仏たちの流転②〜家康、絶対神・阿弥陀仏との戦い〜 | 天地温古堂商店

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あなたは必ず救われます。
絶対に。


そう蓮如は、いう。

それはどういうことだろう。

はじめて庶民が、
「世界観」
というものを知ったおどろきと衝撃、それが、戦国期におけるこの宗旨の爆発的な隆盛になった、といっていい。
浄土真宗は、ふつうの仏教とはちがい、その本質においてキリスト教に似ている。


阿弥陀如来を絶対神(ゴッド)とすれば、いわば一神教であり、その教えは、
「救われる」

という考えがモトになっている。
いわゆる仏教というものは、自分で自分の力によってサトリひらいてはじめてホトケになれるのであって、
「絶対すくわれる」
という考えかたはない。
浄土真宗では、絶対救われるのである、悪人も善人も。
(略)


その八世の蓮如が戦国期が出るにおよんで天下にひろまり、証如、顕如とつづいて、いまや、天下最大の勢力のひとつになっている。
(司馬遼太郎「尻啖え孫市」より)


戦国期に大旋風を巻き起こす端緒となる蓮如は、きわめて特異なキャラクターだ。

蓮如は僧でありながら多妻多子の人だ。
わかっているだけでも5人の妻と27人の子供がいる。
男子の多くは寺を開き、女子の多くは真宗僧の妻となった。

蓮如の手法は傑出している。
晩年、まだ閑寂としていた大坂を訪れ、この地に坊舎を建てることを命じた。
これが日本最大の寺内町・石山本願寺の始まりである。


石山本願寺推定地碑(大阪城二の丸) Wikipediaより


濠や塀で都市を囲い、私設警察を持ち、なかにはさまざまな職業の人々が働いている。
こうした寺内町は河内、伊勢、大和、北陸などにもあり、これら宗教都市のネットワークで経済が回ってゆく。
さらに蓮如は、多くの子や孫をこれらのあちこちに配置してゆくのだ。
蓮如の拡大戦略は、十分に世俗的で政治的だ。

蓮如はこんなことも言っている。

仏教を学び考えきわめる者に仏法をさかんにした者はいない。

親鸞への大いなる皮肉にも聞こえるし、世俗的で政治的だからこそそれができるのだ、と言いたげでもある。

事実、布教を担当するグループが地域をこえて移動し、講を開き法を説いた。
講には信仰心があってもなくても参加は可能だ。
蓮如は、寺に客が来たら熱燗を出し、暑いときには冷や酒を出してもてなしたという。
これが親鸞だったら、君らは君らで生きていかれよ、とすげなくいうだろう。
彼は絶対そんなことはしなかった。
寺の人間に、しばしば「なんだ、あの対応は!」と叱り飛ばしていたという。

ある人は彼の本質をトリックスターと評しているから、どこか魅力的な人たらしな、人の心を動かすような人物だったのではなかろうか。

蓮如の曾孫に、空誓がいる。
桶狭間の戦いが終わり一年もたたないころ、前任地である近江から、三河にやってきた。

 


三河一向一揆の本拠の一つ・本證寺 Wikipediaより 


三河には松平家康がいる。
桶狭間の戦いまでは元康と名乗っていた20歳の若者、のちの徳川家康だ。
家康は今川義元からもらった元の偏諱を捨て、今川氏の羈絆から解放された。

松平氏は、親氏に始まる。
その子、泰親が岩津城(岡崎市)を本拠地とし、岩津松平氏を称した。
これが松平氏の本家である。

その子、信光には子が多く、嫡子以外は長じて、

竹谷、安城、形原、大草、宮石、五井、深溝、能見、大給

などの地に分かれて拠った。
本家の岩津は、信光の孫・親長のときに今川氏に攻められ滅んでしまう。

以後、分家は十八松平とか松平七人衆などと呼ばれ、互いに連繋し、ときに対立しながら続いてゆく。

松平家康の家は安城松平である。
血筋からいけば松平の中の分家の一つであったが、祖父の清康のとき、周囲を攻伐し岡崎を中心に西三河をほぼ平らげた。

しかし、25歳のとき突然家臣に殺される。
その子、広忠(家康の父)は、今川氏と織田氏の強勢のはざまで、ときに攻めて敗れ、ときに侵入を許し、弱体化した上に、家臣に殺されてしまう。

松平の他の分家やその配下の地侍の中には、広忠から離反する者もおり、若き家康の足元は必ずしも盤石ではない。

家康が拠って戦った岡崎城 Wikipediaより


そんなときに、トリックスター蓮如の血統が三河に来たのである。

作家・司馬遼太郎氏と劇作家・山崎正和氏の対談で、講の話が出てくる。
三河でも見られた情景だったろう。

山崎氏はいう。

蓮如が講というものをつくりまして、(略)いままでの自分の身の上など心配してもらえなかった連中が、身の上話をすることで、カタルシスを味わうことになります。

カタルシスとは、不安や不満、イライラや悲しみなどネガティブな感情を口に出すと苦痛が緩和され、安心感を得られることをいう。

講は、農民たちが仕事が終わる夜に開かれる。

灯火があるから、夜集まってワイワイやって、『それじゃ、いっちょ革命でもやるべえか』ということになったかもしれないんですね。

と、山崎氏。

司馬氏は、

縦社会で暮らしてきて、(略)小百姓として暮らしてきたけれども、隣村のなんとかという地頭の下百姓と、おれ、おまえの仲になれた。(略)
おれたちの社会ができたということです。


阿弥陀如来はありがたいっていうのは二十分もやればそれでいいんで、あとは『おのれの身の上話を聞いてくれて』とか、『おまえのとこの年貢はいくらだ』とか…。


そうやって講が、そこに集う者たちの情報や不安不満を共有する場になったことは間違いない。
さしずめこれがドラマだったら、講のなかに一揆を煽動する反家康のスパイが潜入して暗躍したりするのだろう。

 


木造阿弥陀如来立像 文化遺産オンラインより


惣は、浄土真宗とりわけ蓮如の本願寺教団の寺を中心に自治自衛を始めてゆく。

三河では、

本證寺
上宮寺
勝鬘寺

が、本願寺教団の拠点であった。
これらも寺というより城郭であった。
有事となれば一千は籠ることができるだろう。
空誓は本證寺にいて三河を統轄している。

家康の父・広忠のとき、この三ケ寺は、守護不入の特権を与えられていた。
守護不入とは、守護大名やその地域の権力者による徴税や犯人逮捕のための立ち入りを拒める権利のこと。
免租と治外法権ということである。
これがミソだ。


南無阿弥陀仏の六字名号(蓮如筆・本願寺所蔵) Wikipediaより

三河一向一揆の起きたきっかけは、こうだ。

三河上野城主の酒井忠尚に、ある嫌疑がかかった。
今川氏と内通したらしい。

酒井忠尚は、松平家の筆頭家老であり、家康様か忠尚様かといわれるほど威勢があった。
家康が東の今川氏と断交し西の織田氏と結ぶことを、酒井忠尚ら重臣三人に相談した。
家康は今川氏からは独立したものの、織田氏ともまだ締盟はしていない。
二人は賛成したが、忠尚だけは今川氏との断交に反対。
顔色を変えて席を立ち、これ以後、家康に出仕しなくなったのだ。

これを知り家康は、家臣に命じて上宮寺から籾を借りさせようとした。
しかし真宗門徒たちは、守護不入の約束を破ったとこれを拒絶した。
このため、家康は上宮寺からむりやりに兵糧米を奪い取らせた。


これは御仏に対する挑戦である。

本證寺の空誓は蜂起を決意し、家康打倒の檄を四方に飛ばし、門徒を召集した。
三河三ヶ寺には、続々と門徒たちが集まった。

酒井忠尚もこれに応じ、上野城で挙兵。
家康に反旗をひるがえしたのだ。

三河国東条には、高貴の武将がいた。
吉良氏である。当代は義昭。
先祖は足利氏一門で、

御所(将軍)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ

とまでいわれた名門である。
その吉良義昭も一向一揆に与し挙兵した。

まだある。

松平信次
松平家次
松平昌久

という松平氏一門からも反逆者が出たのだ。
彼らはそれぞれの居城に拠って一揆勢とともに戦った。

一向一揆という宗教戦争の一方で、門徒でない家康排斥をもくろむ勢力も立ち上がり、三河国全土が戦場となった。

家康の本拠地・岡崎城、一族あげて反一揆で固く団結した大久保一族の拠る上和田城を一揆方の諸城が取り囲むように点在している。


三河一向一揆勢力図 三河すーぱー絵解き座webサイトより

黒は一揆方、城は家康方

三河武士には、特有の苗字の者が少なくない。一揆方の武士の苗字をあげると、こうだ。

本證寺には、石川、本多
勝鬘寺には、渡辺、本多、成瀬
上宮寺には、安藤、鳥居
上野城には、酒井、鳥居、本多、榊原

この中には石川数正、榊原康政、鳥居忠吉、内藤信成の身内がいる。
また、上野城の本多とは、のちに家康の謀臣となった本多正信のことだ。本多正信は、酒井忠尚の与力として一揆側に加わったと見られている。

こうして見ると、三河一向一揆は家康の家臣たちを、いや三河国を真っ二つに分けた戦いだったことがわかる。

この場合、家康にとって宗教との戦いは深刻で厄介なものだ。
近代以降の戦争のように、彼我の装備に格段の差があった場合、最新装備を有する側が軍事的には圧倒的に有利だ。
しかし、室町から戦国期にかけての戦いは基本的には肉弾戦だ。
自動火器がない時代に、たった一人で数十人を斃すことは不可能に近い。
兵数や装備もほぼ互角の場合に勝敗を決めるのは、士気の高低だといえる。


死兵

すなわち死を恐れない兵、死を覚悟した兵は、強い。

戦いは勝つために行うものだ。この頃はまだ、忠義だからといって犬死にする時代でもない。相手に殺されては何の意味もない。
だから、死兵と戦う者は腰が引ける。その結果、大きな被害がでてしまう。

三河一向一揆において、一揆勢の先頭にはいつも、

南無阿弥陀仏

六文字の幟と、

進む者は極楽往生
退く者は無間地獄

と大書されたむしろ旗が掲げられていたという。
死兵とはこういう者たちのことをいうのであろう。

家康は、門徒たちが喜んで命を預けた絶対神・阿弥陀仏と戦うことになったのである。

 

大樹寺御難戦之図(月岡芳年筆) Wikipediaより