江原真二郎という俳優がいる。
私にとって、江原真二郎といえば、石川数正。石川数正といえば、江原真二郎だ。
大河ドラマ「徳川家康」(1983年)ではこの方が石川数正を演じたのだが、まさに数正のイメージぴったり。
素晴らしい演技だったことを覚えている。
以前、梶原景時のことを書いたときにも同じような書き出しだった。
江原さんの演じた梶原景時や石川数正は、いまでも鮮明に脳裏に焼き付いている。
むろん江原さんが名優だからだろうが、石川数正と梶原景時に何か共通点はあるのだろうか。
と思いめぐらしてみたら……
あった!
ふたりとも組織の中で孤立していったことだ。
大河ドラマ「徳川家康」NHKオンデマンドより
さて、本稿の石川数正。
主君・家康の9歳年上である。
石川氏は酒井忠次の家と同じく、安祥七譜代という松平の最古参の譜代である。
家康が竹千代時代に人質として今川義元のいる駿府に送られたときも供の小姓として随従した。
1567(永禄10)年というから、織田信長と同盟して家康が松平から徳川と改姓した25歳のときだ。
家康は徳川軍団の再編成をおこない、石川数正は酒井忠次とならんで「惣先手侍大将」となり、数正は西三河、忠次は東三河の実質的な旗頭となった。
徳川家の家老としてナンバー2になったのだ。
徳川四天王と言われた本多忠勝、榊原康政、十六神将と言われた大久保忠世や鳥居元忠などはみな数正の下僚である。
数正は家康にとって竹馬の友であり、懐刀だ。
数正には多くの武功もあるが、出色なのは家康の近臣として外交やはかりごとに強くかかわっており、しかもいずれも大きな成果をおさめている。
桶狭間の戦いで今川義元が死ぬと、家康は自立。
1562(永禄5)年、家康は西の隣国、織田信長と清州城において同盟を結ぶことになるが、このお膳立てをしたのが、数正であった。
そのころ、駿府には今川氏真が健在で、家康の正室・築山殿と嫡男・信康(幼名竹千代)、長女・亀姫が人質同然の生活をしている。
このままでは三人の命が危ない。
このとき岡崎城では数正が家康に申し出た。
若君がお一人でお命を害されたのならばお供する者もありませぬ。私らが参ってご最期のお供をいたします。
駿府へ出かけてゆく数正に
貴賤上下感ぜぬ者も無し
(大久保彦左衛門「三河物語」)
と言って賞賛している。
駿府におもむいた数正の手元には、生け捕られていた今川家の重臣・鵜殿某の子二人がいた。
数正は、まず築山殿の父関口刑部と相談した。刑部は今川義元の妹婿。
数正自身も幼き家康とともに駿府で人質生活をしていて、刑部とは知らない仲ではない。
刑部を使って氏真と交渉して人質交換を承諾させ、信康ら三人の奪還に成功した。
数正は意気揚々と岡崎に帰ってきた。
数正は、大きな八の字ヒゲをピンと反らせて若君・信康を鞍の前輪のところに乗せ威風堂々と岡崎城に入城した。
さても氏真の阿呆なこと。竹千代ぎみと鵜殿の子と人質交換するとは間抜けもいいところではないか!
(同上)
数正、人生最良の日だったろう。
この一件によって、数正の外交官としての才能はだれもが認めるところとなった。
石川数正 『長篠合戦図屏風』(成瀬家本) Wikipediaより
また、家康を襲った国難、三河一向一揆で、三河・石川氏は一向宗の中心的存在でありながら、父と袂を分かって数正は浄土宗に改宗して家康方についた。
家康の家臣団は、武辺者、武骨者には恵まれていたが、狭量で頑固で融通性に欠けていた。
石川数正は、武辺だけでなくすぐれた外交能力の持つ稀有な人材だった。
家康にとって彼は特別な存在だったのだ。
東の旗頭の酒井忠次が甲斐信濃の外交を担当するのに対して、西の旗頭の石川数正は織田、羽柴の尾張との外交を担当した。
家康にとって、重要な隣国は東の武田と西の織田、そして織田信長亡き後の羽柴秀吉だ。
1582(天正10)年、東の武田が滅び、織田信長が本能寺で死んだ。
家康は西に対して沈黙し、無主の地となった甲信に侵攻した。
次の次を狙う戦略だったのだろうか。
西では羽柴秀吉が柴田勝家を倒して実質的に信長の遺産を相続した。
が、家康は西を無視した。秀吉になんの反応も示さなかったのだ。
家康の内心に関する興味深い洞察がある。
この物学びのいい男(家康)のおかしさは、これほど信玄を怖れながら若いころから信玄をひそかに尊敬していたことだった。
(司馬遼太郎「覇王の家」より)
家康は信玄の民政、軍陣の立て方、平素の心構えまで研究したという。
それに比べて信長や秀吉に対しては冷淡ともいえるほど淡白だった。
家康は信長の同盟者として信長に運命を託し、終始信長にひきずりまわされ、それほどに深い縁をむすんだわりには家康はついに信長の好みや思考法はまねず、晩年も信長という人物についてそれをほめあげたような談話を残していない。
(同上)
秀吉に対してはどうか。
家康は秀吉につかえているときは自分の毒気をいささかもみせず、つねにいんぎんであった。しかしその時期、内々の場で家来たちにひそかに洩らす言葉は、秀吉のあの派手なやりかたに染まるな、ということであった。
(同上)
天正11年(1583年)4月、柴田勝家が秀吉勢に敗れ、お市の方とともに北ノ庄城で敗滅した。
家康はそれを聞き「早い、早すぎる」と絶句したという。
本能寺の変以降、一貫して西の動向を無視していた家康だが、そうもいかなくなった。
内心は冷淡な尾張者の天下人に形ばかりの会釈をしておくことにした。
初花でも贈っておくか。
石川数正を京に御使して、築前守秀吉のもとへ「初花」といへる茶壺を、をくらせ給ふ。
(「徳川実紀」より)
初花は、新田、楢柴と合わせて天下三肩衝といわれる名器だった。
肩衝とは、肩のやや角張った形の茶壷で、これらを手に入れた者は天下を我が物にできると信じられていたという。
しかし、茶の湯に無縁の家康には茶入の名器になんの執着もない。
唐物肩衝茶入 銘初花(重要文化財)Wikipediaより
数正にやらせよう。
家康にとって、数正は外交の切り札だ。
数正の次の大舞台は、羽柴秀吉との交渉だった。
家康は羽柴秀吉のもとへ石川数正を派遣した。
秀吉は大喜びだった。
数正を引見した秀吉は家康の好意に感謝して、数正を大いに歓待した。
おそらく家康の家臣で秀吉に会ったのは、このときの数正が初めてだったのではないか。
秀吉の驚喜は、あるいは演技だったかもしれない。家康を籠絡するための。
秀吉の歓待懇遇ぶりは、数正には経験したことのない自制しきれないほどの悦びだったのではないか。
これも、稀代の人蕩らしの甘い罠の始まりだっかもしれない。
秀吉は、織田信長愛用の名刀「不動国行」を返礼として贈り、初花の返礼とした。
1584(天正12)年3月、家康は織田信雄を援助するという名目で、秀吉と戦うことになった。
小牧・長久手の戦いだ。
このとき、徳川本陣を守っていた数正の部隊の金の馬藺の馬印を遠くから眺めていた秀吉が、見事であると言って、使者を遣わし、
譲ってほしい
という。
数正はそれを贈った。
すると秀吉はその返礼に黄金を届けてよこした。
数正がその旨を家康に報告すると「もらっておけ」という。
さすがに敵将から黄金をもらったといわれることは憚られるので、数正はこれを返却した。
秀吉は人心収攬と離間の策を仕掛けてきた。
彼の常套手段だ。
家康は疑り深い性格では決してなかったが、秀吉の素直な心情から出たものと思うほど無垢でもなかったろう。
この戦いは、外交戦、心理戦の様相を呈していたが、数少ない野戦の場面では家康軍が優勢であった。
しかし、織田信雄が秀吉と単独講和してしまうという意外な展開となった。
家康は、はしごを外された格好になったが、ただでは起きない。
小牧山
石川数正を秀吉のもとに遣わし、
和議の成立に祝意を示す
という体をとる。
それだけのことで、講和というわけではない。
家康の心底が見えるようなギリギリの外交方針だ。
しかし、織田信雄の勧告により、家康の子を養子にしたいという秀吉の申し出を、家康はさらりと承諾した。名目は養子だが実質は人質だ。
家康の鍛錬された理性が、人質は出すがそれだけのことだ、と答えを出した。
家康の次男・於義丸(のちの秀康)が数正の子を伴って大坂に入った。
同年12月のことである。
この間も、これ以後も、徳川家臣団の中に羽柴秀吉に対する方針をめぐって轟々と議論が沸き上がった。
多くは講和反対、於義丸養子の件も数正の弱腰外交によるものだと大ブーイングが起こったのだ。
外交で見るとこの局面では秀吉は「黒船」であり、徳川家の国論は二分される。
日本においては大なり小なりこういう光景は何度も繰り返されている。
おおむね強硬派が優勢で、数正のような現実派は劣勢だ。このときの現実派は数正のみだ。
家康は、竹を割ったように政治決断を満座の前で宣言するでもなく、於義丸養子のことを応諾し、数正が同伴してよろしく取り計らうように、と告げただけであった。
家康は数正に、秀吉とは講和するという指示は与えてはいない。
養子にはやるが国交は断絶したまま、という異常な状況が続くことになった。
数正は、この間、家康に秀吉と講和すべきであることを進言したが受け入れられなかった。
そのことが家臣団に洩れた。
之に由て群臣皆数正を疑ひ、遂に出奔す
(武家事紀)
1585(天正13)年11月13日。
石川数正は突如として岡崎を出奔した。
徳川一国の外務大臣兼防衛大臣兼軍司令官が敵国に亡命したような大変事が起きたのである。
岡崎城 愛知県岡崎市公式観光サイトより