祝・大河ドラマ主人公決定!豊臣秀長の〝影的人生〟 | 天地温古堂商店

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豊臣秀長

再来年の大河ドラマはこの人だという。

タイトルは『豊臣兄弟!』。

言わずと知れた豊臣秀吉のただひとりの弟だ。

兄弟は他人のはじまりというように古来、兄弟は父の持つ権力をめぐる骨肉の争いの最たる対象であった。

源頼朝とその弟・義経
足利尊氏とその弟・直義
織田信長とその弟・信行
伊達政宗とその弟・小次郎
徳川家光とその弟・忠長

いずれも最後は不和となり、弟がその命を奪われている。

秀吉の家は例外であった。
そもそも秀吉に家などというものがない。
彼はいわばこの世の最下層から出てきた者なのだ。
その出自すらはっきりしない。

兄、のちの豊臣秀吉となる藤吉郎
弟、のちの豊臣秀長となる小一郎

藤吉郎は尾張国の中村で、足軽・弥右衛門とその妻なかの子として生まれたとされている。足軽ではなくもっと下層民であったという史料もある。
生年月日も幼名もあるが、確かな史料に基づくものでもなく有力だという程度だ。

豊臣秀長像 戦国ヒストリーウェブサイトより

7歳で実父・弥右衛門と死別。
母は織田家の同朋衆の竹阿弥と再婚した。同朋衆はその後の茶坊主のような存在だ。
父とはおよそ別種な男だったのだろう。
藤吉郎は8歳で寺に出されるがすぐに飛び出し、針売りなどしながら放浪したとなっている。耐えがたい辛酸も舐めたのだろう。18歳で織田信長に小者として仕官した。

藤吉郎秀吉の弟・小一郎秀長(1540〜1591)は竹阿弥となかとの間の子とされているが、この兄とは3つ違いだから、弥右衛門はまだ生きており、秀吉と小一郎は異父兄弟ではなくて父母とも同じの血を分けた兄弟という説もある。
しかし、この兄弟は風体から性格までまるで正反対のようだ。

 

豊臣秀吉像 日立ソリューションズウェブサイトより

藤吉郎が織田信長のもとでめきめき頭角をあらわしていくことで、中村郷で田畑を耕していた小一郎の運命も大きく変わっていく。

1565(永禄8)年、藤吉郎は嫁をもらった。
織田家弓衆の浅野長勝の養女ねねである。
その頃、藤吉郎は足軽組頭となっており、士分であった。
足軽組頭は足軽隊の中隊長格で足軽衆30人程を統率していた。

士分となれは2〜3人の家来は必要になる。
しかし、藤吉郎の家は領主でも地侍でも庄屋ですらない。

おれに男の身内は小一郎しかいないではないか。

 

大河ドラマ『おんな太閤記』の藤吉郎[右](演:西田敏行)と小一郎(演:中村雅俊) NHKオンデマンドより

小一郎はいつ侍になったのか。
司馬遼太郎の『大和大納言』によると、美濃攻めの墨股城の折であったという。

藤吉郎は、母、姉、姉婿、妹や妻のねね、そして弟の小一郎たちを城内に呼び寄せ歓待した。
そのとき、

小一郎はこの砦に残れ。

と言い、小一郎は侍になった。
さらに、ねねの妹婿である浅野長政も部屋に呼び寄せ、

ふたりして、わしをたすけよ

といった。


三国志でいえば、劉備を主人とし関羽と張飛がこれをたすけて大業を成す。
豊臣家誕生の姿がこれであった。


後世、人は、豊臣秀長のことを温厚、篤実、寛仁といった。
兄をたすけるに際しては、よく居城や占領地の留守居を命じられることが多かった。
守備隊長である。
小一郎はこれを辛抱強くよく守った。

藤吉郎が秀吉と名乗り天下を取って、その仕置きを任されることも少なくなかった。
こんな話がある。
九州征伐の前というから1585(天正13)年ごろだろうか。


島津氏の圧力を訴えに来た大友宗麟に対して秀長は次のように言っている。



 

内々の儀は宗易、公儀の事は宰相存じ候。御為に悪しき事は、これ有るべからず候。



 

宗易とは千利休、宰相とは秀長のこと。


表に出したくないことは利休に、政治についてはこの秀長に相談しなさい、悪いようにはいたしませぬ、というのだ。

こうした陳情や、場合によっては秀吉に罰せられそうになった者を間に入って救済することもあった。
秀長には徳望があり、調整能力があり、また、つつしみ深かった。
つつしみ深いということは、規矩(のり)を越えず常に兄の影になるということであった。

〝影になる〟ことについては、『大和大納言』に核心的な場面がある。
小説だからフィクションなのだろうが、おそらくそうだろうとうなづかせるような秀長の生涯を決定づける場面だ。

竹中半兵衛という男がいる。
秀吉に仕え、無欲で薄命な名軍師である。その軍才は、神韻を帯びているとさえいわれた。

その半兵衛は秀吉から出仕したばかりの小一郎秀長の教育係を頼まれている。
やがて、半兵衛は死の床についたとき、秀長を枕元に呼び寄せ、秀長の耳元で小さく言った。

大河ドラマ『秀吉』の竹中半兵衛(演:古谷一行) NHKアーカイブスより

「申しおきたいことがござる。」

と墨股以来の従順な弟子のためにすでにかぼそくなっている息をふりしぼった。

「身の安全を期せられよ。兵法の極意は、それでござる。」

半兵衛の心配は、小一郎の評判が大いに騰がっていることであった。騰れば、自然、心もおごる。傲岸になり、他の部将のうらみを買い、どのような告げ口を筑州殿(秀吉)にせぬとかぎらぬ。
功を樹てればすべてそれを配下の将にゆずりなされ。諸将は功名をたてることによってのみ世に立っているが、あなたはたとえ功なくとも筑州殿の弟君であることにかわりがない。

「いままでも、そうなされてきた。」


と、半兵衛は、あらためて小一郎のこと十数年の業歴をほめた。いっさい表には名をあらわさず、功は配下に帰し、秀吉の名代になっても、秀吉のみを立て、自分の存在を誇示するようなことがなかった。
(略)

「影のようになりなされ。」


と、最後にいった。
秀吉の影になり、それのみに満足し、小一郎秀長という存在はすてよ、というのである。前途を思うに、それ以外にあなた様が世にある場所がない、兵法の極意はついにはわが身を韜晦することにある、よろしいか、と半兵衛は念を押した。
小一郎は異を立てず、素直にうなずき、

「よう申してくれた。」

と、涙をためて礼をいった。


それが秀長のその後の人生の主題となった。
内実はどうであれ、彼は秀吉の影となって生きた男であった。

秀長はきわめてすぐれた調整官であったが、口舌の人ではなかった。
多くの戦場にも出た。戦場においては兄の代理者であることが少なくなかった。

伊勢長島一向一揆
但馬平定戦
三木城攻め
鳥取城攻め
備中高松城攻め
賤ヶ岳の戦い
小牧長久手の戦い
紀州征伐
四国征伐

秀長は、その都度、大勝利といえないまでも着実に勝ち、占領地を広げた。

難治といわれた雑賀衆や根来衆など鉄砲に長じた土豪の国・紀州、次いで宗教王国・大和の支配を命ぜられ、これらを無事に治めている。
彼でなかったら無理であったろう。

ついに大和大納言と呼ばれ百万石の大大名となった。

秀長にとって大和大納言はひとつの結果であって、あくまで彼は、彼の原点である〝小一郎〟だったのではないか。
豊臣家は当初、秀吉夫妻、兄弟姉妹、その婿たち、そして甥にあたる豊臣秀次、その弟で養子となった秀保。
小一郎の思う忠義の対象はこれらを中心とした〝原豊臣家〟だったのではないか。


そう考えると、最下層から人臣の最高位である関白にまで登極した兄・秀吉の奇跡の栄達によって、原豊臣家の人々が悲劇的な異常な運命に巻き込まれていく。
栄達、悲劇、無情。
原豊臣家のファミリーヒストリーにはそんな側面があった。

秀長に関わりの深い人物をあげれば、原豊臣家の人々以外に、

蜂須賀小六
竹中半兵衛
浅野長政
堀尾吉晴
藤堂高虎
小堀遠州
千利休 など。

秀長は病気によって、1591(天正19)年にその生を終えた。享年52。

いま、定説になっている秀長は、ほぼこんな具合だろう。

 

2026年大河ドラマ『豊臣兄弟!』豊臣秀長役の仲野太賀 NHKウェブサイトより

再来年の大河ドラマはその秀長が主人公だという。

脚本は、八津弘幸。

1999年脚本家デビュー。大胆な構成力とエンターテインメント性をベースにした重厚な人間ドラマだけでなく、笑って、泣ける人情ドラマを手がけてきた。
主な作品に、連続テレビ小説「おちょやん」「1942年のプレイボール」「家康、江戸を建てる」「アイドル」「半沢直樹」「下町ロケット」「陸王」「家政夫のミタゾノ」など。
だそうだ。

チーフプロデューサーは、松川博敬。
代表作に連続テレビ小説『らんまん』がある。

松川氏は、『豊臣兄弟!』のテーマを

兄弟の絆
利他的な生きざま


だという。
いずれも〝影のように生きる〟こととどこかで通底しているようにも思える。

私感だが、最近は大河ドラマで裏切られる作品が少なくない。そのあたりの機微は拙稿でもすでに書いている。

大河ドラマ制作のレジェンドたちはこういう。

視聴者は日本の歴史というものを映像を通じて学べるようになった。
だからNHKの大河はあんまりうそをしてはいけないと思っているんですよ。

プロデューサーとディレクターは死ぬほど勉強しなさいということですね。
作家と対等に話をしなきゃ、いいドラマは出来ない。
だから準備期間の中でね、本当に歴史を含めて、何をやるかを含めて勉強してほしい。


やっぱり一言でいうと、いい本(脚本)ができた時ですね。
本がよくなかったら全部駄目。
役者では視聴率を稼げない。まずどんな本を作るか。
作り手の情念がその本にいかにね、伝わってるか。


だそうだ。

松川氏は、大河ドラマの原体験について、次のように言っている。

私は今47歳ですが、私自身が幼少の頃、ちゃんと見るようになった大河ドラマが『独眼竜政宗』『武田信玄』のあたりでした。

それが歴史に興味を持つようになったきっかけになったという原体験がありました。
自分が大河ドラマに関わるようになって、その頃の自分を思い出したというか。


『独眼竜政宗』
『武田信玄』

まさに、大河ドラマ史上最高視聴率を誇る作品である。
2作品はいまでも映像で見ることができる。携わった方々に取材も可能だろう。
時代も同じ戦国だ。
これらの作品の遺伝子を受け継いでくれるなら期待は大きい。

ひとつ、気になることがある。

『独眼竜政宗』も『武田信玄』もそうだが、かつての大河ドラマの多くには〈原作〉があった。
『天と地と』しかり、
『新平家物語』しかり、
『国盗り物語』しかり、
『花神』しかり、

『徳川家康』しかり、
『太平記』しかり。

たしかに原作というものは、考えようによっては脚本家にとって自由を奪う檻のようでもあり手足を縛る縄のようでもあろう。
ただ、歴史ドラマにとっては硬質な歴史小説は古典にもまさる下敷きになると思う。

オリジナル脚本を選ぶのにはそれなりの理由があるだろうが、脱線のリスクヘッジやコア層離れ対策にもぜひ一考いただきたいものだ。

また、松川氏はこうも言っている。

豊臣秀吉ってやっぱりすごい人物で、奇跡の人物だと思うんですが、ひとりでやる仕事量じゃない仕事をやった人で、きっとその裏側で弟秀長がものすごく努力したんだろうという想像をしています。
ひょっとしたら豊臣秀吉という人物の手柄ってふたりでやって得たものじゃないかって想像するんです。


つまりは、「豊臣秀吉」という物質的な肉体ではなく、彼の歴史そのものをもしカタチに表せるのならば、それは豊臣秀吉という人と豊臣秀長という人の総和が、「豊臣秀吉」をカタチづくっているとも言えそうである。

一心同体とまではいえないまでも、ふたりは「豊臣秀吉」という小さきものを大きくし、大きくなればそれを強くし、強くなれば全きものにし、全きものになれば、永遠にしようと並走した無二の相棒のようだ。
こんな相棒、日本史上ほかにあっただろうか。

以下は余談になる。

相棒つながりでテレビドラマ『相棒』の話題を少し。

3月20日に配信されたドラマに『相棒 sideA/sideB』というのがある。
テレビの人気刑事ドラマ『相棒』の初の配信オリジナルのドラマだ。

 

『相棒 sideA/sideB』 TELASAウェブサイトより


警視庁特命係の杉下右京と相棒の亀山薫が、それぞれの視点からひとつの事件を描いた2つのストーリー《sideA(右京編)》、《sideB(薫編)》の2作品を同時に公開するというもので、そこには重層的な仕掛けが用意されている。

重層的とは、たとえばこうだ。
右京サイド(「sideA」)と薫サイド(「sideB」)の2つの動画があって、まずは別々に配信する。

右京サイドの動画では、たとえば右京が薫に電話をしてるときに、薫の声は入っていない。

だから「薫は何を話していたんだろう?」と気になるが、薫サイドの動画を見ると、「あ、薫はこういうことを喋っていたのか」とわかる仕掛けになっている、という。

秀吉と秀長でいえば、私たちが秀吉を主人公とする大河ドラマで見なれていたものが「sideA」だとすると、今度の秀長のドラマは「sideB」になるのだ。

私たちの知っている秀吉サイドの戦いの場面や政局の場面、めでたい場面やいざこざの場面などの「sideB」が見られるのではないかという可能性に、新しいものへの期待がわいてくる。

いずれにせよ、大河にまた戦国が戻ってくることだけは間違いない。
今度こそエンターテイメントだけでない骨太な大河を見てみたい。