人間というものは、物質的な生活がより豊かなほうへ豊かなほうへと流れることを本質的に求めている。
歴史も人間の営みの軌跡であるのだから、いつの世であってもそのことに変わりはない。
ただ、そのテンポが川の早瀬のように急速な時代もあれば、ゆるやかな時代もある。
急速な時代の典型は、現代であろう。
1925年のラジオ放送開始を起点に見てみると、1953年にテレビ、1987年に携帯電話、2007年にiPhone、そして2023年に生成AIが登場。
この間、約100年である。
鎌倉時代。
この時代もそうとう急速に進化した時代であった。
源頼朝の将軍就任から幕府滅亡まで141年。承久の乱が終わり御成敗式目ができて、御家人による武家社会が確立してからだとこちらも約100年だ。
これから触れようと思うのは、急速に進行する社会において、体制や組織にガタがくる話である。
そのとき、歴史は何によって動くのだろう。
◾️貨幣経済と無足御家人の出現
鎌倉時代における社会の急速な進行は5つの要因があげられるだろう。
1つは、農業生産が急速に上がったことだ。
2つは、手工業が発達して同業組合ができるまでになったことだ。
3つは、物資が豊富になり、各地に市が立ち、常設の店ができ、多数の商人が登場してきたことだ。
4つは、外国との貿易が盛んになったことだ。幕府は貿易船を有しており、太政大臣は自ら貿易を営んでいたという。
日本から宋へは、砂金、水銀、真珠、木材、蒔絵、螺鈿、日本刀、硫黄が輸出され、宋からは、沈香、麝香や蘇芳などの香料、菜種、磁器、綾錦、絵画、書籍、文房具、鳥獣、宋銭などが入ってきた。
5つは、貨幣経済の世が来たことだ。
平安時代中期より貨幣の鋳造は絶えてなかった。裏返してみると、日本の経済が未発達だったため、おおむね物々交換でなんとかなっていたのである。
それが、宋との貿易が始まって以来、宋銭が輸入され、国内で流通していき貨幣中心の世の中となった。
金売り吉次
という伝説の人物がいる。
平安時代の末期の人で、奥州で産出される金を京まで運び、これを売って商売とした。
源義経が奥州藤原氏を頼って平泉に下るのを手助けしたとされていて有名だが、実態は商人である。
しかし、こうした商人はこの時代はごく少数だった。
それが、平和がつづき物が豊かになると、各地に市が立ち、多くの金売り吉次のような商人があらわれた。
商人は自分たちの利益を守るために一定の同業者が手を組む。
いわば同業組合で、それは
座
と呼ばれた。
西陣の織手座
祇園の綿座・錦座
京都北野の麹座
大山崎の油座
摂津今宮の魚座
鎌倉の材木座
博多の油座
など、例をあげればキリがない。
輸入品なども珍重され、人々の購買意欲は飛躍的にあがった。
ときに宋銭がふんだんに流入している。
多くの商取引がおこなわれ、多くの宋銭が流通してたちまち貨幣経済の社会となった。
もはや藤原・源平の時代とは別国の感があったろう。
この時代、日本史としてみると劇的な出来事が起きている。元寇だ。
しかし、元寇による元との国交断絶はあっても、貿易は中断されていない。
南宋の人、無学祖元は二度の元寇のさなかに来日し、建長寺の住職となり、また円覚寺を創建している。彼が乗ってきたのは貿易船であった。
山崎の油売り 山崎観光案内所ウェブサイトより
さて、鎌倉幕府は三代執権・北条泰時によって確立したといっていい。
泰時は、民衆をいたわり大切にする撫民政治を実行した。
自らは、明恵上人の教えである
無欲
高潔
を忠実に守ろうとした。
こんな逸話がある。
泰時の住む屋敷は、ところどころの壁が壊れて、家の中がすけて見えるほどだったため、ある人が、
堀を掘って土塀を築かないと、用心が悪いですよ。
とある人が忠告したところ、泰時は、
その程度のことなら大した手間はかかりませんが、やはり民百姓をわずらわすことになります。
わたしが身をつつしみ、政治に失敗がないなら、どんな家にいても安全です。
しかし、政治に失敗し、身をつつしまなかったら、鉄の家にいても危ういものです。
と言った。
また、土塀の崩れだけでなく、食べ物、諸道具なども質素をきわめ古びたものを使い、畳も古いものを取り換えず、衣装は古着を、烏帽子は破れたものを着用していたという。
彼がとことん実践するのは質素倹約であった。
質素倹約の精神はその後の為政者にも引き継がれた。
5代執権・北条時頼の逸話である。
分家の北条宣時が若き日を思い出して、
ある日の深夜、時頼様に呼ばれて、急いで行ってみると『お前と飲みたくなっただけだ』と言われ、台所で酒の肴を探してきてくれと頼まれた。
ようやく皿に味噌がこびりついているのを見つけて報告すると『おお、それはいい』と喜び、それを肴に遅くまで飲んだものよ。
と言ったと、『徒然草』にある。
しかし、貨幣経済の到来が、泰時や時頼の時代の価値観を昔のものにしてしまった。
一人が頑張ってみても、時勢が豊かさを求めて贅沢になってゆく。
S N Sの時代に質素倹約だからといってスマホもテレビもラジオもない生活など無理というものだろう。
御家人に目をやれば、彼らの収入の枠はおおむね決まっている。
江戸時代の武士もそうだが、彼らは米などの農産物が収入であった。収入を増やしたければ荒地を開墾したり、手柄を立てて所領をもらうかだが、タカがしれている。
対して支出はほぼ貨幣決済だ。
たとえば京都大番役などで上京した御家人は、京都や西国で贅沢を覚え、生活が派手にはなる。
読みたい最新の書籍や妻へ上質の化粧品でも買えば、たちまち支出が収入を上回ってしまう。
御家人の唯一の財産は自分の所領である。
所領を質に入れ、金貸しから銭を借り、返すことができず抵当ながれとなって、所領を持たない御家人が出てくるようになった。
彼ら弱小御家人は無足御家人とよばれ、幕府の終わりまで大きな問題でありつづけた。
鎌倉時代に流通した宋銭 兵庫県立考古博物館スタッフブログより
◾️幕府の御家人保護策を覆す国難
いまはあまり語られないが、有名な謡曲に「鉢木」というのがある。
ある旅の僧侶が、雪の夜に上野国佐野(いまの高崎市)という土地で貧しい御家人の家に泊めてもらった。
御家人を佐野常世という。
心やさしい常世は見ず知らずの僧侶に暖をとってもらうために手塩にかけて育てた松、梅、桜の盆栽を火にくべてもてなした。
常世は僧にいう。
一族の陰謀でわたしの本領は奪われてしまいこの有様です。しかし、「いざ鎌倉」の声がかかったならば、まっさきに駆けつけます。
しばらくしてからのこと。
幕府から招集がかかった。
常世は錆びた太刀をかつぎ、ボロボロの具足を着て、やせ馬に乗って鎌倉に馳せ参じた。
きらびやかな鎧武者たちの中で、ひときわみすぼらしい常世に、声がかかった。
不思議そうに前に出てゆくと、そこには以前、雪の夜に泊めた旅の僧が立っている。
あのときの僧は、出家した北条時頼だった。
時頼は、常世の忠義心を褒めたたえ、本領を取り戻させたほか、新領を与えたという。
謡曲『鉢木』に登場する佐野常世 Wikipediaより
美談ではあるが、常世の窮状はひょっとすると、領地を質に入れ、金貸しから銭を借り、返すことができず抵当ながれとなって、領地を失った貨幣経済の犠牲者としての無足御家人の姿だったかもしれない。
所領を失った無足御家人ほどみじめなものはない。
御家人たちの一所懸命でここまできた鎌倉の世の根幹をゆるがすほどの現実が次々と起きはじめている。
幕府はなんとかこれを食い止めるべく、いろいろと方策を講じた。
まず、所領の売買や質に入れることを禁止した。
しかし、御家人が金策するには土地を売るか質に入れるかしか手段がないのだ。
この政策はうまくいかなかった。
次には、所領を最初の売価で買い戻すことのできる法律を施行したのだが、買い戻しのできる者が少なかった。
むしろ悪影響がでた。
買う側に不利な法律だから、御家人の土地を買う者がいなくなった。
ついに幕府は究極の御家人保護策をとった。
これまで御家人が売ったり質入れしたりした所領は無償でもとの持ち主に返せ、というのだ。
幕府のありがたいおぼしめし、ということでこれを、徳政令と名づけられた。
しかし、経済が大混乱を起こし翌年には廃止。
御家人の貧困化は目を覆うばかりとなる。
貧困化の理由はほかにもあった。
元寇という対外戦争だ。
一所懸命の御家人が戦った元軍は外からやってきた敵で、しかも撃退しただけ。敵から何かを奪ったわけではない。
たがら御家人たちは幕府は土地という恩賞をもらえなかった。
まだある。
食費・宿泊費・武器代などの戦費はすべて自己負担だ。
さらに元寇のあと、元軍はもう攻めはしないよなどと明言してくれないから、いつ攻めてくるかわからない。
幕府は元の襲来に備えて、御家人たちに軍役を課した。これも彼らの生活を圧迫した。
たわけ
という言葉がある。
一説によると、江戸時代に農民が田畑を分割・相続することを禁止する法律が出され、「田を分ける」ことは愚かな行為であるとし、転じて愚か者を指すようになったといわれている。
鎌倉時代、子供らへの相続は土地の分割によって行われてきた。
戦いで新しく所領を得ることができなかった御家人は、自分の所領を子供らに分け与えてしまうと所領は小さくなる。その子供が、また相続で分け与えるとさらに小さくなる。
三浦氏が滅亡した宝治合戦以降、大きな戦さがなく平和になった世では、田分けの習俗は自らを貧困化させる深刻な問題となっていたのだ。
これが避けがたい時勢であった。
紙本著色蒙古襲来絵詞 西日本新聞ウェブサイトより
◾️そして、悪党は生まれた
さて、御家人が売ったり質入れした土地は誰の手にわたったのか。
それは高利貸たちだった。
年10割以上の利子をとったという。
彼らを当時の言葉で、借上といった。
これで「かしあげ」とよむ。
借上には2種類あって、1つは同じ御家人だった。もうひとつは、
凡下
ぼんげ、とよばれる人たちだった。
御家人ではないサムライはこれに含まれず、名主・農民・商人・職人・下人や郎党とよばれるサムライと主従関係にある者を指した。
非御家人・凡下の輩の質券買得地の事。
年紀を過ぐると雖も、売主知行せしむべし。
(非御家人や高利貸業者である借上などの凡下の輩に売却したものについては、年数に関係なくもとの売主が取り戻せることとする。)
と永仁の徳政令にあることから、元来は所領などまったく持たず貧しいはずだった凡下だったが、いつしか蓄財して金貸しをできるようになったのだろう。
借上の使いが金を届けに来た場面を描く『山王霊験記』 Wikipediaより
借上となった御家人はますます大きな所領を持ち幕府の手に負えないほどの大豪族になったことは想像に難くない。
凡下の借上も所領を持ち、武力を持つようになる。
凡下の借上は、個々ではそれほどの力はなくても、たくみに連繋した。
凡下の仲間同士と、または御家人と、または所領を失って流民化した元御家人と、結合していった。
凡下、御家人、元御家人、彼らに共通しているのは、現政権に倦み飽ていることだった。
彼らはときに暴民化して、他人の荘園に乱入して、財物を奪い土地を押領した。
押領とは力ずくで奪うことである。
押領したあと、そこに城をつくり居座った。
武力によって実質的に土地支配を行うことの証しが城であった。
悪党
彼らはそうよばれた。
正規の鎌倉武士の城は平城で、城というよりは館(やかた)であった。
悪党の城はそうではない。
塀や櫓を持つ山城だった。
悪党の城で使用された武器にハシリとツブテがあった。
ハシリとは山城の上から大木を下の敵に向かい転がり落とすというもの。また、ツブテは下から攻め上がる敵に石を投げつけるものだ。
悪党 松岡正剛の千夜千冊ウェブサイトより
そう聞いて思いあたる人がいる。
その城は千早城。その人は、城に籠ってゲリラ戦を展開した楠木正成だ。
楠木正成の先祖はよくわからないが、父が悪党だったらしい。
東大寺文書のなかに、こんな内容のものがある。
播磨国大部荘の荘官であったが、いまは免職された垂水某という者がいる。
彼は数百人の悪党をひきつれて、荘園内に乱入し、倉庫内の年貢を全部はこび去ったうえに、荘官や農民の家に押し入り乱暴のかぎりをつくし、掠奪でひとつのものもなくなってしまった。
さらに、近年、同じ荘で楠木河内入道らが荘官として支配していたのだが、その地位を利用して多くの違法をはたらいた。
この河内入道は楠木正成の父と推定される。
この史実をもって、正成は悪党だという。
ほかにも、播磨の赤松則村や伯耆の名和長年も悪党とされている。
なかには、幕府執権の秘書官長である御内人でありながら悪党という者もいる。
御内人・安東平右衛門は、各地に所領を持ち、北条得宗家の資産管理をおこなうかたわら借上も営むなどただの事務官ではない。
凄腕のやり手であった。
1271年、安東は幕府の禁制を犯し、近江国で年貢運上船を襲って奪ってしまうという狼藉に出ている。
時に7代執権・時宗のころである。
幕府滅亡の60年余前というかなり早い頃から、しかも執権側近が悪党になっているというから驚きだ。
東大寺文書に見える悪党は、無情の乱暴者だ。
が、彼らは彼らなりの理屈がある。
『峰相記』は、悪党とはどんな者どもかを次のように端的にしるしている。
名こそ惜しけれの鎌倉武士とは、とにもかくにも恥を考えて行動する者たちだ。
しかし、悪党は合戦の際にはそんなことは問題外だと豪語している。
守護は彼らの威風を恐れ、鎮圧すべき者が逆にはばかっているような始末である。
なかにはカネで籠絡されている者もいるらしい。
だから、追捕・狼藉・苅田・苅畠・討入・奪取などし放題だ。
追捕とは、家の中に入り、物品を奪取する行為で、強盗というより年貢が未納であるなどの理由で米・銭などを奪い取ることをいう。
私的に支配しているのだからまことに勝手な言い分だが、自らの正統性を主張して行動している。
苅田・苅畠とは、紛争地の田畑の作物を相手が刈り取る以前に、強制的に刈り取ってしまう行為。
もし刈り取りをしなければ、相手の支配を認めてしまうことになってしまうため、その土地が自領であることを主張するために行動におよんでいるのだ。
もはや力だけの世界。
守護が及び腰になって取り締まれないでいる。
だれか英雄が出ているわけではないが、この段階で鎌倉幕府体制はすでに崩壊しているとみたほうがよさそうだ。
河内千早城図(湊川神社蔵)Wikipediaより
かつて、平安時代の藤原摂関家全盛の時もそうだったが、歴史という大地の底では、ツワモノどもがかたい地殻をぐずぐずと砕いて、次の世を拓くための準備をしていた。
摂関家はそれを知りつつ、どうすることもできなかった。
鎌倉時代が始まり、日本の経済が急速に進展、御家人たちが経験したことのないカネの世の中になった。
御家人たちはカネのために土地を手離すことによって、御家人でなくなった。
下層民も含めた凡下がカネによって力を得て、武装して鎌倉体制を無視して自立しだした。
元寇後の矛盾はそれに拍車をかけた。
鎌倉の世のかたい地盤をぐずぐずと砕いていったのは、目に見えるところでいえばこの悪党たちであろう。
◾️エピローグ〜名前のない歴史を動かすもの
歴代執権の質素倹約、無欲高潔の政治は確かに御家人たちには善政であったが、奔流のような社会経済の変化には無力だった。
1333年、北条高時ら一族郎党800余人が、鎌倉東勝寺でいっせいに自決して果て、鎌倉幕府は滅亡した。
敗者には常のことで、北条高時は田楽、闘犬好きで暗愚の人とされている。
しかし、高時が賢明な人物であっても、同じことだったのではなかろうか。
鎌倉幕府を倒したのは足利尊氏でも新田義貞でもない。
全国各地で、徒党を組み互いに連繫して、自立して城に籠り、おのれの正義を主張して、
追捕・狼藉・苅田・苅畠・討入・奪取
というボディーブローを繰り返した悪党だったのではなかったか。
記録にはないが、彼ら悪党は、あるいはこう言いたかったのかもしれない。
100年前の社会といまの社会はまるで違っている。
俺たちはいまの社会に生きている。
しかし、社会のカタチはボロボロで見る影もないが以前のままだ。
これはタテマエに過ぎぬ。
それにしがみつくのはもうやめだ。
真に力のある者の世に、俺たちがリセットするのだ!
いや、まて。
真に歴史を動かしたものは、英雄にあらず、愚者にあらず。
人などというへんぺんたる小さき者ではなく、貨幣経済のような急速な社会の変化そのものかもしれない。
鎌倉幕府滅亡の地・東勝寺跡は兵どもが夢のあと 鎌倉市ウェブサイトより
【参考】
海音寺潮五郎『日本歴史を散歩する』(PHP文庫)
海音寺潮五郎『悪人列伝(二)』(文春文庫)
海音寺潮五郎『武将列伝(二)』(文春文庫)
本郷和人『北条氏の時代』(文春新書)