自由は土佐の山間より〜日本国憲法の源流〜 | 天地温古堂商店

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終戦から、8か月余り後。
1946年5月3日、新憲法が発布された。
大日本帝国憲法が、日本国憲法に生まれ変わった日だ。

 

帝国憲法と日本国憲法の間には断絶がある。

とすれば、日本国憲法の源流はなんだろう。
GHQだろうか。
日本の歴史の中で、溯ることはできないだろうか。

 

国会前庭 三権分立の時計塔

 

日本国憲法誕生については、帝国から日本国への稿で少し紹介したが、当時の幣原喜重郎内閣が新憲法草案作りに遅疑している時、痺れを切らしたGHQが政府に草案を示して、流れはかわった。
新憲法の概要は、それで決まったのだ。

 

GHQが憲法草案を作るにあたり、大いに参考にしたというのが、鈴木安蔵ら憲法学者、大学教授、ジャーナリスト、評論家などで作る憲法研究会が1945年12月26日に発表した憲法草案要綱だった。
 
国民主権
言論や宗教の自由
男女平等
平和思想の確立と国際協調の義務

 

などを定めたもので、これは、明治期の自由民権運動や大正デモクラシーの影響を受けていると鈴木安蔵は語っている。

GHQの法規課長は、「この憲法草案に盛られている諸条項は、民主主義的で、賛成できるものである」と評価していて、GHQが政府に示した憲法草案の大きな参考になった可能性がある。

 

つまり、鈴木らの憲法草案要綱がいまの私たちの憲法のひとつの原型と言っても過言ではなかろう。

では、鈴木安蔵は何をもとに憲法草案要綱を作ったのだろう。さらにそのもとはなんだろう。
たどっていくうちに、日本国憲法という大河の源流のひとつにでもたどり着くのではないだろうか。

 

写真 Wikipediaより


鈴木は、戦後、後に初代NHK会長となる高野岩三郎や当時の日本を代表する言論人らと憲法研究会という民間団体を作った。
そこで、この憲法草案要綱がつくられた。

 

鈴木は、1945年12月29日、新聞記者の質問に対し、起草の際の参考資料に関して、

 

明治15年に草案された植木枝盛の東洋大日本国国憲按や土佐立志社の日本憲法見込案など、日本最初の民主主義結社の人々が書いた私擬憲法を参考にした。

 

と言っている。

 

むろん、鈴木らが参考にしたのは米国やソ連の憲法など他の支流もあるが、私擬憲法が源流のひとつであることは確かである。

 

私擬憲法。

 

この言葉、歴史の教科書にはあったはずだ。

 

山川 日本史小辞典にはこうある。

 

明治前期に民間でつくられた憲法の私案の総称。
政府関係者が個人的に作成したものも含む。
1873(明治6)年頃から政府関係者によってつくられはじめ、1879年以降には各地の民権派有志による立憲政治の学習会が開かれ、私擬憲法が盛んにつくられた。
現在50編近く発見されているが,1881年のものが最も多い。
いずれも立憲君主制を定め、国民の権利・自由を認めている。
イギリス流議会主義をとるもの交詢社憲法案、三権分立のもとで国民の権利・自由を大幅に認めたもの植木枝盛の日本国国憲案,立志社の日本憲法見込案、ドイツ流君権主義を定めたもの山田顕義の憲法草案などがある。

 

鈴木安蔵は、植木枝盛の東洋大日本国国憲按を参考にした、と確言していた。

 

植木枝盛(うえきえもり)。

 

幕末に土佐藩士として生まれた。
植木直枝(小姓組格、4人扶持24石)の嫡男というから、坂本龍馬のような郷士ではなく、れっきとした上士だ。
藩校致道館に学び維新を迎える。
維新の時はまだ11歳。
その後、征韓論の政変に触発されて1875(明治8)年、19歳で上京。
慶應義塾の福澤諭吉に師事した。
東京日日新聞(現毎日新聞)などを舞台に、自由民権運動を展開。
国会開設を要求し、民権運動に生涯をかけた。

 

枝盛が作ったのが、『東洋大日本国国憲按』である。
帝国憲法が発布された1889(明治22)年より8年も前の1881(明治14)年に完成させている。
西郷隆盛の西南戦争のわずか4年後のことだ。

 

中身は当時ではきわめて急進的で、鈴木安蔵も参考にしたという通り日本国憲法に近い。

 

その中で圧巻なのは、国民の権利が34項目に及んでいることだ。

 

第42条 法の下の平等
第43条 法律の外でも自由の権利を犯されない  
第45条 死刑の禁止
第49条 思想の自由
第50条 信教の自由
第51条 言論の自由
第53条 出版の自由
第54条 集会の自由
第55条 結社の自由
第58条 旅行の自由
第59条 学問の自由
第65条 財産の自由
第66条 私有物没収の禁止
第68条 請願の自由

 

驚かされるのは、抵抗や革命の権利すらも認めているこどた。

 

第71条 政府官吏圧制をなすときは日本人民は之を排斥するを得。
政府威力をもって暴逆をたくましうするときは、日本人民は兵器をもってこれに抗することを得。

 

第72条 政府ほしいままに国憲に背き、ほしいままに人民の自由権利を残害し、建国の旨趣を妨ぐるときは、日本国民は之を覆滅して新政府を建設することを得。

 

4年前、西郷が政府に政策転換を訴えて武力による反乱を起こし、賊徒として鎮圧された。
枝盛はこの政府のなしざまを不正義と見たのだろう。
だから枝盛は、西郷のごとき正義がもし政府の違憲専制によって成しえなかった場合、合法的に行えるよう憲法に革命権としてうたったのではなかろうか。

 

「鹿児島新報田原坂激戦之図」小林永濯画 写真 Wikipediaより

 

 

一方で、枝盛はこの民権運動を庶民に広めるため、コマーシャルソングを作っている。
1890(明治13)年、民権数え歌を作詞し、銚子の民謡「大漁節」の節に乗せた。

 

一つとせ~ 人の上には人ぞなき 権利に変わりがないからは コノ人じゃもの
二つとせ~ ふたつとない我が命 捨てても自由のためならば コノいとやせぬ
三つとせ~ 民権自由の世の中に まだ目のさめない人がある コノ哀れさよ
四つとせ~ 世の開けゆくその速さ 親が子供におしえられ コノかなしさよ
五つとせ~ 五つに分かれし 五大洲 中にも亜細亜は半開化 コノ悲しさよ
六つとせ~ 昔思えば亜米利加の 独立したのもむしろ旗 コノ勇ましや

(二十番まで)

 


しかし、帝国憲法が発布当日に施行された保安条例によって、私擬憲法の検討と作成は禁じられてしまった。
これにより、全ての私擬憲法が政府に持ち寄られて議論されることはなく、帝国憲法に直接反映されることはなかった。
 

 

枝盛は、板垣退助や中江兆民、馬場辰猪と思想を共にし行動した。
彼らは全て土佐人だ。

 土佐から多くの民権運動家が出た。


幕末、薩長同盟に尽力した土佐の中岡慎太郎は、板垣と盟友関係にあった。
中岡慎太郎は、庄屋の家に生まれた。父は中岡小伝次という。

 

中岡慎太郎が4歳のとき、土佐の庄屋間で秘密の談合があった。父・小伝次もその中にいた一人であろう。
1841(天保12)年、土佐郡、吾川郡、長岡、高岡、香美、安芸郡の庄屋が秘密に談合して密約を結んだ。

 

天保庄屋同盟である。

 

それによると、地上に生えている作物は大名の宰領するところだが大地は天子(天皇)のものである、という。
時はまだ江戸時代。天子というのは明治帝のような絶対君主ではなく、公という観念であろう。


さらに百姓は王民である、という。
庄屋はその王民を守る職で、もし武士が王民と喧嘩をし、これを成敗しようとして庄屋に引渡しをいってきても、庄屋はこれを引き渡してはならない、とする。

 

第12代将軍・徳川家慶の治世で、世は江戸の泰平の中にある。
驚天動地の出来事だ。


つまり、天保庄屋同盟の意味するところは、こうだ。

 

天子という当時、無か空に近かった一点を、架空ながら論理の頂点に置くことによって、人民は平等になる。

そうすれば、理論の上で、将軍も大名も武士も一瞬にして消滅し、自分たち庄屋は王民を預かっているのだから天皇の官なのだいうことになって、一君万民思想という、実質、平等思想が出現するのだ。


天保庄屋同盟の思想の中に、自分たちの存在を、封建体制に対して元来自立の存在だという意識が、明快に出ている。

江戸時代にこのような自立平等思想が土佐の山間地方に出現したのはどういうわけだろう。


この土佐の精神的風土は、武市半平太の土佐勤王党結成を経て、大政奉還より、版籍奉還、人民平均の理(明治3)年へと連なり、さらに立志社創立(明治7)年から、板垣退助や植木枝盛の自由民権運動に至る思想的系譜を編みあげてゆく。

 

 

自由ハ土佐ノ山間ヨリ発シタリ

 

1877(明治10)年の立志社の機関誌「海南新誌」の創刊号に掲載された植木枝盛の文章だ。

 

日本国憲法の国民主権と自由の保障は、こうして歴史の流れを溯り、天保庄屋同盟という自立平等思想にまでたどり着いた。


歴史は、過去の事実の全てを包含している。
先人が編み上げてきた歴史を埋れさせることなく、知ることをやめず、語り継ぐことが何よりも重要だと、切に思う。

 

 


 五日市憲法草案 | NHK for School1881年(明治14年)、政府は10年後に国会を開くと約束。国民のあいだから憲法の案が次々と発表された。五日市憲法もそのひとつ。国民の権利などが書かれていた。リンクwww2.nhk.or.jp

五日市憲法草案は、昭和43年に東京都西多摩郡五日市町(現あきる野市)の旧名主・深沢家土蔵から発見された私擬憲法の一つ