15900000秒?  

294960分?  

4416時間?

 

てんで数字に弱い私からすると何が何だかわからないのですが、これらは全て 184日 を示すもので、本日閉幕が予定されている 大阪・関西万博 の開催期間でもあるのです。

 

まあ、言うところの半年という訳ですが、これが長いのか短いのかは別にして、今こうしてブログを書いている間にも、もうフィナーレまで数時間を切るところまで来ているのです。

 

     

 

 

 

それにしても開催前は色んな問題が噴出したことで、開催そのものも危ぶまれたりしましたね!

 

工事の遅れに…

 

     

 

メタンガス噴出!

 

     

 

そして、最も関心を引いたのが 万博のイメージマーク であって、当初は色んな案が出ていましたね。

 

     

 

ところが、いざ蓋を開けて見ますと右下の ミャクミャク が選ばれた訳なのですが、これは他が大人の見識で凝りに凝りまくったまくったものに対して、子供でもお絵描きが出来るほどシンプル・イズ・ベストな造形と色合いが好まれたと思うのですが、見慣れない内は「キッショ!」、気色悪~~いという声が大半でした。

 

 

 

 

開催当初はこれらの不安材料も相まって、決して良い滑り出しとは言えなかったのも事実でしたね。

 

     

 

しかし、これに関しては事前の悪評が広まったことに加え、どんな大型イベントであっても当初は ちょっと様子見てみよかぁ~? という時期があったことと、やはり全てがネットのみの予約しか出来なかったことで、特にそれに不慣れな熟年層が敬遠したこともひとつの要因だったと思うのです。

 

参考記事↓↓↓

 

 

 

ところが、今はスマホで世界中に瞬時に情報が発信される時代ですから、特に個々がSNSで発信する内容がどんどん拡散されますと…

 

「思ったより楽しいやんけ」 とか 

 

「規模がメチャメチャでかいで、しかし…」

 

という話題で埋め尽くされるので、ほなら一回行ってもええんとちゃうけ? と、一気に注目度が上がったことに加え、後半になると全国放送の サザエさん で特集が組まれたことが「きっかけ」で足が向いた方もいらっしゃったのではないでしょうか?

 

     

 

 

 

大屋根リングね…

 

     

 

あれは、延々に並ばされるパビリオンと違って誰でも上がれるし、上がっても何も無いんだけれど、そこを回遊するだけで 万博気分に浸れます し、片や花火や色んなイベントが毎日開催されたことで、常連さんのマンネリ化を払拭できたのも大きなポイントだと思うのです。

 

     

 

     

 

     

 

あと、我が家から会場までは電車で40分ほどの地の利ですが、こと遠方から来られる方にとっては万博以外にも道頓堀や大阪城、奈良公園に京都散策などの一級観光スポットが近くにあることも、来場の後押しをしたんじゃないかな?

 

 

 

思い返せば2018年11月に、 オールジャパン で勝ち取った万博誘致決定から7年の月日が流れ、色んな方たちの汗の結集が実を結んだのが、この 「いのち輝く未来社会のデザイン」 をテーマにして開催されたのです。

 

     

 

 

小さなトラブルもあったでしょう…

思っていたほど楽しくなかったとの意見もあるでしょう…

しかし、最大公約数的に言えば 大成功であった大阪・関西万博 だったことは間違いなく、来場された人の数に比例して、この地で思い出がたくさん積み上げられたことは喜ばしい限りと言えるでしょうし、スタッフさんらもずいぶん汗を流されたことでょう。

 

     

 

まあ、何を言っても自由な世の中ですから、今だにこの万博を蔑(さげす)ます意見も散見されますが、山登りが好きな方や海釣りが好きな方と好みが違うからといって、それをミソクソに揶揄する神経が私には理解できないのです。

 

と言いますか、後半はこれほど連日満員御礼が続く来場者を見てみますと、これこそが民意だとも思うのです。

 

と言うことで 終わりよければすべて良し!  また、これを機会に、これに懲りずに大阪へ遊びに来てくださいませ!

 

大阪・関西万博 は連日大混雑しているとの報道がなされていますが、このような一大イベントが開催されると、おのずと周辺の宿泊施設も大盛況のようである。

 

        

 

しかし、それが終了してしまえば需要と供給のバランスが瞬く間に崩壊し、宿泊施設は閑古鳥が鳴くのは当然であって、例えば パンタブーム で盛り上がっていた白浜温泉などは、今後のホテル経営において一層の厳しさを増すことは間違いないと予想できましょう。

 

     

 

初期投資が大いために減価償却が長期に渡るという業界の根っこ部分は、景気が常に上昇機運であればまだ良いんだけれど…

 

令和の今日に至っては建物の老朽化はもちろん、出兎にも角にも 人手不足 に加え、後継者問題なども大きな問題であって、その足枷(あしかせ)によって経営を断念したり譲渡するところも増えてきているように思います。

 

     

 

 

 

 

実は、かつて個人的に宿泊したホテルの中に 鷲羽山下電ホテル というものがありました。

 

     

 

これは、かつて 瀬戸大橋が開通 したことで観光客が殺到し、その絶景を眺めながらバーベキューなどが楽しめることも相まって、地域のランドマーク的なリゾートホテルでしたし、一時期は相当賑わっていました。

 

     

 

加えて、母体がいわゆる地域を走る 下津井電鉄 という電鉄会社であるのと、その路線には何度も訪問したことも相まって、楽しいひと時を過ごすことが出来ました。

 

     

※晩年は児島~下津井を結んでいた下津井電鉄。

     

 

 

しかし、瀬戸大橋は観光と言うよりもむしろ社会的インフラであるためブームはすぐに去って宿泊客が激減し、加えて設備の老朽化も相まったことから、近年は苦戦を強いられていましたが…

 

それでも活性化を図るべく、廃止となった同電鉄の車両を玄関前に移設し、カフェなどを開設すべく クラウドファンディング で資金などを募っていた時期もありました。

 

     

 

しかし、肝心な資金は集まったものの、その後にカフェをOPENしたとの情報が無かったので、経営側はいったい何をしたかったのか?との疑問が沸いてきました。

 

 

 

活性化の起爆剤として同社の車両を持って来ればという発想は間違いでは無いんだけれど、さして鉄道に興味も愛着も無い者がトップに立っていたとすれば、それはそれで不幸な事なのかも知れませんね?

 

     

 

同ホテルは ホテルリゾート下電 という括りで経営されており、代表がこちらの鷲羽山を、そして奥様が湯郷温泉の ホテル美春閣 の女将として活躍されていました。

 

 

 

しかし過日、老朽化の著しい「鷲羽山」は 台湾系企業に譲渡 が決まり、対する「美春閣」は滋賀県の 雄琴温泉 湯元館 の子会社として再出発を図ったようです。

 

     

 

 

お家騒動があったのかどうなのかは知るところではありませんが、特に後者の美春閣においては、 美作三湯 と言われるもののアクセスが悪くマイナー感が否めないため、女将があれやこれやとSNSで情報を発信している様をずいぶん見てきました。

 

乾いたタオルを絞ると申せば失礼かも知れませんが、スタッフを含め全員が日々の仕事をキッチリとこなし、一生懸命に頑張ってこられたと思います。

 

     

※イメージ

 

 

しかし、その頑張りとは裏腹にリゾートホテル業界はここ数年、譲渡や閉館が繰り返されていて、 前述の 白浜温泉 を含む和歌山県下ですら、数年前からその動きが活発なのです。

 

すなわち、南部ロイヤル・串本ロイヤルがフランス外資系の中級ホテルブランドの メルキュール へ…

 

     

 

白浜御苑・古賀の井・千畳が大江戸(湯快)グループへ…

 

かんぽの宿紀伊田辺・勝浦御苑が亀の井グループへ経営譲渡されているのです。

 

 

 

 

大が小を食う!

 

もちろん泊まる側の私達にとっては経営者がどうとか、どこのグループに属しているなんかには興味が無くて、楽しくかつゆったり泊まれれば満足なので関係の無いことなのですが、全国各地にあるリゾートホテルは、平成の今をして大きな 業界再編への道 に入っていると言えるのです。

 

そう考えますと、何代にも続けて長く営むのが難しい業種でありましょうし、いわゆる 老舗旅館やホテル はほぼ絶滅危惧種に近いかも知れませんね?

 

技術は日進月歩とも申しますが、さすがに半世紀近くを経過しますと 隔世の感 がありますよね?

 

これは日々お世話になる車も同じであって、弊社が現在所有している軽トラックにはクルーズコントロールこそ無いものの、エアコンにパワステはもちろんだけど、 運転支援装置や予防安全装置 が色々備わっていて、高速道路でも100km/h巡行が可能ですから、要は鼻くそをほじりながらでも運転出来てしまうのである。

 

     

 

しかし、私が普通免許をとった40年以上前の軽自動車と言えば、今とは似ても似つかないほど貧相な装備かつ 我慢車 でしたから、その時代を知らない方を含め、当時を振り返ってみようと思います。

 

 

 

◆チョークレバー◆

 

黒板に書くチョークではなくて、当時はキャブレター式が大半でしたので、特に冬季のエンジン始動にはコツが要りました。

 

     

 

それが チョークレバー というもので、使い方は…

このレバーを引く→

エンジンルームへの空気の流入が絞らる→

より濃い混合ガスを作って点火するというもので、一旦エンジンが始動すれば頃合いをみてレバーを戻さなければならない難儀なものでした。

 

また、エンジンルームには夏と冬の切り替えレバーがあり、これも季節を睨みながら切り替える必要がありました。

 

     

 

 

 

 

◆80km/hを超えると鳴り出す警告音◆

 

当時の軽自動車はエンジンが550ccであったこともあり、特に高速走行は苦手中の苦手でしたが、それでもスピードの出し過ぎを警告するため、80km/hを超えると キンコンキンコン が鳴るんですね。

 

 

こちらは、当時私が乗っていた同型のスバルレックスですが、軽自動車ならまだしも、軽トラックであればアクセルをベタ踏みしたところで80km/hなんぞは到底出ませんでしたから、 運転すること自体が必至のパッチでした。

 

 

 

 

◆貧弱装備のコクピット◆

 

まず、今と比べますとハンドルが異様に細く、例えて言うなら小指ほどの太さしかありませんでした。

 

     

 

もちろんパワステでは無くて重ステで操作感もフニャフニャ…

 

ミッションは何速に入っているのかもわからず…

 

ワイヤー式?スピードメーターも、針がブレブレで何キロで走っているのか判別できませんでした。

 

もちろん、コンポやカーナビなども備わっておらず、上のグレードになると AMラジオが装備 されていました。

 

     

 

しかし、これがまた厄介な代物で、あらかじめお気に入りの放送局を登録しておけば、下の黒い5ツのスイッチを押すと機械的に選局してくれたんです。

 

例えば大阪ですと、

左から558ラジオ関西  

666NHK第一  

1008朝日  

1179毎日 

1314ラジオ大阪が定番であるものの、例えば右端のスイッチ押しても1350辺りまで一気に飛ぶので微調整が必要でした。

 

もちろん、コンポも後付けは出来ましたが、当時はまだカセットテープより更に大きな ハチトラ テープも現役でしたので、これを装備した車も何度か見かけましたね。

 

     

 

 

 

 

あと、エアコンなんぞは夢のまた夢で、古いものですと送風機も無かったので、暑ければ前面の蓋を開けて自然の風を入れるしか術がありませんでした。

 

     

 

それと、ウォッシャースイッチも古典的なもので、現在のレバー式やスイッチ式では無くて、ゴムの突起を押すものでした。

 

     

※イメージ

 

これは、 カエルが飛ぶおもちゃ と同じ原理で、一回押せば一定量の液が噴射されるものの、最初の形状に戻るのに時間がかかりましたし、数年するとゴムが劣化してしまい使い物になりませんでした。

 

     

 

 

◆コラムMT◆

 

当時はAT限定免許はもちろん、乗用車であってもMT(マニュアルシフト)が当たり前でしたが、その中でも最も使いやすいのが コラムMT でした。

 

     

 

 

 

 

これは、さすがに軽自動車には無かったと記憶していますが、要はシフトレバーが最もハンドルに近いことから、咄嗟の危険を回避するのに優れていて、今でもこの仕様があれば購入したいと思っています。

 

最後にこれね…

 

     

 

殺風景なコクピットに少しでも華があれば良いかと、同僚らの車によく見かけましたし、 車にポピー という芳香剤もずいぶん流行りましたね!

 

     

 

 

と言うことで、昔を懐かしむということはそれだけジジイになった裏返しでもあるのですが、免許とりたての頃の阪神高速道路は西線が400円で東線が250円…

 

山陽道も第二京阪ももちろん無く、中国道には 山崎バリア があった時代でした。

 

「わかるかな? わかんねぇたろうな~」