覇王の家
司馬遼太郎が書いた徳川家康の小説である。
誰もが一度は読みたいと思いながら、なかなか手に取ることができない古今東西の「名著」を、25分×4回=100分で読み解く番組がある。
NHK Eテレ『100分de名著』だ。
8月7日から4週にわたって、『覇王の家』を取り上げる。
初回は8月7日午後10:25 〜 午後10:50。
今年の大河ドラマが『どうする家康』だけあって、徳川家康とはいったい何者か?を100分で知るよい機会かもしれない。
『どうする家康』の家康と比較してみるのも一興であろう。
織田信長、豊臣秀吉と並んで「戦国の三英傑」と呼ばれる徳川家康。
この巨人と作家・司馬遼太郎氏が真っ向から対峙して書き上げたのが『覇王の家』だ。
常識にとらわれない司馬氏の人物観察眼、歴史への洞察力は、
これまであまり注目されなかった
家康の意外な性格
家康を育んだ土地柄
決断の裏側に潜む価値感
などを炙り出してゆく。
大河ドラマ『どうする家康』が後半のクライマックスを迎え始める8月、『100分de名著』では、『覇王の家』に新たな視点から光を当て、価値観が大きく揺らぎつつある現代を生きるヒントを徳川家康の生涯から学んでいくという趣向だ。
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出演は、作家・安部龍太郎。
朗読するのは俳優・小手伸也。大河ドラマ『どうする家康』で大久保忠世役を演じている。
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NHK 100分de名著 NHKウェブサイトより
各回の放送内容は次の通り。
第1回
「三河かたぎ」が生んだ能力
第2回
「律儀さ」が世を動かす
第3回
人生最大の戦果はこうして生まれた
第4回
後世の基盤をどう築いたか
第1回「三河かたぎ」が生んだ能力の見どころは…。
家康が歴史の表舞台へと躍り出ることができたのはなぜか。司馬氏は「たったひとつ、かれが三河に生まれた」ことだと述べる。それは一体どういう意味なのか?
家康を生んだ三河には中世的な深い人間的紐帯が色濃く残る。
若き日、人質になる事を余儀なくされた家康。
「苦難を共にする」という思いが、残された家臣団の更なる団結を生んだ。
信玄のような戦術的天才も、信長のような俊敏な外交感覚もなかった家康だったが、こうした紐帯がベースになって部下に対する統率力を磨く。
第一回は、三河かたぎや若き日の苦難が家康の能力をどう育てていったのかを、司馬氏の洞察を元に探っていく。
小説『覇王の家』は、徳川家康の誕生からその死までの一生を描いた長編小説ではない。
桶狭間もなければ関ヶ原もなければ、大坂の陣もない。
作者が『覇王の家』を書いた理由は、家康の一生を描きたかったからではない。
作者は家康を英雄ではないと断じている。
むしろ、家康の英雄的でない性格がその後の日本に大きな影響を及ぼしたと言っている。
家康はその死後、神となった。
ご案内の東照大権現である。
死後に神となる着想は信長にあったようで、秀吉は生前からそのことを側近に申し送っており、死後に豊国大明神という神になった。
家康はこの着想と方法を、真似た。
かれの生涯は独創というものがほとんどなかった。
自分の才能を、かれほど信ずることを怖れた人物はめずらしく、しかもそのことがそのまま成功につながってしまったという例も、稀有である。
そういう意味からいえば、なまなかな天才よりも、かれはよほど変な人間であったにちがいない。
家康は独創せず、良き他者を真似た。
たとえば武田の軍法もそうだろうし、後北条氏の民政もそうだろう。
また、独創して衰退滅亡した者を反面教師として学んだ。
家康が開いた江戸時代は、功罪半ばすると作者はいう。
室町末期に日本を洗った大航海時代の潮流から日本をとざし、さらにキリスト教を禁圧するにいたる徳川期というのは、日本に特殊な文化を生ませる条件をつくったが、同時に世界の普遍性というものに理解のとどきにくい民族性をつくらせ、昭和期になってもなおその根を遺しているという不幸をもつくった。
不幸とはゆゆしき言葉だが、その罪(むろん功績もあるが)はすべて、徳川家という極端に自己保存の神経に過敏な性格から出ているという。
その権力の基本的性格は、かれ自身の個人的性格から出ているところが濃い。
徳川家光の懐中には「生きるも 死ぬるも 何事もみな 大権現様次第に」と書いた紙の入ったお守り袋があったというし、徳川吉宗の政治方針は「何事も権現様のお定めの通り」だというから、作者のことばも肯ける。
家康の性格がこの国を世界の普遍性から遠ざけ、現代にまで負の遺産を及ぼしているというのだ。
『覇王の家』(新潮文庫)Amazonウェブサイトより
『覇王の家』の小見出しはたとえばこんな具合だ。
三河かたぎ
三方ヶ原へ
大潰走
閨閥
遠州二股の話
甲州崩れ
凱風百里
甲信併呑
初花
不覚人
清洲へ
第一戦
安藤直次
蜻蛉切
石川数正
都鄙物語
その最期
以上である。
物語全体は、どちらかというと点景描写に近い。その点景のなかで、作者は家康の思考や情動や行動にするどく切り込んでいる。
点景は、三方ヶ原の戦い、築山殿事件、武田氏滅亡などだ。
物語の後半、「初花」から「都鄙物語」は、秀吉と干戈を交えた小牧長久手の戦いとその前後譚だ。
石川数正の出奔も描かれている。
物語は全編を通してしばしば、家康の性格をあらわす場面に出くわす。
それは、さしずめ家康の習性、趣向、心理、行動から導き出すプロファイリングのようだ。
家康という、この気味わるいばかりに皮質の厚い、いわば非攻撃型の、かといってときにはたれよりもすさまじく足をあげて攻撃へ踏みこむという一筋や二筋の縄で理解できにくい質
(「三方ヶ原へ」より)
それは、三方ヶ原でのことである。
武田信玄とその大軍団は家康の居城・浜松城の北方の台地を西にゆく。
徳川方は城に居てこれをやり過ごすべき、と家臣団のすべてがそう主張した。
ところが家康は、出て戦うという。
なにごとにも慎重をかさねてきたこの男が、血の気をうしなうほどの形相でこういうことを言いだしたのは、家康の郎党でさえ家康の人間を量りかねたほどであった。
家康というこの人間を作りあげているその冷徹な打算能力が、それとはべつにその内面のどこかにある狂気のために、きわめてまれながら、破れることがあるらしい。
(「三方ヶ原へ」より)
果然、家康は玉砕した。
かろうじて家康は身ひとつで浜松に帰還する。
非攻撃性のなかにひそむきわめて稀な狂気のような勇猛心が、彼にはあったという。
徳川家康三方ヶ原戦役画像 プレジデントオンラインwebサイトより
家康の性格は律儀だといわれる。
家康は、律儀にも織田信長を裏切ることなく同盟20年、その東方を守り続けた。
ついには、武田氏を滅ぼし、甲信駿三国が信長の手に入った。
信長は家康の長年の労に対して、駿河一国でむくいた。
家康は本国三河と自力で取った遠江の約60万石がある。
駿河17万石。
家康は、これを過分に思ったか。
それとも、たったこれだけか、と思ったか。
作者は家康の腹のひねくれ具合をこういっている。
この駿河の国の拝領を、家康は十分よろこんでいた。
それどころか、信長に対しひたすら謙虚をよそおうこの食わせ者は、いったん辞退さえした。
家康はすぐれた偽善家であった。
駿河は今川の旧領だから、流寓している氏真に与えたい、と信長にいうのだ。
そもそも遠江は家康が今川から奪い取った土地である。ならば遠江も返せばいいではないか。
駿河を氏真に返したいなどという家康の神経は常人のものではない、と作者はいう。
理由は、家康が信長という人物の性格を知りぬいていることから出ている。
信長に接するには白刃の上を素足でわたるほどに細心の注意をせねばならないが、なによりその好みとするところに適わせねばならない。(略)
家康にすればこの場合、信長に対して多年同盟者でありつづけてきたのは欲得ではなく、純粋な情誼であったことを見せておかねばならない。(略)
二つ返事でよろこべば、信長は、
(こいつ、やはり欲のふかい男だ)
とおもうにちがいない。
(「凱風百里」より)
家康は律儀を芸として無欲の善人を演じた、というのが作者の見立てである。
実はこの話にはその先にオチがあって、信長は家康の謙虚のウラの作為をを見抜き、
アア、ソウカ…ならばわたしに返されよ
と言った。
家康はあわてて、喜んで拝領するていをとったという。
家康の律儀は、その本性では決してないだろう。
織田信長 Wikipediaより
家康の性格をあらわす出来事はまだある。
小牧長久手の戦いは、秀吉と家康の唯一の直接対決だ。
戦さはほぼ五分五分で家康の同盟相手の織田信雄が家康に相談もせず秀吉との単独で講和してしまった。
家康は祝意を示すだけで、秀吉を無視した。
家康にも野心はある。
秀吉との神経戦となった。
秀吉対策をめぐって、徳川家中は二つに割れた。
強硬派と講和派である。
家康を含め家臣たちは、今川氏による隷属の時代から他国から支配されることのつらさをいやというほど経験してきた。
尾張の織田にしても嫡男の信康を、信長の強い示唆によって殺さざるを得なかった。
他国への嫌悪、不信が家臣たちのトラウマになっている。
秀吉はえたいがしれない。
織田の天下を簒奪した奸人である。
いきおい多くの家臣たちからすれば秀吉は憎むべき敵であった。
ただ、石川数正だけは違っていた。
彼は家康から西方に対する外交を任されている。西とはすなわち、秀吉である。
石川数正は、世間を知っていた。
いま秀吉と争えばどうなるかということも。
いま徳川家の政局は、秀吉に人質(家康の次男)をおくるか否かで紛糾している。
数正は、しばらくは秀吉に従うしかないという。
戦さは勝っている。戦さに勝って人質をおくる馬鹿がどこにいよう、と多くの家臣たちはいう。
家康は老臣たちの意見や、家中の反応やらをじっとみていた。
「わがあるじはハキと物を言わぬ人にて」
と、のちに本多平八郎に言われたように、家康は年少のときから衆に先んじて自分の意見をいったことがなく、言わねばならぬときでも、言葉をぼかしてどちらでもとれるようにしか言わない。
(「石川数正」より)
数正は孤立した。
評議の場ではハキと言わぬまま、しかし、家康は行動した。
於義丸(のちの結城秀康)を人質に出す。しかし、それだけのことだ。
本来なら家康みずからが於義丸を連れて秀吉のもとへいくだろう。
が、家康はそれをしなかった。
於義丸を捨てた形になった。
於義丸を連れて行ったのは数正であった。
数正は、徳川家臣団にあって、酒井忠次と並ぶただ二人の老臣(オトナ)であった。
一年後、数正は三河岡崎を出奔し、秀吉のもとへはしるのだ。
家康は、はじめ驚き、例のごとく爪を噛み不機嫌そうにしていたという。
石川数正の出奔は珍事だが、家康はこの難解な政治課題について、本心を韜晦し、人質のことだけ意思表示をした。
トップがそうであれば、矛盾の嵐のなかで現実の絵を描くのは担当者である。
多くの場合、現実はやるせなく受け入れがたい。
このとき現実を快く思わない者たちの攻撃の矛先は担当者に向けられる。
わがあるじはハキと物を言わぬ人にて
家康のことだ。
かれ特有の韜晦は、天然ではなく演じたものではないかと思われる。
家康はこの切所を乗り切るために、数正を切ってでも韜晦しなけらばならなかったのだろう。
数正は家康の身代わりだったのかもしれない。
大河ドラマ『どうする家康』の石川数正(演:松重豊)シネマトゥデイウェブサイトより
また、家康は信長亡き後、手薄になった織田領の甲州を手に入れるために、本多某に〝ハキとしない指示〟を与えて甲州に送り込み、某が殺されることによって略取に成功している。
こうした家康の個人的な性格が、いまの私たちの民族性を作ったと司馬氏はいう。
信長や秀吉の時代に芽生えた民族性が、家康によって、奇形化され矮小化された。
家康によって世界の普遍性(グローバリズム?)から遠ざかってしまった。
『覇王の家』と名づけながら、家康は覇王にふさわしい爽快さと残虐さを少しも持っていなかった。
そう言うのだ。
少なくとも司馬氏はどちらかというと秀吉好きの家康嫌いという印象が私にはあるが、見当違いだろうか。
NHK Eテレ『100分で名著』がどのように『覇王の家』の家康を読み解くのかはこの時点ではわからない。
いまの私たちのなかに家康のなんらかの残滓が知らずのうちに沈澱しているのだろうか。
番組を見ても見なくても、読んでいただきたいし、読んだ方は読み返していただきたい一冊である。