令和の今日…

スーパーマーケットへ行けば所狭しと 新鮮野菜 が並べられ、しかもそこそこリーズナブルな価格で購入できるのだから有難い時代になったものである。

 

     

 

さて、少し前のブログでお伝えした「糞尿列車」ですが、敗戦が決まった後に進駐して来た米軍にとって、これ以上に驚愕したことが、人糞を肥料として野菜を育てるという仕組みでした。

 

     

 

ブログ参照↓↓↓

 

 

 

これは、すでに室町時代の頃より、「人糞による農作物の生産高は非常に高い」と評しているように、当時の我が国では当たり前の農法でしたが、反面生野菜には 人糞の細菌と寄生虫が住みついていた ので、よく洗って食べないと体内で蟯虫(ぎょうちゅう)が繁殖するのでした。

 

 

 

 

そして、その現状を理解した進駐軍は…

 

「こんなん、生野菜食べられへんがなぁ~!」

と苦情が噴出するのですが、これは我が国に例えた場合、「まあまあ、そこを曲げて辛抱して…」となるのですが、自らの主張を曲げないアメリカ人独特の気性も相まって、食糧事情に支障をきたすようになったのです。

 

あと、だったら本国アメリカで採れた新鮮野菜を運ぼうとしたところで、プロペラ機しか無い時代では鮮度が保てず、もはや絵に描いた餅だったのです。

 

 

 

そこで彼らがたどり着いた結果が、日本国内で 水耕栽培 をしようと考えたのでした。

 

     

 

 

これは、アメリカのウィリアム・F・ゲリック博士によって考案された、「土なし農法」を発展させたものでしたが、敗戦から一年も経たない1946年6月に、滋賀県にあった海軍航空隊跡地周辺を接収して工事がはじまり、後に突貫工事で約18haの 大津水耕農場 を完成させましたが、驚くことに実際に運営に当たったのは現在の タキイ種苗 でした。

 

 

 

 

ただ、規模で言いますと後に完成した 調布水耕農場 の方が大きかったのですが、こちらでは琵琶湖から揚水し比叡山麓に貯水池と濾過場を設け、最盛期には500人が働いたとされていますから、相当本腰を入れていた様子がうかがい知れます。

 

こちらは1963年頃の航空写真です。

      

 

現在の大津市立唐崎小学校付近に滑走路があって、JR湖西線唐崎駅南側にその農場がありました。

 

ただ、当時は湖西線はカゲも形もありませんでので、戦前に建設された海軍航空隊滑走路への物資輸送などは、かつての 江若鉄道 の滋賀駅辺りから分岐して弧を描いている引き込み線が建設されます。

 

 

 

 

更に拡大してみましょう。

 

 

同じように戦後に操業した水耕農場へは、更に北側で分岐している引き込み線のような痕跡が見えるようですが、画像がその10年以上後のものですので真相は定かではありませんが…?

 

トマトや胡瓜、二十日大根に白菜にレタスにピーマンなどが大量に栽培された後、収穫された野菜はすぐに洗浄+氷詰めにされたのですが、当時の進駐軍はトラックなどを大量に持ち込んでいたものの、肝心の道路は凸凹の未舗装が大半だったんです。

 

そこで、その傍らを通る 江若鉄道 に白羽の矢が立ち、新鮮な生野菜は貨物列車での輸送が中心にで行われ、各地のキャンプに運ばれたのでした。

 

     

 

幸いと申しましょうか、 江若と国鉄は共に1067mmの狭軌 だったことに加え、膳所駅で互いの線路が繋がっていましたので、ここを起点として関西圏に新鮮な野菜が届けられたのでしょう?

 

 

 

まあ、時代が時代と申してしまえばおしまいですが、先の大戦を前後して糞尿も新鮮野菜も共に貨物列車で運ばれていたという歴史だけは、紛れもない事実なのです。   

本来なら子供向けとして発売された商品が、今やその オマケ に魅了されるのか、はたまた転売を目的としているのかは知らないけれど、大人達が群がって 爆買い する世の中になってしまったようだ…。

 

     

 

まあ、世知が無い世の中になった訳なんだけれど、私が小学校時代はそうでは無くて、オマケ菓子と言えばまず 森永チョボール でした。

 

これは 銀のクチバシであれば5枚 

そして、 金のクチバシなら1枚 

を森永に送れば、もれなく オモチャの缶詰 が送られてくるのですが、当時は子供だましのような中身に心底ガッカリしたのである。

 

     

 

そして、それと双璧にあったのが グリコのキャラメル であって、これは買えばもれなくオマケが付いてくるので、確かにオマケはチープだったけれど、こちらの方が親近感があると申しましょうか、これが擦り込まれて グリコ=子供向けお菓子 というイメージが今も付いてしまっているのです。

 

      

 

 

 

さて、そんな子供の味方であった 江崎グリコ の当時の社長が、何者かに拉致されたのは私が19歳だった1984年のことで、後に身代金が要求される事件へと発展したのである。

 

     

 

子供と入浴中だった社長を全裸で拉致するという大胆な事件であったが、犯人グループは  かい人21面相 と名乗り、後に森永や丸大食品なども同様のターゲットとされ、世間を震撼させたのは、ご同輩であれば周知の事実でありましょう。

 

加えて、身代金に対応しなかった場合の報復として、彼らは 毒入り商品をばら撒く としてきたので、本来であればお菓子が大好きな子供達がお菓子をクチに出来ない日々が続いてしまったのです!

 

     

 

 

 

 

ただ、時代は今と大きく違っていて、子供が買う菓子は 街の駄菓子屋さん がほぼ大半であって、要は店のおばちゃんらが終始監視していましたから、犯人達が寄り付くことすら困難だっのです。

 

     

※イメージ

 

対して、、不特定多数が来店するスーパーの菓子売り場は、常に警察官が貼り付くといった異常事態も散見されました。

 

     

 

そこで犯人達は、当時はまだ店舗数も客も少なかったコンビニをターゲットとして、毒入り菓子を陳列に紛れ込ませたのですが、それを実行に移したのが、お題の キツネ目の男 だったのです。

 

      

 

     

 

 

 

これは、一説では都市伝説とも言われいますが、キツネ目の男に口裂け女、はたまたネッシー、比婆ごん、ツチノコなんて未確認な情報が散乱していた時代でもありましたね!

 

 

 

さて、話を戻しますと真っ先にターゲットとなった江崎グリコの菓子は全く売れない状態になってしまい、長引けば最悪の事態にもなりかねませんでしたので、当時の国鉄 大阪鉄道管理局 に属する一部の組合が決起し、大阪本社の 江崎グリコを助けよう! と立ち上がったのです。

 

     

 

ぶっちゃけた話し、国鉄職員が束になって買ったところで屁の突っ張りにもならなのですが、江崎グリコの工場から直接出荷した菓子の詰め合わせが、当時の価格で3000円くらいだったと思うんだけれど、これを皆で買って応援しようという行動でした。

 

     

 

 

けど、当時は安月給でね…

姫路の鉄道寮に住んでたんだけれど…

 

今の貨幣価値にすると倍の6000円くらいでしたし、それならスナックで呑んでる方がええんちゃう?と言う声もありましたが、組合幹部の方から 「何としてもこの危機からグリコを救って欲しい」 と懇願されたので一箱だけ購入しましたが、さすがに一人では食べきれず、甘党の同僚なんかに配って消化しましたね、確か?

 

 

 

そして、あれから41年!

 

     

 

もう、グリコの社員ですらこんな騒動に対してそれを応援した者が居たことすら知らないと思いますが、後にこの事件は未解決として迷宮入りしてしまったのでした。   

そのまま相手にストレートに伝えてしまうと、様々なトラブルや勘違いを併発してしまうこともあるので、それを「オブラート」に包むように色んな業界で 隠語 というものがあります。

 

例えば、一時期勤めていた 高島屋 の飲食店テナントでは、客が入っている営業時間中に生理現象が発生した場合、同僚に「トイレ行ってきます!」と伝えれば、食事中のお客からすれば不快極まりないと受け止められますね。

 

ですから、ここでは トイレへ行く=仁久(じんきゅう) という隠語があって、食事休憩は有久(ありきゅう)と言って、要は部外者にその詳細を知られないようにしていました。

 

 

     

 

 

 

さて、お題の 国鉄隠語 ですが、退職してから相当な月日が流れてしまったんですが、遠い記憶を辿りつつも、当時の隠語を少しご紹介してみようと思います。

 

 

◆ キセル ◆

 

これは一般の方でもよくご存知だと思うのですが、キセルは両側が金属で真ん中が木で出来ているので、要はは最安値の切符を買って入場して中抜き= 無賃乗車 をするということなのです。

 

     

 

 

◆ にぎる ◆

 

その「キセル」を防止するための行動が「にぎる」というもので、正式には車内改札と言いますが、要は「切符を拝見します」という 検札 なんです。

 

     

 

例えば、京橋車掌区時代の受持ちだった 奈良行き快速 は、当時は天王寺を出ますと王寺までノンストップでしたので、その間を利用してよく「にぎり」ましたが、キセル乗車目的の輩がずいぶんと居りました。

 

 

◆ マグロ ◆

 

これは、いわゆる人身事故をさす隠語でして、私自身は当たったことは無いんだけれど、あまり聞きたくは無い隠語でした。

 

 

◆ ウヤ ◆

 

事故や天候の影響で列車の運行が困難になった場合、列車そのものの 運行を休止 する隠語として用いていて、 「〇〇列車ウヤ」 という風に使われていました。

 

 

 

 

 

◆ ヤオヤ ◆

 

八百屋さんと同じ発音ですが、駅務の下っ端の頃はこの言葉を聞くとテンションが下がりました。

 

すなわち、列車指令などから、「次の内回り電車、前から2両目にヤオヤ…処理ヨロ!」と情報が入りますと、バケツとモップをもってイザ出陣です!

 

 

     

 

特に終電近くになりますと多発する「ヤオヤ」は 嘔吐物 のことでありまして、よくよく見ますと色んな野菜が混ざったものに焼肉にカツ丼…

 

更には、明らかに〆のチャーシュー麵とか、間違いなく玉子とじうどんなんてのもありましたね!

 

 

     

 

◆ マル ◆

 

例えば、列車の発車が20秒遅れたりとか、職員が業務中に軽微なケガをした場合は上司に報告せず、「マル」という隠語を使ってでもみ消していました。

 

ただ、貨車の連結時に自動連結器に指を挟まれた同僚が居りましたが、駅としては人身事故扱いになると管理者らが処分を請けるので、「マル」で処理していましたが悶々としましたね。

 

 

◆ 表環状、裏環状 ◆

 

13年前のブログを参照ください。↓↓↓

 

 

 

 

◆ ひとつ、ひとつ半 ◆

 

ラッシュ時に 大阪環状線 に車掌として乗務しますと、たまに遅れが発生することがありましたが、列車がループで回っている関係上どこかで「糞詰まり」が起こっている訳です。

 

     

 

例えば、3分間隔で走っている列車であっても、鶴橋駅で客がドアに挟まって発車が1分遅れたとしますと、前とは4分開きますし後ろとは2分詰められるため、これを均等に是正すべく当時は大阪、天王寺、京橋で運転整理屋さんが常駐していて、駅の放送の隠語で 「ひとつ」とか「ひとつ半」 などと流れていました。

 

     

 

すなわち、自身が乗務している列車が停車中にこの放送が流れた場合、えてして後続の列車が遅れているのであって、例えば発車が8時10分15秒であった場合、 ひとつ=1分 なので11分15秒。

ひとつ半=1分30秒 なので11分45秒に発車時刻を遅らせなさいと言うことなので、これで均等運転に回復させるのでした。

 

    

 

 

◆ セ〇ズリ行路 ◆

 

これは、当時まだ女性車掌が居ない時代の産物と申しましょうか、前述の京橋車掌区時代には誰もが敬遠する 桜島線への封じ込め行路 がありました。

 

まあ、言うなれば西九条から桜島までの短い区間を行ったり来たりするだけの行路ですが、こちらが当時の行路表です。

 

     

 

同じ頃、まだ短い末端区間の多かった名鉄の車掌さんに聞きますと、名鉄ではこのような路線乗務の隠語は 機織り行路 と呼んでいるようでしたが、せわしなく機を織る様に似ているので妙に納得してしまったんですが…?

 

     

※イメージ

 

 

 

当区では、小刻みにシコシコとせわしなく動く様に似ていることから、何と セ〇ズリ行路 と呼ばれていましたので、誠にお恥ずかしいと申しましょうか、穴があったら入りたい気分でございます…💦

 

で、区での会話を切り取りますと…

 

「今日、おまえどこの行路や?」

 

「俺、環状やけどおまえは?」

 

「俺は最悪、またセ〇ズリ行路やで…」

 

「お前セ〇ズリ好きやから似合ってるやん…」

「シコシコマン…?」

 

「アホか…」

 

もう、男職場ゆえ放送禁止用語の連発で、今なら「ピー」が入ってしまい何を言っているのか分からないと思いますが、当時はまだユルユルの昭和の終わり頃でした。