異色の大河ドラマ『獅子の時代』②〜加藤剛が手にした遺書〜 | 天地温古堂商店

天地温古堂商店

歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

明治の〝陰〟を描いた異色の大河ドラマ『獅子の時代』。

つねに理不尽に虐げられる人々のなかに共にいて、その抑圧に対して敢然と立ち上がるアンチヒーロー・平沼銑次を菅原文太が演じた。

そして、もう一人の主役・苅谷嘉顕を加藤剛が演じている。

本稿は、苅谷を演じた加藤剛自身が『獅子の時代』について語ったことを紹介したい。

 


Amazonウェブサイトより

その前に、しばらく劇中の苅谷嘉顕(架空の人物)を通じて脚本家の山田太一が描いたことを追ってみたい。

苅谷は、薩摩藩からイギリス留学に派遣され、西洋的な

自由
平等
人権
国民主権

といった理想を仕入れて帰国した。
苅谷は純で真っ直ぐな男だ。
理想と明治政府の現状を見くらべて、これでは駄目だと世の中を変えようとする。

明治16年夏、伊藤博文(キャストは根津甚八)ドイツより帰国。
翌年3月に政府は憲法起草機関の制度取調局を発足させ、伊藤は憲法担当参議となった。

伊藤はいう。

私は憲法を生涯の大事業と考えている。

政府であれいかなる高官であれ憲法に違反したときは裁かれてしかるべきである。

そして、制度取調局の官僚となった苅谷は、伊藤から民間の憲法についての議論がどのようなものか調査を命ぜられる。

苅谷は、民間の憲法案が自分の理想とする国民の自由と権利が盛り込まれていることを知る。

伊藤は、苅谷が持ってくる民間の憲法案に目を通した。
伊藤が手にした憲法案の冊子には五日市憲法の文字も見える。

集会の自由

思想の自由
政府を転覆し新政府を建設する権利、すなわち革命の自由だ。

 

 

ドラマでは、伊藤と苅谷でこうやりとりされた。

〈伊藤〉植木枝盛とかいうたな。

〈苅谷〉はい。自由党幹部の一人です。

〈伊藤〉よくできている。いまだかつて世界の憲法で革命の自由を認める憲法があったかね。

〈苅谷〉ないと存じます。

〈伊藤〉参考になります。大いに刺激を受ける。ご苦労さまでした。

と言って立ち去った。

 

苅谷嘉顕を演じる加藤剛 NHKアーカイブスより

伊藤の本心では、憲法はドイツのそれを基本としていた。
苅谷はそれとは正反対の植木枝盛の憲法私案を見せたのだ。

かつては幕末の反権力活動家、志士だった伊藤も為政者となれば、こうした国民の自由と権利を認める憲法私案はいまは有害と考えた。


ドラマの終盤にあって苅谷の役回りは、国権か民権かの嵐のなかで、文字通り身を引き裂かれる明治の相剋そのものであった。

苅谷は、官の立場にありながら民間の憲法私案を調査していくうちに、その理想の素晴らしさを知ったのだ。
しかし、憲法私案に対する伊藤の肚がよくわからない。

やがて、苅谷はふたつの出来事で伊藤の本性を知ることになる。

苅谷が調査した自由民権家たちが官憲によって逮捕されてゆく。
一方で、華族令が施行された。
公家や大名、維新の元勲などに公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の爵位を与え華族とし彼らは多くの特権を持つに至る。
苅谷からすれば、四民平等から徳川の世への逆戻りだった。

 


自由民権運動の風刺画 日本史事典.comウェブサイトより


苅谷は伊藤博文を訪ねる。
いよいよ苅谷と伊藤は、憲法をめぐって対峙することになった。

ドラマは、国民の自由と権利を苅谷に仮託させることで、伊藤にそうでない〝現実〟を語らせ、苅谷を挫折させる。

〈伊藤〉
民間の意見に失望した。
どれもこれも日本の状況を棚に上げた理想論ばかりだ。
日本の国民はまだ自由や権利を持つほど成熟しておらんのだよ。
そんなことを許したら国中収拾がつかなくなる。


〈苅谷〉
政府が独裁政治をするということですか。


〈伊藤〉
むろん議会はつくる。意見も聞く。

しかし、最後の決定権は議会にはやらん。

議会の許しがなければ何もできんでは政府は手も足も出ない。いちいち反対派の顔色を見て動くのでは国はどこへ行くのかもわからん。

〈苅谷〉
では最後の決定権は?


〈伊藤〉
天皇にある。
むろん、いちいち陛下は判断をお下しにはならん。
実質は政府と官僚に決定権はある。
日本はまだ国民の意見を聞きながら政治をする時代ではない。


〈苅谷〉
私は国民はそのように愚か者ばかりとは思いません。


〈伊藤〉
むろん、俺も思わん。
しかし主権を国民にやるほど利口だとも思わん。
まだまだ少数の人材が国を引っ張っていく時代だよ、苅谷さん。


〈苅谷〉
私が望んでいた憲法はそのようなものではありません。
徳川家を公爵にし、国民の口を封じて独裁するなら、明治維新はなんの意味がございましょうか。
私はそのような憲法には根底から反対でございます。


〈伊藤〉
なら、辞めなさい。私の信念は変わらない。


〈苅谷〉
いいえ、お考えください。戊辰のいくさは何のためにございましたか。そのような憲法では徳川の世と少しも変わらんではありませんか。


〈伊藤〉
いきなさい。
これ以上私の下にいても無駄というものだ。


自由民権運動の激化と衰退は、理想を追い求め自ら書いた憲法私案とともに官から抹殺される苅谷嘉顕にダブって見える。

 

五日市憲法 Wikipediaより


1981年11月22日に自由民権百年全国集会が横浜市の神奈川県民ホールで開かれた。

全国から集まってきた研究者、教員、学生、一般市民は約4000人。
参加者たちは、自由民権運動の歴史的意義について論じ合った。
なかでも参加者が激しい拍手を送ったのは、演壇に並んだ、秩父事件など自由民権期に各地で起きた事件で亡くなられた民権家の遺族約70人に対してだったという。

加藤剛は、この集会に招かれ講演をおこなっている。
この前年に放送された明治維新後の民権運動の時代を描いた『獅子の時代』の主演だったことからオファーがあったのだ。

山田太一は、

いくらこういう人物を書こうと言ったって、それを演ってくれる俳優さんいないな、と思えば書けない。

と言っているが、加藤剛はこのドラマで苅谷嘉顕を演じ、苅谷嘉顕を生き、その後、苅谷嘉顕を背負った人生を送ったことがわかる。

以下は、その講演録である。

たとえば、ここ神奈川県民ホールにこうして立っておりますのが私でなく、私の役・苅谷嘉顕でありますなら、情熱的薩摩男児の彼は、きっと、怒涛のように、嵐のように、炎のように、みなさまの前で熱く激しく語るでありましょう。

一年間、喜怒哀楽をともにしてきた彼、私の分身である苅谷嘉顕が、血潮にまみれた憲法草案を高々と掲げ、官憲の刃の林に囲まれて非業の死を遂げてしまった以上、はからずも彼の遺書というものを、この私が手に入れてしまった形となりました。

憲法草案こそが、彼の血まみれの遺書であります。
私は、その遺書の重さから逃れることはとうていできなくなりました。

その結果、私は人間の本来的自由と権利、そして民主主義について、考えずにすごすことはできなくなり、それが今日、私がこうしてここに立っている理由でございます。

もちろん苅谷嘉顕は架空の人物であり、当然のことながら、ついぞ日本の歴史に名を残すことはありませんでした。
けれど、架空とはけっして非実在ということではなく、おそらく当時の日本の草の根として大勢実在したであろう、実在したにちがいない、いや、実在しなければならない人間という意味であります。

歴史の全体像を個人像に結晶させるのが、山田太一さんのような劇作家、そして私たち俳優のドラマの仕事といえましょう。
山田さんが明治を架空の人物によって、一年間書くと伺っただけで、私は躍りあがって押っ取り刀で駆けつけて、ドラマのつくり手のメンバーに名乗りをあげました。
(略)
ドラマをお書きになるについて、山田さんは歴史上の人物はきっぱりと主人公の座からはずされ、有名な偉人、英傑たちは時代の副主人公にまわされました。
私はここにドラマ作家としての明確な歴史観を見る思いでした。

歴史は一つの終わりがかならずしも一つの始まりではない。
つらい過酷な時間帯というものがあります。
自由民権の時代はきっとその時間、日本の歴史の傷だらけの青春時代であったにちがいありません。


一世紀前の自由民権の歴史を掘り起こし過去をよみがえらせる作業がいま、歴史の専門家をまじえた一般市民の手で全国的に粘り強く進められていますが、掘り起こすと数えきれないほど並ぶ、ものいわぬ明治の柩に、まだ花は飾られていません。
それどころか、掘り起こすにつれて、たくさんの無縁仏たちが静かに目を開き立ち上がってくる姿を、いまもって見るのです。
(略)
だいたい、正史ーーお上の正しい歴史の側から謀反人・暴徒・反逆者と呼ばれる人間の一生のほうがドラマのなかではるかにおもしろいのは、本物の人間のたたかいの人生がそこにあるからでしょう。
私にとってドラマとは歴史から抹殺されてきた人間の側からの、一種の弔い合戦だと思えてなりません。


生きかはり死にかはりして打つ田かな

という名句がありますが、生きかわり死にかわりつつ人間は歴史を進めていくという平凡な真実に、私は勇気づけられます。


ドラマのなかで森有礼に
「夢が美しすぎたから死んだ」
と評された苅谷嘉顕は、『獅子の時代』のラストでこう語ろうとして、その途上、命を絶たれました。
彼がしまいまで語ろうとして果たせなかった夢を、もう一度ここに薩摩訛で語り、この「自由民権百年全国集会」におけるつたないご挨拶にかえようと思います。

志半ばにして刺され、鹿鳴館のダンスパーティーの華麗なワルツの流れる階段に倒れ伏ましたから、彼はもはや二度と語りません。
したがって、このセリフも中途で途切れますことをお許しください。

国民は愚か者にあらず。
もし国民の声を聞かず、政府官僚が独裁、独善に陥れば、必ず国は破局に向かう。
願わくば、日本国憲法は国民の自由自治を根本とした……願わくば、日本国憲法は国民の自由自治を根本とした……願わくば……。

 

 

 

 


【参考】
大河ドラマ『獅子の時代』完全版 DVD(NHKエンタープライズ)
加藤剛『こんな美しい夜明け』(岩波書店)