どうする家康③〜数正出奔で変わったもの、変わらぬもの〜 | 天地温古堂商店

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石川数正、出奔。
 
1585(天正13)年11月13日、突然、主君である家康に背いて岡崎城を出奔し、秀吉のもとに走ったのだ。
 

家康と秀吉は、このときまだ小牧・長久手の戦い後の終戦処理が終わっておらず、緊張状態にある。

結束力が異常に固い徳川家臣団にあって、主家を退転するというケースは数正が唯一なのではないか。

 

このとき数正は、岡崎城代であった。
岡崎城下は騒然となった。
敵襲や一揆などに備えて、緊急事態行動マニュアルがあったのだろう。


まず、数正の出奔を知った城番は早鐘を乱打して急を報じた。
岡崎の十二キロほど南にある深溝にいた松平家忠は13日午後10時に急報を受け、ただちに岡崎城に駆けつけ城の警備についた。
 
翌14日午前8時には酒井忠次が吉田(いまの豊橋)から岡崎に駆けつけた。
その他三河の諸将は続々と岡崎に参集した。
 
家康はこのころ、平素は遠州浜松城に常住している。
この急報を浜松城で受けた家康は、このことを信用しなかった。
本能寺の信長なら、明智と聞いて「是非に及ばす」とでも呟こうが、このときの家康は、ただ爪を噛み不機嫌そうだったという。
 
しかし、状況から数正は秀吉のもとへ奔ったことと断定した。それも、数正が我が家を見限ったのではなく、
 
秀吉にたぶらかされているのだ。
 
と思った。
14日浜松を出発して吉田に一泊し、16日岡崎城に入った。
 
そこで家康は次々に指示を発した。
岡崎城に集められていた自領三河・遠江・駿河・甲斐・信濃5カ国からの人質を厳しく監視させるとともに、数正に預けておいた馬上同心80騎を内藤家長に配属させた。
また信州小諸から大久保忠世を召還し、18日岡崎城の修築を命じた。
21日には自ら西尾に赴いて海岸防備の現場を視察。種々の対策を講じた。
 
報に接して2日後、家康はすでに冷静さを取り戻していて、小田原の北条氏直に手紙を送っている。
 
去る十三日、石川伯耆守尾州へ退散候。信州小笠原(貞慶)人質召し連れ候。
上方(秀吉方)申し合わせ子細につき、かくの如き様子と存じ候間、御油断あるべからず候。

 
この手紙によると、家康は数正の出奔の背後に秀吉の手が伸びているとはっきり言明している。
数正が敵の誘いに籠絡されて主君を裏切ったと断定したのだ。
 

徳川家康書状(石川数正出奔を下條牛千代に伝える書状)南信州ナビホームページより

 

 

家康が岡崎に入ってまず命じたのは我が方にいる人質の監視であったのにはわけがある。
数正は自分の家族だけでなく、信州松本城主の小笠原貞慶が人質として家康に差し出し、数正が預かっていた貞慶の嫡子幸松丸をも連れて落去したのだ。
小笠原貞慶とは、本拠を信州松本に置く名族であったが、武田信玄の侵攻に遭い国を失った。その後、庇護者を変え各地を転々としたあと、3年前に家康の家臣となり、故地を回復したばかり。子の幸松丸を家康に人質として差し出しそれを数正が預かっていたのである。
数正出奔によって貞慶も徳川から離反し、秀吉方につくことになった。
 
数正出奔が徳川家臣団に与えた影響は甚大だった。
家臣たちは数正以外に裏切者はいないか疑心暗鬼になった。なかには身の潔白を証明するためにあらためて人質を出す者もいた。
 
数正は、徳川軍団の惣先手侍大将である。
家康は、徳川軍団の戦術・軍法が秀吉に筒抜けになることをはげしく怖れた。
そこで、家康は急遽、甲州を治めている鳥居元忠や成瀬正一、さらに武田遺臣らに命じて武田信玄の戦術・軍法さらに国の法律、軍の命令に関する書類を提出させ、井伊直政ら四天王たちに研究させ審議させた。
 
その結果、井伊の赤備えに見るような武田軍法を取り込んだ徳川軍団を再編成。
二軍団制を八軍団制に拡大増備した。
 
ひとり数正の出奔は、家康の徳川武士団をはげしく揺さぶり、大きなイノベーションをもたらした。

 

 
 武田信玄画像(高野山持明院蔵)  Wikipediaより

 

 

なぜ、数正は出奔したのか。
 
いつも思うが、私たち後世の人間は「当時の現実」を高い建物の屋上から俯瞰している。
数正出奔の明確な理由について、まず本人が陳述していないのでわからない。
ただ、状況証拠ならある。
 
秀吉からすれば、離間の策である。
敵・家康の戦力を殺ぐ、家臣団にダメージを与えるということだ。
秀吉の性格もある。秀吉は無類の女好きであったが、有能な人物も好きだった。
これぞと思う人物には声をかけ、スカウティングした。(いずれも成功していない)
 
徳川家臣団では、本多忠勝、成瀬正成。
上杉家臣団では、直江兼続。
伊達家臣団では、片倉景綱。
 
数正に対しても「外交の場での賛辞や厚遇」、「馬印のおねだり」、「お礼の現金プレゼント」など、もはやわがものにするための口説きに近い。
 
家康にしてみれば、冷遇やいじめの事実はない。
数正には信康を今川から奪還した絶対的なファインプレーがありながら、信康は自刃に追い込まれいまは亡い。また、三河・石川氏の宗家は叔父の家成が継いでいて、数正は分家扱いだ。
これらは瑣末なことで、退転の理由にはならないだろう。
 
家康個人は、数正と同志・戦友にも近い厚い信頼があっただろう。そうでなければ、城代や全権大使、軍団長の役目につけはしない。
 
しかし、公人としての家康はどうだろう。
厄介なのは、多くの三河武士団の総意というものである。
 
元来、三河人は閉鎖的な郷土意識がつよく、また離合集散が常のようにしておこなわれるこの戦国にあってまるで鎌倉期の御家人のように主家への忠誠心がつよく、功利性が薄いが、その半面、風通しがわるく、よく結束した集団にありがちな陰湿な翳が濃い。
(司馬遼太郎「覇王の家」より)
 
さらに小説的に公人家康と三河家臣団を見てみると、
 
数正は家康に対し、
「しばらくは、大いなる者に従うしかござりますまい」
と、秀吉に対して人質を送ることをすすめた。他の老臣は、むろん反対した。まして一般の家士にいたっては、
――いくさに勝って人質を送るばかがどこの国にあろう。
と、人が集まればその話題になり、口々にそういった。(略)
三河衆からすれば、この不条理な講和に反対するためには、ただひとりの講和派である数正を葬り去るしかなかった。

(同上)
 
少し脇道にそれるが、私たちは後世にいる。
私はこれに似た光景を歴史の中で見たことがある。
1905(明治38)年9月に起きた日比谷焼打ち事件だ。日露戦争の講和条約・ポーツマス条約の内容が不満であるとして条約に反対する国民集会がきっかけとなり暴徒化した民衆によって大臣官邸や交番、新聞社などが焼打ちされたのだ。
 
さらに脇道にそれる。
司馬遼太郎は、ポーツマス条約と日比谷焼打ち事件についてこう言っている。
 
たしかに政府は、戦争の真の実情について情報をわずかしか新聞社にわたさなかったことはたしかである。
しかし、たとえわずかな量の情報でも、読み込みによって十分事実を感ずることが出来るのである。要は、真実を知ろうとするよりも、錯覚に理性をゆだねることのほうが甘美だったのである。

(「アメリカ素描」より)
 
さて、徳川四天王の本多忠勝が「われらが殿はハキとしたることを言わぬ人」というように、家康は、数正の進言に対しても、老臣たちの反対論に対しても、はっきりとした見解を示さなかっただろう。
 
家康は、理性で動く。
 
数正の天下俯瞰論も十分理解できる。
むしろ、これが正論だろう。
しかし、公人家康は、徳川家臣団を率いている、と同時に三河武士団共同体の総意の理解者である。総意の理解の上に団結が存在する。
 
ここは数正には悪役を引き受けてもらうしかあるまい。羽柴との一件がひととおりかたづいたら、しばらくの間は後ろに下げさせておく。
そのうち、ここぞというところで数正には前にでてもらう。
 
そう考えていたのではなかろうか。
 
結局、数正出奔のこれといった理由は、よくわからない。私に数正をよく知るところが少ないからだろう。
ただ、秀吉のところの方が楽だったんだろうな、三河の水は合わなかったかも知れないな、と無責任に思うことはできる。

数正にとって、三河退転はよかったのか、どうか。

徳川を去ったことは、三河武士団にとっては許しがたき裏切りであり、受け入れた秀吉にとっては、離間策のコマのひとつだったかもしれない。
 
数正が裏切者を痛感し暗澹とするできごとがあった。
出奔から一年後、あることがあって秀吉は井伊直政を大坂城に招き饗応した。
そのとき、秀吉はむかしの朋輩だからということで、数正を同席させた。
ところが、直政は数正に顔をそむけて目を合わせようともしなかった。
さらに、秀吉がみずから茶を立てて直政をもてなしたときも数正を相伴させたが、直政は傍らの者に向かって、こう言った。
 
ここにいる数正は、譜代の主君にそむいて、関白殿下に従った大臆病者なれば、拙者はこの者と肩を並べ膝をつきあわせることはご免こうむりたい

 

井伊直政像 


また、数正が離間策のコマだったという証言や記録は何もない。
が、結果として、秀吉は彼に和泉国に八万石を与えた。さらに九州や小田原に転戦し、信州松本に転封となるが、秀吉の大名になってからの数正は、ほとんど存在感がない。
 
数正の屋敷の門前に、立て札されそこにこう書かれてあったという。
 
家康のはき捨てられし古ほうき 都へ来てはちりほどもなし
 
落首であった。
むろん「ほうき」とは伯耆守数正のことである。
1593(文禄2)年、朝鮮出兵の際、肥前・名護屋城にて病死。享年61。


いまに遺る国宝・松本城天守は、数正が創建したものである。

 

 

石川数正が創建した松本城 国宝松本城ホームページより