♪~大きいことは、いいことだ~♪
というフレーズの「森永エールチョコレート」のCMをご存知の方は、恐らく還暦を過ぎたご同輩が多いと思うのですが、当時は小さい街の合併などが盛んだったことに加え、 マンモス校 という言葉があったのをご記憶だろうか?
と言うことで、今回は 「昭和50年頃の岸和田」 カテゴリーで誠に狭義な内容になるんだけれど、前述のようにかつて私が通っていた 岸和田市立光陽中学校 も超が付くマンモス校でしたので、当時のことを回想しながらお話ししていこうと思います。
当時の光陽中学校の校区は、母校の朝陽をはじめ、東光、大宮、常盤の各小学校から集まった生徒で構成されていましたので、1クラス約40名で1学年は15クラスまでありましたから、全校生徒数はなな何と 1600人 近くも居たのです。
まあ、数年後に桜台や野村の各中学校が近くに出来たことで分散されましたが、当時はその校区が広かったゆえ、通学時間だけで徒歩30分というのもザラにあったのです。
※私の場合も並松町の自宅から約30分ほどかかりました。
ですから、今となっては信じられないと思うのですが、全校生徒が一堂に集まる朝礼なんかをしますと、と運動場が一杯になって溢れかけていたのです。
※イメージ
◆当時の校舎の様子◆
晴れて中学一年生となった昭和51年の光陽中学校は、まだ古い木造校舎が半分ほど残っていましたが、その西側の大部分は使われず解体待ちの状態でした。
航空写真で見てみましょう!
黒枠が木造で青枠は相当古い鉄筋の建物で、唯一赤枠の部分だけが現在も残っている鉄筋の校舎です。
◆池を埋め立てて出来たプレハブ校舎◆
さて、西側の古い木造校舎の解体工事と新校舎建設に伴い、まずは運動場が2/3程度まで狭められたことで体育の授業はもとより、運動クラブの練習にも大きな支障が出てしまいました。
と言いますか、それ以前に解体する校舎に本来入るべき生徒の教室が不足したことから、急遽道を挟んだ東側の池を埋め立てて プレハブ校舎 が出来たのは、私が一年生だった昭和51年だったと記憶しています。
※イメージ
一年生の1組から7組までがここに押し込められた訳ですが、晴れて一年生となったのにペラペラのプレハブ校舎とは泣くに泣けない状態で、おまけにチープな造りでは寒暖を凌ぐには厳しかったようてすが、それでも新校舎が完成するまで数年間使用されていました。
ちなみに、私は幸運にもプレハブ教室には当たることなく…
1年は9組で(鉄筋1階)担任/児玉先生(技術)。
2年は7組で(木造平屋)担任/中本先生。
3年は1組で(鉄筋3階)担任/阪下先生(体育)でした。
また、当時は予科練上がりの教師も居ましたし、英語は長谷川先生に三浦先生、数学は日下先生や東武先生、国語は安永先生、体育は小野原先生、音楽は田村先生なとがいらっしゃいました。
◆暖房機すら無い寒かった教室◆
さて、通っていた朝陽小学校では、冬季のみ各教室1基暖房機(ガスストーブ)が設置されていましたが、この中学校では冷房はおろか 暖房機そのものが無く 、各教室は相当寒かったと記憶していますし、実際多くの生徒が霜焼けに悩まされていました。
まあ、当時で言うところの 気合で乗り切らんかい! ということなのですが、使い捨てカイロすら無かった時代でしたので、唯一暖が取れるのが弁当の時に出されるお茶の色をした暖かい白湯でした。
当時の中学校に給食というシステムは無く、おまけに冷凍食品やコンビニという言葉さえ無かった時代でしたので、1600人近く居た生徒の大半のお母さんらは、早朝から眠い目をこすりながら 手弁当 を作って持たせていたのです。
で、お昼時間になりますと当番が大きなヤカンに入ったお茶を取りに行く訳ですが、出来るだけカバンを小さくすることが当時のステータスと申しましょうかカッチョエエと思われていたため、別途コップなどを持参する者はほぼ居らず、ほぼ全員が 弁当の蓋にお茶を入れて啜っていた んです。
で、当然教室に電子レンジなどはありませんから、特に寒い冬の日は弁当自体が凍ってしまい「ジャリジャリ」と音を立てて、アイスクリームのような冷たい弁当を食べていましたね…。
◆男子全員丸刈り◆
今こんなことをすれば非難轟轟となりますが、当時の岸和田市内の公立中学校では、有無を言わず 男子生徒は全員丸刈り にしなければなりませんでした。
ぶっちゃけた話し、少し背伸びしてお洒落したいし、大人の世界も少し見てみたい年代の芽を根元から絶つようなものでしたが…
市内などでは 丸刈り=中学生 というのが長年にわたり暗黙の了解として共有されていましたから、例えばやんちゃして煙草やエロ本を買う時には、帽子を深く被りマスクをして変装するなど、こちらとしてもあれこれと手を打っていたのです。
◆運動部は兎跳び&水分補給禁止◆
現在の光陽中学校の様子です。
木造校舎は跡形もなく全て無くなり、生徒数も減ったことからスッキリとした雰囲気が漂っていましたが、当時も今も変わらずあったのが → にあるブロック造りの部室でした。
こちらは野球部やサッカー部などが当時入っていましたが、これまた練習中は意味も無く うさぎ跳び や 猛暑でも水分補給禁止 というハチャメチャな指導が当たり前のように行われていた時代でした。
と言うことで、すでに卒業から半世紀近くが経過してしまいましたが、こうして母校を改めて訪問しますと、当時の記憶が走馬灯のように蘇るのでした。
現在の光陽中学校の動画はコチラ→
つづく



































