波濤を越えた不滅のヒーロー②〜義経、大陸へ〜 | 天地温古堂商店

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さらに伝説の義経を追う。

 

『蝦夷志』は、日本最初の本格的な蝦夷地の地誌で新井白石(1657〜1725)が 1720(享保5)年に作成したものだ。

白石はこの書に、アイヌ人が義経をまつり、これをオキクルミと呼んで神として崇めていると書いている。

彼はこの書にもうひとつ重要なことを書き残している。

蝦夷地の西部の地名に弁慶岬というのがある。一説によると、義経はここから北海を越えて去った。


彼はどこへ去ったのか。
伝説の義経が、蝦夷地から大陸にわたるルートは3つの説があるという。
まず、日本海側の寿都町から渡る説、これは白石のいう弁慶岬からであろう。
次に、稚内から宗谷海峡を渡る説。
そして、蝦夷地東部から知床半島に至り、国後島から樺太、さらに大陸へと渡る説。

こうして江戸時代中期の17世紀後半あたりから、義経の不死伝説は蝦夷地から大陸へと移ってゆく。

 

 

義経がここから大陸に渡ったといわれる弁慶岬 寿都町ウェブサイトより

◉義経は金王朝の大将軍か?

沢田源内(1619〜1688)という人は『別本金氏外伝』に義経の姿を発見した。

範車大将軍源光録は、日東の陸華山の権冠者源義経の子なり。
そのさき義経蝦夷に奔り、土人を領し、金に至りて帝宗につかう。
帝宗詔して光録太夫に命ず。
大将軍に累任し、久しく範車城を守り、北方を鎮す。


金(12世紀ころ)は、満州地方に蟠踞する女真族が打ち立てた王朝だ。
義経は金にやって来て皇帝に仕え、光録大夫という官職につき大将軍に累進した。その子は義鎮といい、それが金の大将軍・源光録だというのである。

義経は、蝦夷地から海を渡り大陸に達し、金の最高位の将軍になったのである。

 金王朝はジンギスカンによって滅ぶ 世界史の窓ウェブサイトより


沢田源内(1619〜1688)は、百姓の子、親王の小姓、山伏というあやしい履歴の人だ。
後世ではこの人を偽書や偽系図の製作者と評価をしている。
この『別本金氏外伝』を偽書だということを見破ったのは新井白石だった。
さらに後世になって金田一京助博士は、この偽書を書いたのは沢田源内だと断定した。

残念ながら義経のアリバイは幻となった。

◉義経の子孫は清王朝の開祖か?

実は白石は、『蝦夷志』を書いた3年前に、『鎌倉実記』なる書物を読み、そこには義経が中国大陸に渡り、その子孫が清朝の祖となった、と書かれていることを知った。

18世紀に入ると『鎌倉実記』にある義経が金に仕え子孫が栄えたという説が流布し信用された。

最近世に出た『鎌倉実記』では、義経は蝦夷渡海後、大陸の女真国へ至り、皇帝に仕えて栄えたと記している。『金史』を引いての論証であり信憑性は絶対である。

そう証言したのは儒者であり画家であり書家である佐久間洞巖だ。
しかし、『鎌倉実記』をウソだと見破ったのは、またしても新井白石だった。

またも、義経のアリバイは霧消した。

ウソとばれても義経の不死伝説は次から次へと湧いてくるから不思議だ。

1783(天明3)年、森長見という国学者が書いた『国学忘貝』にはこうある。

清朝で編纂した『図書集成』には、

中国の清王朝の先祖は源義経で、清という国号は清和源氏からとった

と書かれている。


清の乾隆帝が書いたらしい。
清(1636〜1917)は、金が滅亡したあと、同じ女真族が打ち立てた王朝だ。

実は『図書集成』は全部で10000巻あるという大叢書だ。その中の『図書輯勘』130巻にそのくだりがあるという。

実は幕府の図書館である紅葉山文庫には『図書集成』が所蔵されていて、森と同時代の幕臣・伊勢貞丈は機会があってこれを実際に見たと思われ、次のように言っている。

巷でささやかれている『図書集成』うんぬんの話は大ウソである。
私はゆえあって序文を見る機会があったが、清朝皇帝が自らを義経子孫、清和源氏の「清」を採ったなどのことは一行たりとも書かれていなかった。


見てみたら、大山鳴動してネズミは一匹もいなかったのだ。

 

伊勢貞丈 Wikipediaより

◉新井白石〜義経伝説の発見と解明

義経の蝦夷地行伝説は、ヤマトタケルや弘法大師が諸国に残した伝説に似ている。奥浄瑠璃やアイヌ神話が媒介となって広がっていったことで、それなりに理解できる。
そして、長きにわたる義経へのノスタルジーは蝦夷地にとどまらす、これでもかこれでもかと彼を大陸へ渡らせた。

義経の大陸行きは、民衆のノスタルジーだけなのだろうか。
まず考えられるのは政治的事情によるものだ。

この稿に何度か登場する新井白石は、江戸時代中期の旗本、政治家、朱子学者、詩人である。学問は朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学と多岐にわたっている。
幕府の老中ではないが将軍側近として実質的には政治・経済・外交を掌握していた。
当時、日本の知能というべき人だ。
彼は、晩年に『蝦夷志』と『南島志』を書いていて、蝦夷地、琉球といった日本の辺境(というより多分に異域)に興味と知識を持っていたことがわかる。

新井白石像 Wikipediaより


彼は在任中、朝鮮通信使の対応をしており、アジア情勢に精通し、近代的な視点で国家意識を持っていたと思われる。
蝦夷地も、琉球も、朝鮮も、清国のことも造詣の深い彼のことだ。
内外の史料を渉猟していくうちにその目に、「義経」の文字が飛び込んできたのではなかろうか。

蝦夷地の西部の地名に弁慶岬というのがある。一説によると、義経はここから北海を越えて去った。

 

そう白石は自著に書いたが、白石ならわかったはずだ。
それが不可能であることを。


海には潮があり、風があり、波がある。
船は板子一枚下は地獄といわれ、堅牢な船体と熟練した航海術をもつ船乗りが必要だ。

北海道西海岸の日本海 海上保安庁ウェブサイトより

たとえば白石と同時代の人に、河村瑞賢がいる。江戸時代の海上輸送を考えるには、瑞賢の存在を抜きには語ることができない。

安全で速い海上輸送ルートの開発が急務となり、幕府は瑞賢に、東北地方の米を江戸に輸送するための航路を開拓を命じた。
東北地方から江戸への海上輸送は従来からあったものの、耐波性に欠けるため房総沖での海難が多発していたのだ。
そこで瑞賢は、その当時もっとも技量が高いといわれていた尾張・伊勢・紀伊の船と船頭を使って、東北から江戸湾に直接向かわず、伊豆下田あたりを目指すコースを考えた。
そこで風待ちをして、江戸へ向かわせる航路を開拓したのだ。
世に有名な東回り航路だ。

次の指令は、出羽・最上の米を江戸・上方へ運ぶ航路を開拓することだった。
瑞賢は、津軽海峡での海難を考えて、酒田を出て日本海を航行し、能登〜下関〜瀬戸内〜大坂〜紀伊半島〜遠州灘〜江戸という新しいコースを開拓した。これが西回り航路だ。

白石は瑞賢を、

これより後、漕政一新して、便捷に帰す。

と称賛している。
また、白石が「奥羽海運記」「畿内治河記」 を著したのは、ひとえに瑞賢の業績を後世に伝えようとしたからだという。

 

河村瑞賢の像 観光三重ウェブサイトより

このように航海事情に明るい白石が、500年前の蝦夷地と沿海州の海域を、素人が小勢で渡れるとは思ってはいまい。

また、蝦夷地北部や沿海州にはアイヌではないツングース系の諸族がいたはずだ。
白石より一世紀あとの間宮林蔵は、蝦夷地から樺太から沿海州を探検踏査した。
そのためにアイヌやツングース系諸族を懐柔し、言語習俗を身につけ、彼らの献身的な協力のもとそれを成功させた。
そのことを考えても、白石は、史料が語る義経の成功を信じてはいなかったのではないか。

ただ、学者として史料を渉猟してゆくなかで出会った義経とその成功に、驚き、喜び、やがて疑い、白黒を明らかにするためにさらに史料を渉猟し、偽りであることを解明し、世に知らしめた。
そういうことだったのではなかろうか。


◉日本人優位の意識に使われた義経?

随筆家で歴史家の神沢杜口(1710〜1795)が『翁草』 を著したのは1776(安永5)年というから田沼意次が権勢をふるった田沼時代のことである。
鎖国下にありながら田沼ら日本の為政者に、そろそろロシアをはじめとした外界の動きが視界に入りはじめたころだ。

『翁草』にはこう書かれている。

清朝は北虜から出ているが、現在、祖先が狄虜出身であることを恥じて、皇帝自ら『図書輯勘』に序文を寄せて日本の末裔であることを宣言している。
我朝の美名、万世に伝えて、実に我が国の光輝である。


北虜とは漢民族から見た女真族のことで、狄虜も同じことだ。
清朝は自ら女真族が建てた国であることを恥じて、そうではなくて日本人が祖であると言っているという。その日本人とは源義経にほかならない。
(数年後、『図書輯勘』の不存在が証明されているが…)

そのあとの文句がまことに仰々しい。

我が朝の美名は我が国の光輝

激しく言えば、自分たちは選ばれた特別な存在であり、他者を卑しい存在として見くだしたり排除したりしようとする日本人優位の差別意識の萌芽にもみえるが、果たしてどうであろう。

 

義経騎馬像 小松島ナビウェブサイトより