仏たちの流転③〜蜂屋半之丞の一言、家康の深慮〜 | 天地温古堂商店

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六名村の半之丞

と呼ばれる若い武士がいる。
美濃国土岐氏の流れというが、よくわからない。
氏を蜂屋といった。
六名村は三河国岡崎近くの村で、いつのころか松平家に仕え、いま家康に臣従している。
家康よりは4歳年上だ。

半之丞は、戦場にあってはだれよりも俊敏で勇猛で、つねに一番駈けをし一番槍をねらうような男だ。

家康がまだ元康といっていた1560(永禄3)年、今川義元に属して尾張に攻め入り、織田方の丸根砦を攻めた。
半之丞は一番駈けをして丸根砦に飛び込んだとき、胴の震えとともに無意識のうちに体内から

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
死なば極楽
死なば極楽

と声が漏れくるのを感じていた。
半之丞は声に導かれるように、敵を突き殺した。
無名戦士、蜂屋半之丞の初手柄だった。

さて、松平家康の家臣団を二分した三河一向一揆。

集まった一揆勢には、半之丞の姿もあった。
半之丞は、敬虔な門徒であった。

蜂屋半之丞、渡辺守綱は勝鬘寺に、
石川数正の父・康正は本證寺に、
鳥居元忠の弟・忠広は上宮寺に、
本多正信、榊原康政の兄・清政は酒井忠尚とともに上野城にいた。
松平昌久の大草城、松平家次の桜井城、三河三ヶ寺は岡崎城の南郊にあり、これら一揆勢は南から北上して岡崎城の南の守り上和田城を攻めた。

 


勝鬘寺 岡崎おでかけナビウェブサイトより


上和田城は、大久保忠俊ら大久保党が守っている。彼らは全員が日蓮宗であり、一致団結していた。

家康はこれを救うべく自ら出陣した。
上和田城を包囲した一揆勢の目の前に、馬上の家康が出現した。

主君家康が目の前に現れたことで、上和田城から大久保勢がいっせいに吶喊して決死の出撃。
一揆勢はひるみ退却を始めた。

家康麾下の武将水野忠重は、敵中に蜂屋半之丞を発見した。

半之丞、絶対に逃さんぞ

水野が言葉をかける。

半之丞は足を止めると片頬に笑みを浮かべ、

水野ごときがどうして、おれにかなおうか。
討ち取ってくれよう。


と言った。
半之丞は槍を地に突き立てて、手に唾を吐きかけ、かかって来いという。
が、水野は足を止めて近づくことはできない。
半之丞はそれみたことかと、再び、落ち着きはらって退却した。

すると、家康自身が馬で駆けてきて、

半之丞よ、引き返してこい。

と言葉をかける。

半之丞はどうしたか。

半之丞は後ろも見ずに一目散に逃げ出した。
猛然と逃げる半之丞。

それを松平金助なる者が、取り逃がすものかと追い詰めると、半之丞はハタと足を止めて振り返った。

このとき叫んだ半之丞の言葉を、家康は後々まで覚えていた。

おれは殿だから逃げたのだ。
おまえ相手に逃げるものか。


蜂屋半之丞 Wikipediaより 

そう言って引き返し、松平金助を五、六度も突いた。
そして松平金助がひるんで退いたところを、半之丞は槍を投げて、松平金助を突き斃した。

一向一揆側についたとはいえ、殿へは忠義のまことがある。殿だけには槍を向けるわけにはいかない、ということだ。


半年間の戦いのすえ敗色濃厚となった一向一揆は、家康に和議を申し入れ、家康はこれをのんだ。

和議と決まり半之丞は、まっさきに家康に降参している。
半之丞の妻の実家である大久保氏の口添えがあったともいう。
家康は半之丞の罪を許した。

半之丞だけでなく、ほとんどの刃向かった家臣を許した。
家康は一揆勢を許し、以前の守護不入の権利を認めるという起請文まで書いている。
家康の圧倒的な譲歩だった。

許された家臣たちは帰参し、ある者は三河を去った。
そして、寺々に兵はいなくなった。

家康はこれを待っていた。
譲歩はこのためだったのだ。
早速、家康は空誓たち寺側に改宗を迫ったのである。

当然、寺側はこの難題に激しく反発したが、あとの祭り。一揆勢は解散してふたたび立ち上がることは不可能であった。
この世の主従は一代限りのもの、しかし、阿弥陀如来の本願は永遠のものだと、三河を逃れた門徒たちは、播州や摂津石山の寺内町へ去っていった。
そこでまたこの世の為政者と戦うのだろう。
空誓はいずこかへ逃亡した。

いったん和議に応じ、武装解除を終えてから改宗を迫る経緯は、晩年の大坂の冬の陣を想起させる。
家康はすでに老獪であった。

結局、本願寺派の寺の多くは破却され、野に帰した。その後20年間、三河での宗教活動が禁止となったのである。
蓮如が根づかせた結社である講が、城郭である寺が、城下町である寺内町が、三河から消えた。
門徒たちの営みも消え、彼らは他国へ流れていくか、元の地侍や国人や、それらを寄人とする百姓にもどるしかなかった。
その頂点には家康が立つ。
そんな新しい三河になった。
1567(永禄7)年2月のことである。

蜂屋半之丞が攻めた吉田城 Wikipediaより


半之丞の一生は短い。 

その年の6月。

家康は、今川領に軍を進め、三河吉田城を攻めた。
半之丞は元来、俊敏で勇猛だ。
このときは、帰参早々で功にはやっていたのかどうか。
半之丞は先陣にいて、本多忠勝らと一番槍を争った。しかし、忠勝にわずかに遅れた。

半之丞よ、もうとっくに敵と槍を合わせているというのに、わぬしはどうしたのだ。

後ろから味方の声がする。
半之丞はこれを聞いて、

他人が一番槍をしたというのなら、自分は一番太刀をめざして、刀で斬り合うまでよ。

と言い捨てて、刀を抜いて敵の中に飛び込んで、たちまち二人をなぎ伏せた。

そこに、鉄砲の名手・河井正徳という者がいて、いまこそとばかりに鉄砲を構え撃鉄をひくと、銃弾は半之丞に命中。
半之丞は深手を負ったが、従者の助けを借りて、なんとかその場所から退いたという。

しかし、傷が癒えず六名村の在所で死んだ。
年26歳。

それだけといえば、それだけの人生だった。

蜂屋半之丞の居城・六名城跡 家康の足跡In東海webサイトより

家康はその後、織田信長と同盟をむすび、三河を平定。
徳川氏に改め徳川家康となり、従五位下・三河守にも任官された。

半之丞のことは世間から忘れられた。
家康自身も忘れていた様子がうかがえる。

あるとき家康が鷹狩りに出たとき、鷹が迷ってある民家に飛び込んだ。
家康の従者が鷹を追ってその民家に入ると、そこに一人の女がいた。
女は従者に険しい剣幕でいう。

なにゆえ寡婦の家に無断であがりこむのじゃ。

これに驚いた家康が女の身許を確かめさせると、蜂屋半之丞の未亡人だという。
半之丞との間には男子はなく、6歳の女児がいるだけであった。

一向一揆のとき、わしを見て一散に逃げた半之丞か。

家康にとって三河一向一揆は、門徒との戦いというよりもっと深刻な現実があった。

家康は、自分の家臣たちが敵方についたことに大きな衝撃とトラウマをいまでも拭い去れないでいたのである。

彼らは、代々の主君である自分への忠義を捨て、信仰を選んだのだ。
一揆が終わり麾下に復したとはいえ、家康としては堪えがたきを堪える気持ちであったろう。
彼ら帰参した家臣にしても、いちど離反した家康の信頼を取り戻すのは容易なことではないはわかっていただろう。


雨降って地固まるとのことわざ通り、三河は地侍連合の盟主ではなく、全家臣団に直接君臨する君主国となった。
上は家老・侍大将から下は足軽小者まで、家康のために、より骨を砕き身を細くして働く義務を負ったのだ。


問題は家康のトラウマのことだ。
家康は本当に家臣たちを信頼したか。
おそらくは否だろう。
トラウマとは、深甚なる家臣への懐疑心のことだ。
この一向一揆で家康は、家臣の心がいかに脆いかを痛感した。


多くの家臣が、領地という利害よりも信仰を選んだ。
人は利害よりも信仰で動く。

家康についた者たちは、領地が欲しくてついたわけではあるまい。
家康個人の人間力に魅せられて従ったのだ。


半之丞は、一向一揆に与しながら、家康だけには槍を向けようとしなかった。
武を行使して敵を倒す者として、半之丞の行動は矛盾に満ちていて、非難されるべきものだろう。
しかし反面、門徒として三河松平家に背きはするが、家康個人には決して背く気はないということでもある。


おれは殿だから逃げたのだ。

家康はそう理解したのではないか。
鷹狩りで蜂屋未亡人と出会い、半之丞を思い出したとき、家康個人への忠義が信仰に勝っていたことを発見したのではないか。

半之丞は忠義の象徴になり得る。


と思ったのではないか。

記録には、のちに家康は蜂屋未亡人に旧領を与え、鳥居氏の男子を半之丞の娘婿にして家を継がせた、とある。
その後、半之丞の家系は幕府旗本と仙台藩士として続いている。


半之丞の一生はわずか26年のため、武功もさほどない。
家康はその後、離反トラウマを克服し、天下無双の団結を誇る徳川家臣団を作り上げた。

厭離穢土
欣求浄土

の御旗を陣頭に掲げ、床几に鎮座する姿は、従う者にとっては阿弥陀如来のようでもあった。

厭離穢土欣求浄土 姉川合戦図屏風 大澤寺ウェブサイトより

姉川
三方ヶ原
長篠
伊賀越え

幾多の苦難を乗り越えて、ついに小牧長久手で覇者羽柴秀吉と戦い、引き分けるところまでこぎつけた。

止戦にはなったが、秀吉との国交は断絶したままだ。
家康はひたすら政治的に沈黙している。

徳川家臣団の多くが、断交のまま割拠独立を主張。場合によっては再戦も厭わずの勢いだ。
その中で、秀吉側との外交を担当する石川数正のみは、家康に講和を進言していた。
講和とは臣従をさす。

が、そのことが家臣団に洩れた。
 
之に由て群臣皆数正を疑ひ、遂に出奔す
(武家事紀)

 

今年9月27日に亡くなられた江原真二郎氏の石川数正は名演技だった NHKオンデマンド『徳川家康』より


1585(天正13)年11月。
石川数正は突如として岡崎を出奔した。
秀吉のもとへ奔ったのだ。

岡崎は騒然となった。

結束力が異常に固い徳川家臣団にあって、主家を退転するというケースは数正が唯一であろう。

このときの家康は、ただ爪を噛み不機嫌そうだったという。

数正出奔が徳川家臣団に与えた影響は甚大だった。

家臣たちは数正以外に裏切者はいないか疑心暗鬼になった。

なかには身の潔白を証明するためにあらためて人質を出す者もいた。

家康はこのとき、思ったはずだ。

一向一揆のときと同じではないか。
わしはあのとき、阿弥陀仏に勝ったはずだ。
秀吉は強者といえ、たかが人ではないか。


家康は居城の浜松を出て岡崎城に入り、すばやく諸々の指示を与えたあと、夜になって寝所に本多正信を呼んだ。

ここからは、少し想像の翼を広げてみたい。

正信を呼んだのは密談するためである。

正信は、1563(永禄6)年の一向一揆のとき一揆方について家康と戦っている。
その後、諸方を転々とし、やがて帰参を許され、いまでは重臣となり暮夜寝所に呼ばれるまでになった。

弥八郎よ、一揆のころを思い出したぞ。

正信はすぐにその意味を理解した。
このたびの石川数正は、かつての自分のようだったからだ。
一揆のとき、数正は門徒であったのを家康と同じ浄土宗に改宗して忠義を誓ったのである。

彼奴も生きていれば、45か6になっていようか。惜しい男をなくしたわい。

家康がふとついたつぶやきだった。
さすがに正信は誰のことはわからなかったが、一揆方だった人物だろうかと察した。

以前おぬしに信玄公二十四将があり、わが家中もそれらに勝るとも劣らぬ将がおることを話したことがあったな。

御意。たしか十六将だったかと。

ひとり忘れておった。
それを数正出奔で思い出したのよ。
一揆に一味したおぬしに話すのがいちばんはやいと思って、呼んだのじゃ。


それはどなたで…。

わからぬか。

左様、わかりませんな。

『おれは殿だから逃げたのだ。』
これでわからぬか。


正信はしばらく瞑目して考え込んでいたが、眼を開くのと同時に、

半之丞、蜂屋半之丞でございますか。

と言った。


そうじゃ、彼奴は阿弥陀仏をひたすらに信じる者であった。彼奴にとってわが旗の下に集まった者はすべて敵であった。
しかし、ただわしのみは別儀であった。
あの戦場でわしと向き合ったときの半之丞の顔を、わしはいまでもよく覚えておる。
幼な子が、身も世もないほどに別れた親を慕うような悲しい顔であった。


と、いった。

大河ドラマ『真田丸』の本多正信(演・近藤正臣)と徳川家康(演・内野聖陽) スポニチANNEXウエブサイトより

今後わが徳川は、生き残るにはきわめて難しい状況になるだろう。
心にないことを口にしなければならないこともあるはずだ。
理に合わぬ命令もあるだろう。その先が死かもしれぬ。

半之丞は心は仏に奪われておったが、仏の子ではなく間違いなくわしの子であった。
功薄く、富もなく、名もないまま、あたら若くして死んだ彼奴の、主君一人を慕う心根がいまのわしには何よりも懐かしくいとおしい。


家康は、そう思ったのではなかろうか。

弥八郎よ。
十六将のことについて命じておく。
石川数正に替えて最後の一人は、蜂屋半之丞にせよ。


徳川十六神将

徳川家康に仕えて江戸幕府の創業に功績を立てた16人の武将を誉めたたえた呼び名である。
徳川四天王や大久保忠世、鳥居元忠、服部半蔵など功績赫然の武将のなかに、蜂屋半之丞貞次がいる。

蜂屋半之丞は、あのひとことによって、徳川家臣団の団結と忠誠のシンボルとして、神将となったのである。
そうとしか考えられない。

ただ、半之丞のことだ。

さても不思議なことよ。
なにかの間違いなのではないか。


と、泉下で首を傾げているに違いない。

〈この項おわり〉

 

東照宮十六善神之肖像連座の図(絵・歌川芳虎) 刀剣ワールド浮世絵webサイトより

 

【参考】

寛政重脩諸家譜

現代語訳三河物語(大久保彦左衛門) 

歴史読本「徳川家康と十六神将」(新人物往来社)

尻啖え孫市(司馬遼太郎)

街道をゆく夜話(司馬遼太郎)

司馬遼太郎の風音(磯貝勝太郎)

司馬遼太郎と宗教(週刊朝日MOOK)