二人は相寄るや同時に攻撃に出ている。
もし、二人の武器が同じ長さを持っていたら、相討ちになっていたはずであった。

武蔵が小次郎愛用の長剣物干竿より四寸か五寸長い木剣をたずさえていたため、小次郎の剣の切っ先が武蔵の鉢巻を二つに切って飛ばすと同時に、武蔵の木剣は小次郎の頭蓋骨をくだいたのである。
海音寺潮五郎『秘剣示現流』(PHP文庫)より

武士という者は、どの時代にあっても、現代人とはまったく別の心的世界に住んでいることに間違いない。

 

大河ドラマ『風と雲と虹と』の合戦シーン NHKアーカイブスより


【参考】

尾崎士郎『現代語訳 平家物語』(岩波書店)

海音寺潮五郎『日本歴史を散歩する』(PHP文庫)