前回の続きである。

 

道頓堀から心斎橋を経て歩くこと約40分…

御堂筋 の約半分にあたる本町付近までやってまいりましたが、ここでは阪神高速道路の下をくぐって交差します。

 

     

 

この界隈は、元々繊維関係の卸問屋などが並ぶ一角でしたが、1970年頃にこの阪神高速と併せて 中央大通 を建設するために立ち退きとなったため、その救済策として作られたのが 船場センタービル でした。

 

※大阪中心部の幹線道路は南北が「筋」、東西は「通」と言います。 例/御堂筋・谷町筋・あべの筋/千日前通・南港通

 

     

 

すなわち、ご覧のように高速道路の下に無理くり作られた造形は大都市を表すものとして有名ですが、現在も繊維関係のお店やレストランなどが入居していて、それなりに賑わっているようです。

 

 

 

更に北上しますと、左手に田舎の百貨店を連想する古い建物が目に入りますが、こちらは 大阪瓦斯ビルヂング でございます。

 

     

 

その名の通り 大阪ガスの本社 が入る建物ですが、大阪中心部の歴史を少しだけ紐解いてみますと、明治以降は和歌山に向かう 紀州街道を拡張した 堺筋 しかメイン道路が無かったのです。

 

しかし、昭和初期にこの御堂筋が地下鉄とセットで新たに開通したことにより、百貨店をはじめとして大企業の本社などがどんどん集積され、当時の最新かつモダンな建物を次々と建設したことで、その一部が今もこうして残っているのでした。

 

参考ブログ→

※なぜ堺筋と呼ぶのか? → 中心部船場から堺へ出る道だったことに由来。

 

 

 

そして、ここまでまいりますと歩道に何気に佇むオブジェをはじめ、心斎橋までの賑やかさと対照的な雰囲気を醸し出していて、いささか商都大阪には相応しくない印象もするのですが…

 

     

 

木漏れ日から漏れる色どりが演出する都会のわずかな空間は、まさに砂漠の中のオアシスのような気がしましたし…

 

     

 

一本路地を入ると、これまた古民家やレトロな建物が残っているのも興味深いのです。

 

     

 

 

 

さて、更に少し歩きますと、どこからか笛や太鼓のような音が聞こえてまいりました。

 

     

 

よくよく見ますと、近くの 少彦名神社 で神農祭が行われているようでしたが、祀られているのは 「すくなひこのみこと」 という神様で、 我が国の医薬と健康の祖神 として敬われていますから、それゆえ付近の道修町(どしょうまち)などには今も製薬会社や薬問屋が多く集まっている地域でもあるのです。

 

 

 

で、今日はたまたま年に一度の大祭があるようですので少し寄り道をしてみましたが、道中には露店が軒を連ねていました。

 

     

 

ええ感じでございます!

 

まあ、今風のベビーカステラなんぞの店も多くあったのですが、こちらは懐かしの 手打ちレトロパチンコ に…

 

     

 

老人が店番をする輪投げって…

 

     

 

もうこんなん、昭和丸出しで違う意味でテンション上がりまくりましたで、兄貴よ!

 

ところが、露店を見ながら歩きつつ門前まで辿り着いたものの、長蛇の列でしばらくは参拝が難しいようなので、またのの機会に訪問することにして引き返します。

 

     

 

 

 

さて、本来の御堂筋まで戻って再び歩きますと、ほどなくして淀屋橋駅に到着しましたが、ここでは相当古くから土佐堀川に浮かぶドロ船のような飲食店はまだ健在のようでした。

 

     

 

更に進みますと、これまた役目を終えた ミャクミャク様 が、大阪市役所の前で寝転んでおりましたが、現在はクリスマス仕様に変更されているようで、いわゆるプレーンなミャク様の最期の姿になってしまいまいしたが、更に市役所の隣には堂島川が流れています。

 

     

 

すなわち、ここ大阪は「水の都」ゆえ 八百八橋 といわれるほど橋が多いのですが、その中でも堂島川に架かるこの大江橋は、そのレトロな造形と古めかしい街灯が特徴で、まさに大阪を代表する橋のひとつといっても過言ではなく、この散策のクライマックスに相応する 一幅の絵 のような光景が眼前に広がります。

 

     

 

     

 

 

     

 

さて、ここまで約2時間弱で10000歩ほど歩いてまいりましたが、この先で道路は二手に別れまして、真っすぐ行けば 阪急百貨店 に、右に行けば新御堂筋に繋がります。

 

     

 

と言うことで、これで 秋の御堂筋ぶらり散策 は終了するのですが、ここで少し脱線をしまして、かつてお初天神近くにあった 廃墟のようなビル 跡地の裏手に潜入してみました。

 

 

 

 

1970年の大阪万博特需を狙って、当時は大阪の繁華街でビルの建設ラッシュが続いたのですが、途中でトラブルが発生する事案もあってか、長らく建設が中断されたビルここにあったのです。

 

参考ブログ→

 

もちろん、現在はその廃墟ビルも無くなり、跡地には「アパホテル&リゾート梅田駅前タワー」が君臨しているのですが、その裏手の一部に戦後間もない頃に建てられたであろうバラックが少しだけ残っているのてす。

 

     

 

もちろん、人ひとりがやっと通れるほどの通路しかありませんが、勇気を振り絞って進んでみますと…

 

     

 

営業されているのかどうなのか?

 

     

 

こちらは、東南アジアの下町に似た感じですが…

 

     

 

ほんまに強烈です!

この僅かな一角だけを切り取りますと、あたかも戦後間もない頃を彷彿とさせる雰囲気が漂っていました。

 

おわり

 

「収穫の秋」と言われ、その自然の恵みである農作物の収穫に感謝する 新嘗祭 を控えた過日…。

 

     

 

観光地などは連休によって大賑わいの様子でしたし、私としてもどこかへ 紅葉見物 でも出掛けたいんだけれど、ここのところ売上が全く芳しく無いので、無い袖は振れぬとばかりに内心忸怩(じくじ)たる思いがしていました。

 

しかし、さほど遠くへ行かずとも紅葉ならぬ 黄葉(こうよう) であれば楽しめるスポットが大阪にはありますので、今回はそちらに皆様をお連れしようと思います。

 

 

 

 

と言うことで、スタートは 大阪ミナミの萬田 ではなく…?

 

     

 

ミナミの道頓堀 からスタートいたしましょう!

 

     

 

ウインドショッピングがてらぶらぶら散策するのであれば、一本お隣の「心斎橋筋商店街」が良いんだけれど、今回はあくまで秋を肌で感じる 黄葉の散策 ですので、これより御堂筋をゆるりと徒歩で北上してまいります。

 

     

 

しかし、11月と言うもののまだまだ暖かい日があったりするので、イチョウの黄葉は今ひとつ早い印象が否めませんか、それでも日中のポカポカ陽気は散策するのにもってこいの天候でございます。

 

 

 

少し歩きますと 道頓堀川 を渡ります。

 

     

 

ご存知、一本向こうの道は大阪ミナミを代表するスポットでございまして、この日も観光客らで相当混雑しているようでしたが、こちらはそこそこの人出ですからゆるりと進めるものの…

 

一帯は昨年頃より、元々あった車道5車線から3車線へと改良されたため、それによって 歩道がずいぶん拡張 されたことで至ってスムーズに歩けるのですが、その反面ドライバーらにとっては渋滞するスポットとして敬遠されているのも現実なのです。

 

     

 

と、ほどなくして 大丸百貨店心斎橋店 が見えてまいりました。

 

     

 

時は戦前の 大大阪の時代!

 

当時は斬新だった「ヴォーリズ建築」として竣工したものの、惜しくも1945年3月14日の 大阪大空襲 で上階が焼失し、戦後は進駐軍に接収されたという目まぐるしい歴史を持つのが手前の旧館でして、、現在も当地の老舗ランドマークとして不動なき地位を保っています。

 

     

※黒崎そごうメモリアルより引用/右が大丸

 

 

 

続いて、更に北上して交差する長堀通りを渡ります。

 

     

 

かつてはその名の通り「お堀」だった訳ですが、現在は地上が主要幹線であるものの、地下には クリスタ長堀 という誠にバブリーな地下街がありまして、これは負の大阪時代に建設された負のハコモノに他ならず、後に破綻したにもかかわらず現在も細々と経営が続いています。

 

そしてそして、少し見づらいのですが、右側のビルの奥にはかつてSONY商品のショールームだった ソニータワービル があったのですが、若き日に超絶美人だった 東ちづるさん が受付嬢などをされていたのも有名で、いずれのスタッフさんもべっぴんさん揃いだったため私も足しげく通った思い出が蘇ります。

 

     

 

 

 

さて、ここを越えますと一気に閑散としてまいりますが、実はそれまでの商業ゾーンから一転、この先は ビジネスゾーン へと入りますので、周りの建物なども一変するのです。

 

     

 

世界的な有名ブランド店もあったりしますが、ここから先は本来の5車線の戻りますので、銀杏(イチョウ)の木々も増えて色付きも良いような気がします。

 

     

 

ほどなくしますと、左手に 難波神社 が見えてまいりましたので、前途の安全を祈願すべく鳥居をくぐることに…。

 

     

 

ところで、この地域から先は 船場 という地名でございまして、「ぽぉ~~!」のギャグでお馴染みの船、場太郎…

 

     

 

いや、また間違いました。

その名の通り、大昔に船着き場が多数あったことに由来しているのですが、後に大坂城の城下町として形成が進み、現在は大阪屈指のビジネス街となっているのです。

 

 

 

そのためか、休日ともなると人影も少なく閑散としていますから、秋空の下で色付く 黄葉 は一層のまばゆい輝きを放つのでした…。

 

     

 

つづく

     

イライラするなぁ~~~!

ほんまに、何がイライラするかと言えば 開かずの踏切 ですわ!

 

     

 

 

もうね…

朝の時間が無いときなんか、矢印消えたから もう開くな? と思った瞬間に反対の矢印が付いたりしまんねんで、ほんまに!

 

    

 

まあ、交差する道路は鉄道の敷地を通らせてもらっている以上、こちらとしても偉そうなことは言えませんが、この 時間的ロス は全国的に見た場合に相当の損失が出ているんじゃないでしょうか?

 

 

 

ところで、踏切の警報機が鳴り出すタイミングって「いつ」なのか知ってます?

 

     

 

例えば、あまり列車の通らない地方ですと、いわゆる 鳴り出す接点が一箇所 ありまして、この位置はスピードの速い特急などに合わせて決められているのです。

 

     

接点を通過すると鳴り出す。↓↓↓

 

     

 

これは、構造がシンプルという利点があるものの、接点を特急に合わせているので、よしんば踏切近くに駅があって停車する普通列車が来たとしますと、接点通過→駅に停車→踏切通過と、下手すれば 3分以上も待たされたりする のです。

 

国鉄時代と申しましょうか、私もよく利用した阪和線でも昭和50年代頃まではこの一箇所システムでしたので、特に駅に近い踏切では大渋滞を引き起こしていましたから、その打開策として長居、我孫子町、百舌鳥などは駅近くに 歩行者用の陸橋 が設置されました。

 

     

 

 

 

ところが、現在の都市部の鉄道では、JRですと ATS-P形 というシステムなどが完備され、要は列車の種別などによって鳴り出すタイミングをずらすことで少しは解消したと思うのですが、どうやら鉄道事業者によってその考え方が大きく異なるようでした。

 

 

 

例えば、駅近くで歩行者も多く終日渋滞が絶えない 南海高野線 三国ヶ丘駅横の踏切 を見てみましょう。

 

     

 

まず、下り列車で三国ヶ丘駅に停車する普通列車の場合、南海ではおおむね ホームの中ほどまで列車が達した時に鳴り出します ので、恐らく「接点」はこの辺りと思われます。

 

 

     

 

ちなみに、こちらの動画で拝見しますと、警報機吹鳴から遮断機が降り切るまで 約25秒 で、下り列車単体の場合は遮断機が上がるまでの待ち時間は およそ1分ほど といったところでしょう。

 

関連する動画↓↓↓

 

 

 

 

次に、似た条件として JR堺市駅横の踏切 を見てみましょう。

 

     

 

こちらは、交差する道路が7時~21時まで自動車進入禁止で自転車や歩行者のみですが、先の南海と比較しますと 踏切の待ち時間が倍以上に長い のです。

 

前述の通り、踏切の接点は通過する特急と、駅に停車する普通列車で位置が異なるのですが、特に下り列車の場合は南海と大きく違っていて、何と浅香~堺市の中間に接点があるため、一度閉まってしまえば 2~3分踏切が開かない のです

 

 

     

 

要するに、駅間を走行→減速→停車→発車の順ですし、逆の上り方向であっても、恐らく三国ヶ丘駅出発信号機と連動しているようですから、遮断機が閉まっても1分半ほどしてから列車が通過するのです。

 

加えて、これまた南海と違って警報機吹鳴と同時に遮断機が降りてくるので、特に歩みの遅い老人などが「トリコ」になる誠に 危険な踏切 といっても過言ではないでしょう。

 

     

 

※トリコ=踏切内に閉じ込められること。

 

※吹鳴1分程度経過してからの動画↓↓↓

 

 

 

 

そのようなこともあって、この踏切が 開かずの危険な踏切 として認知されたことから、今から15年ほど前に歩行者用 エレベーター設置が計画 され、後に完成しました。

 

しかし、堺市としては建設費に加え後々の維持費も相当かかりますし、そもそも南海に倣って接点さえ移動すれば吹鳴時間は簡単に半減されますし、遮断棒の下りるタイミングさえずらせば安全に渡り切れますから、当時市民の声に耳を傾けてくださる 竹山修身市長 に直談判したところ、JRとの交渉に至りました。

 

     

 

ところが…?

 

     

 

粘り強く交渉に挑んだ堺市に対して、これが普通で 「接点などを変える気はサラサラありません…」 と回答あったと報告がありました。

 

 

 

「♪あぁ~ やんなっちゃった♪」 と申しましょうか、国鉄時代から中身は全く変わってませんな、この会社!

 

     

 

事なかれ主義と申しましょうか、これは安全を盾にとった黙殺とも言えるのですが、ちょっと動いてやれば大いに助かる民が五万と居る未来より、要は接点を移動したところで一銭のゼニも入ってこないので、つまるところは邪魔くさいんでしょうな?

 

で、今になってこの会社では「踏切警報時間を約30秒以上短縮する」 賢い踏切 とか云々と抜かしているようですが、これはあくまでパフォーマンスであって、これを世では クチだけ番長 と言うのです。

 

     

 

と言うことで、大阪でも南部に住む民は、おおむねJRの踏切が長く閉まっていると認識していますし、その現状に困惑しているのです。