昨日19時半頃、大阪府貝塚市の 南海本線貝塚駅 近くの踏切で、特急列車と乗用車の衝突事故があったと報じられました。

 

     

※毎日新聞より

 

幸いと申しましょうか、乗客と乗員に負傷者は出なかったものの、不幸にも乗用車を運転していた50歳代の女性がお亡くなりになられたようですが、だったらこの事故はどうして起こったのか? はたまた回避することは出来なかったのかを検証していこうと思います。

 

 

 

◆ 南海電車から見た踏切の様子 ◆

 

事故を目の当たりにした訳ではないので、少し空想的な内容になってしまうのですが、今回の事故で南海電車側には落ち度は無かったのでしょうか?

 

事故現場は貝塚駅から難波方の最初の踏切で、交差する道路は比較的交通量が多くあります。

 

図で説明しましょう↓↓↓

 

     

※以下、Googleストリートビューより

 

赤い矢印が当該踏切で、列車は青い矢印の方向へと進んでいました。

 

ただ、貝塚駅は普通と急行が停車するものの、当該列車は特急であったため通過しており、同駅手前までを 約90km/h近いスピード で走行していたものと思われますが、YouTubeから転載させて頂いたもので確認しますと、難波行き特急列車の運転士からはこのように見えていたはずです。

 

     

 

この時点では駅から先にある踏切は確認できず、また19時半という時刻を考えますとと、全く当該踏切の状況すらわかりません。

 

 

 

次に、貝塚駅を通過する様子です。

 

     

 

実は、それまで90km/h程度で走行してきた特急列車でしたが、この先の カーブが70km/h制限 のため、貝塚駅ホーム手前からすでに減速を始めていて、カーブ直前にはその速度まで落ちていると思われます。

 

     

 

すなわち、冒頭にある事故後の画像から考察しますと、8両編成の電車の6両までが通り過ぎていますから…

 

1両20m×6=120m+駅から踏切までの距離約200mで合計約320mですので、自動車発見後に直ちに 非常制動 と取ったとすれば、ブレーキ系統の故障は全く無かったと断言出来きますから、南海側の落ち度はゼロと言えましょう。

 

 

 

◆ 保安装置のある踏切での事故 ◆

 

警報機が鳴り出して遮断機が降りた後に、もしも踏切内で立ち往生した場合に備え、鉄道側としても 様々な保安措置 を備えて対策を取っているのです。

 

当該踏切の様子です。

 

     

 

赤丸で示しているのは 障害物検知装置 というもので、この踏切にも完備してあるのですが、要は遮断機が降りた後に線路内に障害物があれば、信号を経由して列車の運転士へ知らせてくれる装置なのです。

 

     

 

つまり、検知した直後にすぐさま 特発 という信号が光りますので、これを見た運転士はブレーキを扱うというものです。

 

※参考動画↓↓↓

 

 

 

 

もちろん、当該踏切には連動した「特発」が見られますから、もしも踏切に閉じ込められてから警報機が鳴り出していたのなら、これほどまでの事故にはなっておらず、 遮断機の下りている踏切に自動車が突っ込んだ という報道は、ほぼ間違いないと推測できます。

 

     

     

 

 

◆ 危険な踏切 ◆

 

長らくお隣の岸和田市に住んでいましたので、当該踏切はよく通ったことがあるのですが、誠に 危険きわまりない踏切 というのが地元民の答えではないでしようか?

 

すなわち、踏切を挟んで駅前へ向かう道路と交差するため、各々の車の行動パターンがバラバラなのです。

 

     

 

加えて、踏切からすぐ東にある信号機は踏切と連動する 踏切信号 であるため、これまた変則的に動きますから、パターンが読めず厄介なのです。

 

     

 

 

 

具体的には、西から東へ移動する場合、 踏切が鳴り出しますと連動して先の信号も赤に変わります。

 

     

 

反対に、踏切が開いている時は向こうの信号機もたいていは青なのですが、ごく稀に赤に変わると踏切の向こう側で渋滞が発生しますので、こうなりますと 踏切内に閉じ込められてしまう こともままあるのです。

 

     

 

 

ですから、地元では特に危険な踏切として位置づけられるのですが、くり返しになるものの、踏切も信号も関係なく一旦停止すら行わず、閉まっている踏切に突っ込んだことが原因だとすれば、なぜそのような行動に至ったのでしょうか?

 

 

 

自病があって突発的に発作などを起こしたのか?

どうなのか?

 

お亡くなりになったのは、和泉市に住む猫のベットブリーダー業の方のようですので、この道は何度も通ったはずと思われますが、もしかすると運んでいたペットが突然騒ぎ出したのでしょうか?

 

しかし、もしも原因が 運転しながらのスマホ操作 であったとすれば、そもそもヤツらはほぼ前すら見ていませんので、見解は大きく変わってくるのかも知れませんね?

 

     

 

仕事の打合せのため、スマホで会話していた?

好きなゲームをしながら運転していた?

インスタにいいねしていた?

カーナビを弄っていた?

大音量で音楽をかけてノリノリだった?

 

つまるところ、前の車がトロトロ走っていたり、はたまた発進が遅かった場合はほぼ100%これらが原因であって、あれだけ危ないと言われながらも一向に無くならない ながら運転 という風習は、もはや依存症と言われても仕方がないとも思うのです。

 

今回の事故に於いては、この「ながら運転」が原因とは言い切れませんが、特に事故後の検証と申しましょうか、なぜ事故が起こったのかという 原因と結果報告 が後に全く報道されないので、要は他山に学ぶことが出来ませんから、同様の事故は今後も増え続けるとも思いませんか?

 

踏切では一旦停止!

これは他人さん(鉄道会社の敷地)の土地を通らせてもらっているということからの、最低限マナーでもあるということを肝に命じてほしいものです。

欲しがりません勝つまでは!

足らぬ足らぬは工夫が足らぬ!

 

これは、物資が不足する先の戦時下の国民に対して、不満を漏らすのではなく、工夫してこの局面を乗り切りなさいと言う 戦争標語 でした。

 

      

 

しかし、月日は流れども…

令和の今を投影してみますと、物価はうなぎ上りに上昇する反面、我々民の賃金は一向に上がらない状況ですから、戦時下とは無縁であるものの「足らぬ足らぬ…」を念頭に置きつつ、何としてもこれを乗り切らなければ、ますますジリ貧になってしまうのです。

 

 

 

ですから、数年前のデフレ時代と同じく、いつも通りにお昼を外食に頼っているようでは優に1000円を超えしてまいますから、ここはひとつ手間暇はかかるけれど 手弁当 を持参して少しは出費を抑えようと試みました。

 

と言うことで、今回のオヤジの食べログは、いつものお店の評価とは異なり、還暦ジジイこと私が作るお弁当をご紹介しようと思います。

 

 

 

◆ 野菜炒め弁当 ◆

 

     

 

冷蔵庫の余りもの野菜を適当に焼くだけの簡単調理ですが、これがほぼ定番になりつつある弁当でございまして、塩コショウ+シャンタンで下味を付けた中華風に仕上げています。

 

     

 

あと、 箸休めの一品 として、前日の夜に煮物などをあらかじめ用意しておくのですが、この日は小松菜の煮びたしが入っています。

 

     

 

     

 

 

 

◆ ミートボール弁当 ◆

 

     

 

大人も子供も大好きな市販のミートボールに、少し野菜を足すだけでボリュームがアップしますが、この日は少量の焼きそば+小松菜の煮びたし+玉子焼きのラインナップです。

 

◆ 焼鳥弁当 ◆

 

     

 

下味の付きづらいカシワは、砂糖+醤油+みりんの焼き鳥風が定番ですが、カシワを焼く前に少量の片栗粉をまぶしますと、冷えても美味しく頂けます。

 

     

 

あと、時には少し味変を加えたケチャップ炒めもよろしいかと…。

 

 

 

◆ やきそば弁当 ◆

 

     

 

大阪人ならみんな大好き やきそば弁当 は、これまた炭水化物×2と栄養バランスが今ひとつながら、旨いもんは旨いのです!

 

     

 

◆ ナポリタン弁当 ◆

 

     

 

上に同じく、炭水化物の固まりですね!

 

 

 

 

◆ そぼろ弁当 ◆

 

     

 

ミンチ肉と野菜を甘辛く炒めて白ご飯にONするだけですが、形崩れと汁が垂れないように、これまた少量の 片栗粉 を絡めますと固まるので安心ですね。

 

     

 

こちらは紅生姜を添えて牛丼風に。

 

 

 

◆ 焼肉弁当 ◆

 

こちらは現場用で使い捨て容器に入れたもので、焼肉はケチャップ仕上げです。

 

     

 

こちらは、美味しい とむらのタレ を絡めて更にレベルアップしますしていますので、白ご飯が足りませんね?

 

     

 

また、時にはカレー粉を入れてパンチを効かせたりしています。

 

     

 

 

 

◆ のり弁当 ◆

 

いわゆるホカ弁店のそれではなく、白ご飯にかつお節+醤油+海苔をまぶしたものです。

 

     

 

     

 

また、玉子が高騰していますので、玉子焼きですと玉子は最低2個以上必要ですが、出来るだけ節約するため、時にはピーマンやしめじなどと炒めることで1個だけ使ったり、はたまた玉子無しの日もままあったりします。

 

 

 

◆ やきめし弁当 ◆

 

酷暑の続く真夏にはあまり適さないのですが、少し気温が下がりますと「やきめし弁当」が登場します。

 

     

 

と言いますか、これはおかずが少ない時の救世主でもあって、たいていは普段使わない冷凍食品が混ざっていますね。

 

     

 

◆ かやくごはん弁当 ◆

 

大阪で言うところの 醤油めし ですが、これもやきめしと同じくおかずの少ない時に登場します。

 

     

 

こちらは、作ってるところです。↓↓↓

 

     

 

     

 

だいたいひとつのフライパンで手際よくすれば、おおよそ30分もあれば仕上がりますし、どれも原価で言えは一食200~300円まででございます。

 

 

 

それにしても、本来なら手弁当など作らず、それまでのように日々のお昼はみんなが外食に戻れば更に経済が回るのですが、イソップ童話の 北風と太陽 よろしく、これほど景気が悪くなりますと、財布の紐も固く閉ざさざるを得ないんじゃないでしょうか?

 

     

 

 

まあ、私とて全く苦にはなっていないどころか、楽しんでつくっているので、それはそれで良しとしますけど…?

 

けど、どこぞの国では増税に次ぐ増税で民を苦しめていますが、その流れを今後も続けて行けば、旅人という民は更にコートのエリをたて、絶対にコートを脱がないと思うのです。

 

     

 

♪ババンバ バンバンバン~~~♪ でははじまる歌詞は、ご同輩であれば百も承知の いい湯だな という名曲であります。

 

     

 

 

 

ただ、この曲がドリフターズ版で世に出た1969年と言いますと、先の大阪万博が開催される一年前であって、確かに生活スタイルは向上してきたものの、まだ自宅に風呂がある家庭も多くなかった時代でしたので、街中には 銭湯 が至る所にありました。

 

     

 

と言うことで、毎度誠に狭義の話しにはなるのだけれど、昭和50年頃に住んでいた岸和田市の自宅近所にあった銭湯などを紹介していこうと思います。

 

 

 

◆ 並松町 松湯 ◆

 

小学校一年から六年まで同じクラスで同じ並松町に住んでいたK君のご実家は、 松湯 という銭湯を営んでおりました。

 

     

 

紀州街道沿いの三叉路の角にあるスタンダードな銭湯で、かつ自宅から最も近い銭湯でしたが、奇しくも当時住んでいた家には小さなお風呂が備わっていましたので、ついぞや客として訪問することはありませんでした。

 

ただ、夏にK君の家へ遊びに行きますと、ご両親が気をつかったのかどうなのか? まだ温める前の銭湯で水遊びをよくさせてもらいましたね!

 

 

◆ 下野町5丁目 潮乃湯 ◆

 

こちらの正式名称は「潮湯」だったのか「潮の湯」だったのか忘れましたが、これまた同じクラスのK君のご実家でして、ご多分に漏れず夏はプール代わりによく遊ばせてもらいました。

 

     

 

 

◆ 並松町 ??の湯 ◆

 

上記ふたつの銭湯は、いずれも同級生のご実家ですので客として入りづらかったのですが、その事情を知っていた父に連れられて行ったのは、同じ並松町にあったもうひとつの銭湯でした。

 

ただ、屋号は失念したものの、少し自宅から距離のある ???の湯 へ父とよく出掛けたものです。

 

     

 

どちらかと言いますと小さな建物で相当老朽化した銭湯でしたが、脱衣所には当時私が大好きだった一回10円の お菓子のクレーンゲーム があったので、本当はこのゲームがしたいがために、よく父ににせがんだものでした。

 

     

※イメージ

 

 

 

◆ 春木の銭湯 ◆

 

父方の祖母が春木戎町に住んでいたので、小学生になると週末を利用してよく泊まりに行きました。

 

ただ、祖母宅には簡易で小さな 鉄砲風呂 があったのですが、温度調整が難しいことからよく銭湯へ連れて行ってもらいました。

 

      

※イメージ

 

祖母宅から10分ほど歩きますと、地域一番の商店街のようなところがあって、ここに昔ながらの銭湯がありよく訪問させてもらいましが、一年生だった私が頼りないのか気遣ったのか、一度だけ祖母が私を連れて 女湯 へと入ったのですが、さすがに居心地が悪くて二回目以降は一人で男湯に浸かったものでした。

 

     

※赤印がよく訪問した銭湯

 

ただ、それより更に5分ほど歩いたところに大きくて新しい銭湯が出来たらしく、その報を聞いて祖母と意気揚々と出向きましたが、こちらは浴室の壁面が水槽になっていて、当時としてはたいへん斬新で珍しい作りでした。

 

※青印のところ

 

     

※イメージ

 

     

 

さて、ここまで読んで頂いても何の感動も気づきも無いのは百も承知ですが、これは後世に伝える岸和田市の記録のようなものですから、しばしご辛抱頂きたいと思います。

 

 

 

◆ 並松町 スパ・リゾート リバティー ◆

 

当時の自宅があった裏側の工場敷地から天然温泉が湧き出たことで、ここを リバー産業 という会社が開発して昭和63年4月にOPENしたのが、当時のブームであった健康ランドの「スパ・リゾート リバティー」でした。

 

この内容でしたら40歳代の方でもご記憶にあると思うのですが、大阪臨海線に面した入口には大きなゴリラが鎮座していまして、1階にはレストランも併設されている大きな施設で、浴槽も街中の銭湯とは一線を画す広さでした。

 

     

 

当時は、尼崎の「尼湯ハウス」に松原の「ゆ~ゆ~ランド」、はたまた狭山の「はいから村」に奈良の「奈良健康ランド」など、一日をたっぷり館内で過ごせる施設が目白押しにOPENしたものの、 入浴料が2000円前後と高額 であったため、後に台頭する「スーバー銭湯」などにことごとく駆逐されてしまいました。

 

かく言う私もここへは一度だけ訪問しましたが、ここで紹介した全ての銭湯やこのリバティーを含め、今はその痕跡すら無くなり人々の記憶から消え去ろうとしているのです。

 

 

 

思い返せば祖母や父と手を繋ぎ、シャンプーにタオルに着替えを詰めた桶をぶら下げて、暗い夜道をテクテクと歩いて通った銭湯の道中は、今からしてみますと確かに面倒くさいことだったけれど…。

 

何でも効率化を叫ぶ令和の今からすると、もう味うことすら難しくなった体験なのかも知れませんね…?