忘れがたき作家、海音寺潮五郎〜歴史文学の土壌をつくった巨人〜 | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

偏見かもしれないが、歴史学者と歴史作家は総じて仲が悪い。
史実と小説世界の狭間で、とかく学者は作家を批判し、作家は学者を忌み嫌う。 

歴史学者が歴史作家を高く評価することはほぼない、と思っていた。

しかし、歴史学者・本郷和人(東京大学教授)は、歴史作家・海音寺潮五郎(1901〜1977)のことを次のように称賛している。

いま海音寺潮五郎を愛読する人は多くあるまい。だが、いま読み返してみても、彼はものすごいストーリーテラーであると感嘆する。

逆説的な言い方になるが、海音寺は「史伝」が書ける。
史伝とは、歴史上の人物や事件を対象として叙述する読み物である。
歴史小説とどう違うか。
一次史料の読解を基礎としてフィクションの要素を意図的に排除し、歴史の真実を明らかにしようとする。
それが史伝である。
つまり史料が読めないと書けないのだ。

明治期の山路愛山、大正期の森鷗外や幸田露伴などいわば在野の歴史家が執筆に励んでいたが、昭和期に入ると書き手が枯渇していった。
その中で気を吐いたのが海音寺で、ともに国学院大学で学んだ学者の桑田忠親とともに、現代の歴史ドラマに登場する過去の人物の共通イメージを作った人、とぼくは評価している。

⚫︎本郷和人『天と地と 上・中・下』の書評より(毎日新聞)

珍しいことといえよう。

 

海音寺潮五郎 かごしま近代文学館ウェブサイトより

 

海音寺潮五郎。

鹿児島県伊佐郡大口村に生まれ、加治木中学校、神宮皇学館を経て国学院大学に進学。

卒業後は中学の国漢教師となり、1929(昭和4)年『うたかた草紙』が「サンデー毎日」の懸賞小説に当選し、作家の道へ。

1936(昭和11)年には『天正女合戦』『武道伝来記』のニ作により、第3回直木賞を受賞。

その後、『平将門』、『武将列伝』、『悪人列伝』、『幕末動乱の男たち』、『天と地と』、『海と風と虹と』など数多くの作品を発表。

ライフワークである史伝『西郷隆盛』の完成に心血を注いだが、未完のまま倒れ、76歳で帰らぬ人となった。

NHK大河ドラマ『天と地と』、『風と雲と虹と』の原作者といえばおわかりの方も多いと思う。


海音寺は日本史学の泰斗・桑田忠親(1902〜1987)と親交があり、歴史作家でありながら歴史小説家という意識が希薄で、自らを史伝作家といっていた。その史伝は本郷教授お墨つきのすぐれものだ。


海音寺は、小説と史伝の境界線を見事に言い表している。

人物の性格を四捨五入して端的に割切って、すべてをその線に沿って書いて行くのは小説の手法である。
小説の世界は現実の世界とは全然別個の世界だ。
作者によって作られた別世界なのだ。
ここではどんな怪異も、奇蹟も、読者が納得するように書かれるならかまわない。
おしつめた言い方をすれば、小説家は筆をもってする魔術師なのである。上手な魔術師も下手な魔術師もあるが。



 

史伝では、人物の四捨五入はしない。


史伝の世界は現実世界の引きうつしである。


現実世界に生きて行ける人間が描かれなければならない。

人間は四捨五入の出来る部分で特色があらわれ、できない部分で生きているのである。

海音寺潮五郎の故郷・薩摩大口の武家屋敷 外城の町並み、麓の町並みウェブサイトよりより

ところで、いまでも歴史作家でまず思い起こされるのは司馬遼太郎(1923〜1996)であろう。
歴史小説の世界では、「一平ニ太郎」という言葉があるそうで、

藤沢周平
司馬遼太郎
池波正太郎

の三人をいうのだそうだ。

なかでも司馬は、新しい視点と斬新な描写で彼自身の歴史観を作って日本社会に広く影響を与えた。
国民的作家といわれ、死後においてもその影響力は大きい。
いまだに、『竜馬がゆく』『燃えよ剣』や『坂の上の雲』など多くの作品が、現代人の生き方や信条に少なからぬ影響を与えている。
司馬の存在は、後進の現役作家を苦しめ、壁になっているという見方もあるくらいだ。

まだ司馬遼太郎が無名のころ、これを見出して世に出したのは海音寺である。

ある賞の審査で司馬の作品が諮られたときのことを司馬本人がこう振り返っている。

だいたいの選者がこの作品を無視し、一人の選者がまことにもっともな理由で痛烈にこれを否定し、ただ一人の選者がそれ以上の激しさでこれを推賞し、やっと他の応募作品と抱きあわせというかたちでほかの選者も承知し、入選した。

「ただ一人の選者」というのが海音寺であった。
海音寺は早くから司馬のたぐいまれな才能を見抜き、これを支援した。
世間と違う概念で書く歴史小説に不安と迷いのあった司馬に海音寺は声援と激励をおくり続けた。
そんな司馬は、

せっかく小説を書くうえは、概念から自由になるべきだという自己流の弁解を自分にほどこし、やっと書きつづける勇気を得た。
その勇気を得させてもらった唯一の人は、(海音寺)氏であった。
もし路傍の私に、氏が声をかけてくださらなかったら、私はおそらく第三作目を書くことをやめ、作家になっていなかったであろう。

そうまで言い切った。

 

1923年(大正12年)当時の國學院大學  Wikipediaより

 

海音寺と司馬には共通点がある。

いずれも無類の本好き、読書好きということだ。

 

司馬にはこんなエピソードがある。

人がコーヒーを一杯飲む間に司馬は三百ページほどの本を三冊読み終えていた。

また、少年時代は学校が嫌いで毎日図書館に閉館間際まで通いつめ、さまざまな本を読みあさり、それが6年近くつづき、ついに読む本がなくなり、魚釣りの本まで読み尽くしたという。

 

一方、海音寺は自分を語るとき、まずこう言ったという。

 

ぼくは、もともとが怠け者なので、生活に困らなければ、書く仕事なんてしないで、毎日本を読んでいたいのです。

 

海音寺の本好きは異常なほどで、生涯を通して精力的な読書家だった。

 

ぼくの生まれた明治末期の鹿児島県の大口村は、その当時、田舎で、読むものがなかったので、小学校のころは、印刷したものならば、何でもむさぼるように読んだものです。両親から読むことを禁じられていた講談本を、屋根にのぼって暗くなるまで読み耽ったのが、いまでは懐かしく思い出されます。 

 

という具合だ。

 

海音寺の小学校時代の学業成績簿は、国語、算術(算数)、理科など9科目のうち、国語は甲、そのほかの科目はすべて乙だった。

ただ、日頃のおこないを評価した操行に丙があった。丙がもっとも良くない。

海音寺少年は毎朝、学校へいく前に本を読むのが癖で、本に熱中するあまり遅刻ばかりしていたので、丙をつけられたという。

 

ふたりの偉大な歴史作家は読書魔。

単なる偶然とは思えないが、どうだろう。

 

経堂にある旧宅は学生のための宿泊施設として活用されている 鹿児島大学ウェブサイトより

 

海音寺や司馬について詳しい、すぐれた文芸評論家に磯貝勝太郎(1935〜2016)がいる。
磯貝氏は、生涯に一度の海音寺との会談の席で、

お二人の間柄は、島津斉彬と西郷隆盛のそれに似ていますね

と言った。
むろん、斉彬が海音寺、西郷が司馬である。
西郷が薩摩の名君といわれた島津斉彬に、認められて抜擢され、薫陶をうけて、世に出たことは有名だ。
磯貝氏は海音寺が随筆で、斉彬と西郷の関係を、

殿様(斉彬)が吉之助(西郷)と話をしていたり、殿様が吉之助について話している時のご機嫌のよさは格別で、キセルで灰吹をお叩きになる音が、ふだんと全くちがうのでもわかる。

と書いていたのを覚えていて、そう言ったのだ。
現に、海音寺はライフワークである史伝『西郷隆盛』を執筆しているとき、

この史伝の執筆に全精魂を傾けているのですが、骨が折れます。後半は司馬君に代わって書いてもらいたい気持ちですよ。

と語っていたという。

 

生誕100年記念 海音寺潮五郎展ポスター かごしま近代文学館ウェブサイトより


その頃、司馬は西郷隆盛を主人公にした『翔ぶが如く』を新聞に連載していた。
海音寺はその新聞を購読するため、他の新聞をやめて、毎朝、読むのをたのしみにしていたという。

海音寺は『西郷隆盛』を最後まで書き終えることなく亡くなった。
文字通り、後半を司馬が代わって書いたも同然となった。

司馬は道なき道を歩いたのではなく、海音寺が作った道の上を司馬が歩いたといってもいい。まさに、衣鉢を継いだのだ。

本郷氏が言うように、現代において作家として海音寺潮五郎の名はさほど知られてはいない。
むしろその偉業に比べ、忘れ去られている感すらある。

海音寺潮五郎が書いたイラストの手ぬぐい かごしま近代文学館ウェブサイトより

私は、海音寺の随筆集に磯貝氏が書いた解説文を読んだ。
読んで、あらためて、海音寺潮五郎が存在した意味の大きさを知ることができた。
長い引用になるがお許しいただき、ご紹介したい。

こんにち、数多くの良質な歴史小説や史伝が多数の読者によって読まれるようになった、いわば、土台づくりをした作家が海音寺潮五郎であった。

戦後、皇国史観によるタブーが解禁となり、歴史にたいする一般のひとびとの関心はたかまったが、歴史認識そのものはきわめて貧しいものだった。
学問としての史学は別として、歴史が一般のひとびとによって読まれ、人生の知恵になるのは、歴史小説や史伝などの歴史文学であると確信する海音寺潮五郎は、歴史知識のない大衆には歴史文学が不毛の荒野にほかならないと考えた結果、歴史を大衆に結縁させ、歴史を知ってもらうためにも、不毛の荒野の土壌づくりをしなければならない、と決意し、『武将列伝』をはじめとする史伝を手がけ、多くの歴史、時代小説の傑作、佳作を執筆した。
これらの良質な史伝や歴史小説を生みだすことによって、土壌づくりがなされたお蔭で、こんにち一般のひとびとの歴史認識は増大し、硬質な歴史文学作品でさえ読まれるようになった。


海音寺潮五郎の土壌づくりは、一般の読者大衆のみならず、歴史作家にたいしても、なされていたことは注目に値するといえよう。
その好例は、海音寺文学のひとつの特色をなしている史伝ものの作品のなかにみられるのである。
それらの史伝では、史料が引用され、出典が明示されており、史料の比較考証がおこなわれているので、歴史、時代小説を書こうとする作家は、作中に散見できる引用文の出典、史料の比較考証などによって、史料原典を照合することが可能だ。

海音寺潮五郎は一連のお家騒動を扱った史伝『列藩騒動録』の「あとがき」のなかで次のように書いている。


「江戸時代の諸藩のお家騒動を調べてまとめておきたいと思い立ったのは、かなり以前のことです。『武将列伝』を書き、『悪人列伝』にかかって間もなくのことだったと記憶しています。
これも、もちろん、歴史文学の土壌づくりのためです。お家騒動は昔からずいぶん文学の材料にえらばれていますから、フィクションの加わらない真実の姿を書いておくのは大いに必要なことだろうと考えたのです。

ーーお家騒動を扱った昔の文学は、皆一定のパターンがあって、その卑俗低劣さは、とうてい現代の読者にはがまん出来ないのですが、真実はごらんいただいたように、それぞれに生き生きとして個性的です。
これをおさえた上で巧みなフィクションをして書くなら、十分に新しい小説になり得るはずです。
野心ある作家諸君が参考にしていただくなら、ぼくとしてはうれしいことです。
決して著作権の侵害などというケチなことは申しません。大いにご利用ください。」


史伝は歴史小説や時代小説を手がけるよりも時間と労力を要する。
多数の史料を博捜、読破し、良質の史料を選択し、史実に基づいて史伝を書かねばならず、歴史、時代小説を執筆するよりも割に合わないことはたしかだ。
この間尺に合わない、数多くの史伝を書きつづけたのは、土壌づくりのためであり、史伝を参考にして小説を書いても、著作権の侵害などといわない、と海音寺潮五郎は他の作家に寛大で温情的な姿勢を示している。

江戸時代のお家騒動などという古くさい出来事は、人工衛星が飛びかうハイテク時代のこんにちでは全く無縁なような事件が、こんにちの管理社会における会社や役所でおこなわれていることを、『列藩騒動録』を読むことで知ることができる。

『列藩騒動録』や『武将列伝』などの史伝を参考にして、多数の作家が歴史、時代小説を手がけていけるので、土壌づくりは功を奏したといえる。

海音寺潮五郎の文学碑 鹿児島県立加治木高等学校ブログより

 

時間と労力のかかる仕事
割に合わない仕事
間尺に合わない仕事
土壌づくりの仕事

そうした仕事を、海音寺はやってきた。
そのあげくに自分が創造したものの無断利用を海音寺はゆるした。
それはひとえに歴史文学の興隆という公益のためだ。
歴史文学が人々にとって、人生の知恵となり、そのことが人々に幸福と利益をもたらすことを海音寺は信じていたためだ。

その意味で海音寺潮五郎は、日本の歴史文学と現代の歴史作家とその読者にとって、偉大な財産であり恩人である。


私は、今後、海音寺潮五郎が〝再発見〟され、多くの人たちに読み直され、世代を超えて再評価されることを期待してやまない。
そして、いまも未来も、歴史文学が人々にとって、人生の知恵となり、そのことが人々に幸福と利益をもたらすことを信じていたい。

 

 

【参考】

海音寺潮五郎『歴史随談』(文春文庫)

海音寺潮五郎『得意の人・失意の人』(PHP文庫)

福間良明『司馬遼太郎の時代』(中公新書)