波濤を越えた不滅のヒーロー③〜義経、そして旅の終わり〜 | 天地温古堂商店

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義経の不死伝説は、日本と世界とのときどきの関係をうつしだす合わせ鏡のようだ。

18世紀後半。

鎖国という閉ざされた日本に、世界が近づいている。

ロシア船が阿波国に漂着する事件(1771年)、蝦夷地の厚岸に来航する事件(1778年)が発生したのがこのころだ。
1792年には、漂流民大黒屋光太夫を伴い露使ラクスマンが根室に来航。
さらに1806年には日露初の武力衝突、文化露寇が起きる。
終局的にはその約100年後に日露戦争という大衝突が起きるのだが、地球規模で日本を俯瞰すると、18世紀後半のこの頃から日本の有識者や為政者らは漠然とした恐怖と危機意識を感じるようになった。

19世紀末のロシア帝国の領土 世界史のデザインウェブサイトより

◉ロシア南下で変質する東アジアへの視点

時代はくだるがその象徴的なものが、勝海舟(1823〜1899)の構想ではないかと思える。
海舟は幕末、軍艦奉行であった時から一貫して東アジアの三国が連携して西洋列強の東洋進出に対抗するという東アジア同盟論者だった。

海舟の東アジア同盟論はその後一生を通じて変わらなかった。

東アジア同盟論とは、清と朝鮮と日本が対等な関係を結んで交易によって国力をつけ、欧米列強に対抗していこうとする主張だ。安全保障の連携もあったのかもしれない。

東アジア同盟論のうちは、日本人優位の差別意識はかげをひそめていたが、日露戦争の勝利と第一次世界大戦で勝ち馬に乗ったことで日本の東アジアへの視点は変わってゆく。

 

勝海舟 Wikipediaより

日露戦争前の伊藤博文内閣で内務大臣だった末松謙澄(1855〜1920)はケンブリッジ大学の学生時代に、イギリスが日本を中国の属国のように思っているその誤解を解くために大胆な説を卒論に書いたという。
それが義経=ジンギスカン説だった。

最初のジンギスカン説は、シーボルトだったといわれる。末松はそのことを知っていたのだろう。

義経の不死伝説の第四次ブームは大正時代である。
大正時代といえば、日露戦争も終わり第一次世界大戦を経て、日本は大陸や南洋に進出の足がかりを得ている。 

1918(大正7)年の第一次世界大戦終戦を契機に中国の青島や山東省、南満州、樺太、さらにはシベリアと失敗もありつつも日本は大陸へと進出してゆく。

海舟が構想した東アジアが連携して欧米列強の脅威から守るという東アジア共同体のようなマインドは消えて、日本は周回遅れの帝国主義へと変質していった。

◉義経=ジンギスカン伝説の虚実は?

1924(大正13)年に小矢部全一郎(1868〜1941)の『成吉思汗ハ源義経也』が刊行されると大ベストセラーとなった。

 

モンゴルのラマ教寺院に残されたジンギスカン像 探検コムウェブサイトより

小矢部は牧師であり通訳であり教育者であり、著述家というマルチタレントであった。
義経は生きて蒙古(モンゴル)に入ったことを現地調査するために陸軍通訳官になったという人物だ。

小矢部はモンゴル調査のあと、この著書を書いた。
実際に読んでいないので孫引きになるが、たとえばこうだ。

⚫︎モンゴルの伝説ではジンギスカンは外国人だった。
⚫︎ジンギスカンが即位した時「九旒の白旗」を掲げた。白旗は源氏の旗印であり、九旒は九郎判官を意味するものだ。
⚫︎ジンギスカンは紋章として笹竜胆を使用した。笹竜胆(源氏の紋章)を尊び、九の数を好むのは己の名の九郎に因んだからだ。
⚫︎国名「元」は「源」に通じる。


また、習俗についてモンゴルと日本の類似性を挙げている。

⚫︎日本は流鏑馬(やぶさめ)というが、モンゴルでは騎射術のことをヤブサメルという。
⚫︎モンゴル人は衣服の色は白をもっとも高貴とするが、それは東洋人ではモンゴル人と日本人だけ。
⚫︎モンゴルでは注連縄(シメナワ)に似たものを祭事に使う。


小矢部全一郎 Wikipediaより

果然というべきか。
たちまち専門家たちから『成吉思汗ハ源義経也』への批判がわきおこった。
小矢部は、これらに対し痛快なまでに反論している。

いわく、
古文書のみを信ずるのは針なき糸をたらして魚をつるようなもんだ

いわく、
お偉い歴史家の方々が私に向かってくるさまは、さしずめ小結になったばかりの関取に、そうそうたる横綱たちが次々投げ飛ばされているような、痛快な気分だね

いわく、
学者というものは現地に出て慎重に踏査、深く研究をしなければならない。
現地にも出ていないのになにをいうか。『成吉思汗は源義経にあらず』とあとから出してくるのは売名行為に近い。


学者でははないが、厖大な史料を渉猟した史伝作家・海音寺潮五郎は、本書についてこう決定づけている。

何よりも決定的なことは、ジンギス汗は生まれ落ちた時から死に至るまで、はっきりとその生涯がわかっている点だ。
それどころか、彼の父のことも、母のこともわかっている。
現代の蒙古人の伝説でどういわれようと、外国人であるという説など入り込むすきは一分もない

 

『成吉思汗ハ源義経也』の2年後、大正が終わり昭和となる。

かつて五族協和という言葉があった。
満洲国(1932〜1945)の民族政策の標語で、日本・朝鮮・満洲・蒙古・漢の5つの民族が協調して暮らせる国を目指すというものだ。
義経は清朝の開祖であり、モンゴル人であるジンギスカンだという伝説がある。
伝説の義経は、時代の寵児となった。

しかし、満洲国は旧清朝の宣統帝であった溥儀を執政とし、五族協和をかかげたが実態は関東軍の傀儡国家であった。
司馬遼太郎は太平洋戦争終戦までのこの時代を鬼胎の時代とよんだ。
日比谷焼き打ち事件(1905年)にはじまり、参謀本部が統帥権の独立を盾に取った国家が崩壊に至り、やがて敗戦によって熄んだこの時代である。

五族協和の夢が消えて、義経=ジンギスカン伝説も消えた。

しかし、1958(昭和34)年、思わぬところから不死伝説の第5次ブームが起こる。
推理作家・高木彬光の書いた『成吉思汗の秘密』がベストセラーになったのである。

 

Amazonウェブサイトより


源義経が頼朝の手を逃れ、蝦夷へと渡り、モンゴルでジンギスカンになったという伝説。
名探偵・神津恭介は盲腸で入院し、退屈しのぎにこの歴史の謎を解こうとする。そこに東大史学科の井村助教授が登場し、議論を応酬させるという推理小説だ。
『成吉思汗の秘密』の義経は劇中劇の主人公のようだ。
この小説で義経の不死伝説を初めて知り、歴史のロマンを感じた人も多かったのではないか。
平和な時代になったのである。


◉エピローグ

義経は日本人の心の中で長く生き続けた。
しかし、義経は時代とともにその姿を変えている。

アイヌの神・オキクルミ
金の大将軍
清朝の開祖
そして、ジンギスカン

義経の不死伝説は、日本と世界とのときどきの関係をうつしだす合わせ鏡のようだ。


鏡は自分の姿を写すために使われるが、その正面しか写らない。
しかし自分の背中を見たい場合がある。
そういうときは、背面に鏡をひとつ置き、そこに背中を写して、正面の鏡で背中側の鏡に映った像を見ることができる。

鏡に写った正面の姿が、その時の日本と世界の姿であるならば、もうひとつの合わせ鏡に写ったものが義経の不死伝説のようでもある。

おそらく、義経は衣川で死んだであろう。
義経の首はたしかに腐乱していたかもしれない。

その点、頼朝は周到だった。

頼朝はその首の検分役を梶原景時に命じたのである。
東国武士団の中で、景時ほど義経と険悪だった者はいない。その景時が、これは義経の首であると認めて頼朝に復命したのだ。
景時と義経との間には深い怨恨と憎悪が絡み合っている。
もし偽首だったら義経はどこかで生きていることになる。看過できることではあるまい。
偽なら偽と頼朝に報告したはずだ。



最後に、義経の悲劇について。
悲劇の根幹は、彼が東国武士団の本質や頼朝の立場もわきまえず、無分別にふるまったことへの自業自得にある、という評価が多い。
もっと慎重で、謙虚で、微塵も頼朝の意に反することのないようにすべきだったという。

前出の海音寺潮五郎はこれを、笑うべしという。

私には続く次のこの言葉こそが、義経の真実を突いているように思えてならない。

自信と自負をもちながら、驕慢でなく、独断専行せず、自己を拘束するなどという境地は、修養に修養を重ねて、50歳以上になって得られれば幸い、しかも多くの場合、すでにもう天才でなくなっているのだ。
義経がもしあの若さで処世術など心掛けて、常に兢々たる態度などでいたら、とうていあのような天才の発揮は出来なかったろう。

あのようであったらばこそ、あのはなやかな功業をなしとげたのだ。
義経自身の気持はどうであろうとも、彼は最善の生き方をしたと、ぼくは思うのである。


そうか。義経は、あの義経のようにしか生きられなかったのか。

だからこそ、義経はみんなの心にやどり、伝説の人になったのだ。

そう私には思える。

 

源義経終焉の地・高館義経堂 毛越寺ウェブサイトより

 

【参考】

海音寺潮五郎『歴史余話』(文春文庫)

週刊朝日編集部『司馬遼太郎の描く異才1』(朝日文庫)

海音寺潮五郎『武将列伝1』(文春文庫)

高木彬光『成吉思汗の秘密』(光文社文庫)