異色の大河ドラマ『獅子の時代』①〜菅原文太、反骨の原点〜 | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

いまはもうそんなことはないが、むかしの(といっても1950年代だが)娯楽は映画が主流で、日本映画界には銀幕のスターが存在した。

高倉健
鶴田浩二
石原裕次郎
萬屋錦之介
勝新太郎
三船敏郎
菅原文太

彼ら銀幕という天上界の人々の多くは、当時は地上界であるテレビドラマへの降臨をかたくなに拒んでいた。

やがて、家庭にテレビが普及し皇太子ご成婚、東京オリンピックなどを契機にテレビが娯楽の主流となり、映画は斜陽化する。
それでも任侠映画は、1970年代半ばくらいまでは命脈を保ってはいた。

前稿では、銀幕のスターの一人、鶴田浩二のことにふれた。
本稿では、初めてのNHK出演が、大河ドラマの主演だったあの人について書きたい。

菅原文太(1933〜2014)

ドラマは、『獅子の時代』(1980)。


作品は原作のない完全なオリジナルで、脚本は『岸辺のアルバム』『男たちの旅路』の山田太一(1934〜 )。
プロデューサーは近藤晋(1929〜2017)。

このふたりは、NHK土曜ドラマ『男たちの旅路』コンビでもある。

 

『獅子の時代』のタイトルバック NHKアーカイブスより

大河ドラマの歴史は、新しいチャレンジの歴史である。
『黄金の日日』『草燃える』に続く新しい大河は、幕末明治の無名の人間だという。

1867年のパリ万博で出会った会津藩士・平沼銑次と薩摩藩士・苅谷嘉顕。
ふたりとも架空の人物。
平沼銑次を菅原文太が、苅谷嘉顕を加藤剛(1938〜2018)が演じた。

大河ドラマ『獅子の時代』はなにが新しかったのか。

薩摩は時代の勝者、会津は敗者だ。
新しい明治の光と影をこの二人を通して描こうというのがねらいだ。

近藤氏はそのあたりのことを、こう言っている。

明治に関する文明開化論は、二つに分かれています。

明治の政府があったから日本の近代化があったのだという論

と、

あのような急速な政治があったから後の軍閥ができ悲劇が起ったのだという論

です。
明治を描いた小説はたくさんありますが、いずれもどちら側かに寄せて描かれたもので、両者を描いた作品はありません。
私はこの両者を同時に描きたかった。

この両者が明治を織りなしたからです。
適当な原作がない以上、オリジナルしかありません。

そこで実力者山田太一氏以外にないと思ったのです。
(大原誠『NHK大河ドラマの歳月』より)


制作の近藤氏は、山田太一脚本の『男たちの旅路』を成功させたことで、

山田太一で大河をやりたい。

と強く思ったのではないか。

 

近藤晋プロデューサー(2013年撮影) NHKアーカイブスより

苅谷は薩摩から出てきてイギリスに留学したエリートで新政府の官僚として出世してゆく。
一方の平沼銑次は時代遅れの下級武士として生き、最後は反政府運動の闘士になってゆく。
この二人の人生を交差させることで、明治時代の明暗を重層的に描いている。


苅谷は理想を追い求めるあまり政府とあいいれず官憲によって命を奪われ、銑次は旧会津藩士として理不尽な仕打ちにあいながら、反政府活動に挺身し秩父困民党に与する。

とくに『獅子の時代』は、大河ドラマとしてはタブー領域ではないかと思えるほど、ストーリーに反体制・反権力的な部分がある。

いわゆる、明治時代の〝陰〟の部分だ。


明治維新が、どれだけ多くの血が流れ、無辜の民の犠牲の上に成り立ったか、そしてその後も続いたかを視点に置いたドラマである。

近藤氏はいう。

今度はハッキリと史実にいない人物でやるということをまず思ったんです。
それで僕なりに調べていたら、渋沢栄一の日記に行き当たりました。
彼は西洋に使節団として行っているのですが、その時の日記に正使は誰で、副使は誰で、賄いがこの人で…と名前が書いてある。
一番最後に『その他、小者二名』というのがあったんです。
それで、『これだ!』と思いました。
その二人は名前すらわかっていません。
それでも記録にちゃんと残っている。(略)
その時に考えた設定というのは、一人は会津の小者で、剣の腕は立った。でも、結局、使者の中に入るような格でもないし、教養があるわけじゃないし、家柄もいいわけじゃない。不良剣士みたいなものですが、ただ用心棒のためだけに行ったというように考えました。
(春日太一『大河ドラマの黄金時代』より)


一方、山田太一氏は。

現実の人なら、事実が縛りにもなるけどよすがにもなる。
でも架空の主人公で、しかも明治から西南戦争となると出来事の調べがついていて、架空の人物を滑り込ませるとなると誰かの業績をパクらなきゃいけない。
これが困りましたね。
明治維新のマイナスを書こうとしたので陰惨で、大河で何やってるんだって言われて(笑)。
でも当時のスタッフがひるまなかったので。


山田氏は確信的に、明治の暗部を書こうとしていたことがわかる。

平沼銑次役として、菅原文太に出演を依頼することになった。

俺は絶対にやらない

と、菅原は出演を拒んでいる。
しつこく何度か会ううちに、近藤氏は菅原に企画の発端となった渋沢栄一の日記を見せた。

<近藤>これです。

<菅原>これですって、何も書いてねえじゃねえか。

近藤氏は、『その他、小者二人』の部分を指さして、

その小者の一名をやってほしいんです。

黙り込む菅原。
そのかたわらにいた菅原の妻が「それ、面白いんじゃないの?」という。

<菅原>本当にこれやるのか。どうやってこれで脚本を作るんだ。

<近藤>この人間のことは、いくら調べたって新しい情報が出てくるわけはありません。

ただ言えることは、この人はあの時代に確実にいました。

ただ、どういう人かは誰も分からない。

つまり、この人物を主人公に持ってくると言うことは、史実をやるんだけれども、これまでの史実とは違うものをやることでもあるんです。

そこに僕は賭けているつもりです。

<菅原>そういう話なら面白いな。

菅原文太、初大河出演決定の瞬間だ。

 

『獅子の時代』で共演した加藤剛と菅原文太(右)ZAKZAKウェブサイトより

もう一人の主演は苅谷嘉顕役の加藤剛だ。
加藤は、苅谷についてこう語っている。

私が演じた苅谷は、薩摩藩の藩命でロンドンからパリに渡り、パリ万博を体験して維新の日本に帰ってくるという特異な体験をした武士です。
『大日本国憲法』の草案作りをとおして、より良い日本を作るために奔走しますが、なかなか思いどおりにはいかない。
その苅谷の苦悩が現代の日本に繋がっていると思います。
明治の時代に生きた武士の悩みは現代の青年の悩みに共通するものがありますね。
(植草信和『山田太一、加藤剛が語る異彩を放った大河「獅子の時代」』より)


苅谷は、維新後、正義と理想のために周囲の官吏たちとの軋轢が絶えず、とうとう最後には官吏をやめ憲法私案を書いて、官憲から危険視され、その非情な刃によって斃れた。

加藤剛自身、戦争体験者であり、身内を戦争によってなくしている。
憲法への思いも強い。

平和憲法は人類が到達した最高の英知であり、亡くなった人々の夢の形見だと思います。

と彼は言っている。

劇中、苅谷は繰り返しいう。

国民は愚かものばかりにあらず。
もし国民の声を聞かず政府官僚が独裁独善に陥れば必ず国は破局に向かう。
願わくば日本国憲法は国民の自由自治を根本とした……。


苅谷の声だけが、いまも耳に残る。


日本のパリ万博使節団 Wikipediaより 


大河ドラマの歴史は、新しいチャレンジの歴史であるように、『獅子の時代』第一回〈パリ万国博覧会〉の冒頭のシーンは、パリのリヨン駅だ。
パリ万博に参加するために日本を出発した徳川昭武ら使節団が列車を降りてリヨン駅を行進するというシーン。

ロケは実際の駅で撮影された。
周囲のフランス人たちは、エキストラではなく全て当日に本当に駅を利用していた乗客たちだ。
正装した徳川昭武役は中村幸二(いまの中村芝翫)。
高松凌雲役の尾上菊五郎や平沼銑次役の菅原文太も、一行の中にいる。

平沼銑次は、会津藩の下級武士。
幕末維新においては賊軍となり、敗者となった。
銑次はその後、つねに弱者の味方、そして貧しい者、抑圧される者に寄り添って生きていった。

 

大河ドラマ『獅子の時代』平沼銑次役の菅原文太 NHKアーカイブスより


銑次はどちらかといえば、訥弁だ。
学問があるわけではなく難しい思想も〝べき論〟も口にしない。

会津藩の処世訓である〈什の掟〉、

ならぬものはならぬ

が銑次の背骨に通っているようにみえる。

維新後に薩摩の苅谷嘉顕と再会したときには、

どこを歩いても官軍をうらむ声ばっかりだ。
会津を攻め、箱館をおとし、多くの命を奪っておぬしらは我をとおして…それを引き換えに世の中ひっくり返したことを忘れんな。


といい、秩父事件で困民党と挙兵して、やがて劣勢となり隊を解散を決めたときは、

皆は当然なことを請願した。
それを忘れるな。
お前らを賊と呼ぶ者もおるかもしれん。
そんなことでくじけちゃならねえ。
お前らは正しいことをした。
侍の明治維新は終わった。
これから百姓町人の明治維新だ。


銑次は、石に彫り込むように言葉を吐く。

これは菅原文太だからできることだ。

銑次の明治は苦難の連続だった。
藩士として会津戦争に参加したあと、箱館にもわたり、医師・高松凌雲を助けて、敵味方双方の看護に当たった。
箱館も陥ちて会津に帰ると、父とともに、下北半島の斗南に流され、言語を絶する辛苦を嘗める。
そして無実の罪で樺戸集治監(かばとしゅうちかん)に収監されたのだ。

樺戸集治監!

社会を乱した凶悪犯や政治犯たちは、ただ徒食させることは許されない。
ロシアへの備えの意味からも開拓が急務である北海道に送り込んで、開墾や道路建設などにつかせるのがよい。

1878(明治12)年、内務卿・伊藤博文による建議書が提出され、北海道に重罪犯を収容する監獄を設けられた。
自由民権家など明治政府に反抗した政治犯が多かったという。

 


樺戸集治監開庁当時の獄舎 炭鉄港デジタル資料館ウェブサイトより

 

伊藤博文の建議書にもあるように、このころの政府は集治監を囚人を更正させる施設というより、凶悪犯たちを僻地である北海道に島流しにし、囚人を労働させて利益を生み出させるというものだった。

囚人に北海道の原野を開墾させて、鉱山労働に従わせ、刑期が終わったあともその地の開拓に従事させた。

また、厳罰を与え、二度と罪を犯さないようにさせる、という考えが一般的だった。

 

囚人に対する待遇は、極めて過酷だった。

北海道という極寒の地にいるのにもかかわらず、当初は足袋の使用は許可されなかった。

凍傷により死に至る囚人、発狂する囚人、事故死する囚人が続発したという。


銑次は、ここに投獄された。

収監された囚人たちには、経験したことがない厳しい冬が待ち構えていた。
典獄(刑務所長)は、囚人に手袋を支給すべく申請したが、政府はこれを却下した。
その様子もドラマ化されていた。
ただ、銑次はここを脱獄したが…。

まさに、明治の〝陰〟だ。

菅原は当初、制作サイドに対しても厳しかった。

正義の味方ぶるつもりはないが、大部屋もないことがとても奇異に映った。
映画なら撮影所に1人部屋、2人部屋、5人部屋、大部屋とあって、仕出し(エキストラ)の連中だって畳の1畳か2畳はもらえてゴロッと横になれる。
役者は肉体労働。
休める場所、スペースは全員に与えられてしかるべきだ。


と、主張したのだ。
弱者のためにNHKという権力にあらがう銑次を地でいくようだ。

『獅子の時代』は冒頭のシーン(リヨン駅の行進)も衝撃的だが、最終回のラストシーンもきわめて印象的だ。

侍の明治維新は終わった。
これから百姓町人の明治維新だ。


銑次は、秩父で増税や借金苦にあえぐ農民・困民党の武装蜂起に加わってゆく。
史実に有名な秩父事件だ。
政府は鎮台兵を出動させ、困民党は解散、鎮圧された。

 

秩父事件を描いた映画『草の乱』のワンシーン MOVIE WALKER PRESSより

困民党の一隊を率いていた銑次は、隊士の農民すべてに隊の解散をを告げ、村に帰させる。
やがて、独りになった銑次は、「自由自治元年」と大書したのぼり旗を手に持ち、鎮台兵の群れのなかへ斬り込んでゆく。

銃弾に撃たれてハチの巣のようになったのぼり旗だけが地に打ち捨てられ、銑次の姿はどこにもない。


最後は、銑次の疾駆する姿が映し出され、語り手のナレーションが重なる。

やがて日本は日清戦争に突入、日露戦争への道を歩いてゆく。
そのような歳月のなかでいくどか銑次の姿を見たという人があった。
たとえば、栃木県足尾銅山鉱毒事件の弾圧のなかで、
たとえば、北海道幌内炭鉱の暴動弾圧の最中で、
激しく抵抗する銑次を見たという人がいた。

そして噂の銑次はいつもたたかいあらがう銑次であった…。

銑次は、生きているのか、死んだのか…定かではない。
むろん銑次はフィクションだから、史実としては彼の生死など意味はない。
ただ、どこにでもいつの世にも銑次のごとき者がいるのだという意味を込めて、こう結んだのであろうと思う。

幕末維新から明治時代前期。
好むと好まざるとにかかわらず、勝者と敗者、強者と弱者が生まれるなかで、銑次はつねに後者の側にいた。
そして、つねに勝者や強者にあらがう者として生きた。

それを明治の〝陰〟とよぶには語弊があるかもしれないが、そんな大河ドラマは、あとにも先にも『獅子の時代』だけなのではないか。

ちなみに、菅原は後年、

『獅子の時代』の平沼銑次役と『仁義なき戦い』の広能昌三役がもっとも印象に残っている。

と語ったという。

大河ドラマ『徳川家康』を演じた俳優の滝田栄は、共演した石坂浩二に
 
大河ドラマをやったら10年は引きずる。滝田君、家康も10年は消えないよ。

と言われ、げんにその通りだったと言っている。
本人に確かめたわけではないが、平沼銑次を演じ切った菅原もきっと同様だったにちがいない。

とくに、東日本大震災以降は、俳優業を離れて〝抗い(あらがい)〟を始めた。

まず、都会を離れ地方に移住して無農薬農業を始めている。

農薬、化学肥料、放射能と、どこの土も何かに汚染されている。自分だけではどうしようもないよ。
それでも、子どもたちは新しく生まれる。
だから俺は無農薬農業を続けるんだ。
小さな抵抗だけどね。


本人の言である。

原発問題や特定秘密保護法などの政治的な問題では、積極的に取材を引き受け、今の日本社会に警鐘を鳴らした。
亡くなる1ヶ月前の選挙応援では、

政治の役割は二つあります。
一つは、国民を飢えさせないこと、安全な食べ物を食べさせること。
もう一つは、これが最も大事です。
絶対に戦争をしないこと。


と説いている。

か弱き者のためにあらがい続けた平沼銑次は、秩父の奥深い峠に消えた。
おそらくは菅原文太の本質なのだろうが、その後の彼の人生に、平沼銑次の生き方が大きく影響したのではないか。

 

晩年の菅原文太 日刊ゲンダイウェブサイトより

最後に、菅原のほほえましいエピソードをひとつ。

パリでのロケで、フロックコート姿の苅谷役の加藤剛と、髷に二本差しのサムライ姿の銑次役の菅原の決闘シーンがあった。
たまたま居合わせた日本人観光客たちは、テレビでなじみの加藤をみつけて、口々に加藤の名前を呼びかけた。
菅原には声がかからなかった。

テレビってすごいね。
やっぱり加藤君ってテレビに出てるから、あれだけ人気があるんだね。
映画にしか出てこなかった俺のことは誰も知らねえ。


菅原は言ったという。

それからしばらく経ったスタジオ撮影のときのこと。
撮影の合間に菅原がNHK近くのレストランに食事に行くとき、NHKを見学する女子学生の集団が居合わせていた。

彼女たちは菅原を取り囲み、

銑次さーん!

と黄色い歓声をあげながらサインを求めてきた。

のちに、菅原はディレクターに言ったという。

俺はテレビをバカにしていて、これも東映から言われたからしょうがなくて出ようかと思っていた。
お前らも悪いやつじゃないだろうから、一緒にやって楽しけりゃいいやと思ってやったけど、実はテレビのよさというか怖さを俺は知らなかった。
こんなに女学生に取り込まれたのは初めてだ。
テレビに出てよかった。




『獅子の時代』オープニング曲

『獅子の時代』主題歌

「OUR HISTORY AGAIN」

ダウンタウンブギウギバント




【参考】
春日太一『大河ドラマの黄金時代』
西崎千史『菅原文太さんが生前に語っていた俳優引退の理由と「小さな抵抗」【没後5年】』AERA dot. ほか

吉村昭『赤い人』(講談社)