前回の続きである。

(その2は →こちらから


明治時代に、通天閣周辺で開催された「万博」の影響で、大阪のメイン通りが 堺筋 になったのは、前回にもお話ししましたが、時が大正時代に入ると、人々の生活も安定しだしたため、余暇を楽しむ風潮が芽生えてきました。


おまけに、鉄道アクセスが飛躍的に向上したため、休日ともなれば、大阪市内へ出向く人達が増えていったと言われています。





そこに目をつけたのが 呉服屋の越後屋 でした。


当時の中心部である「北浜」に、洋風コンクリートの7階建ての建物が完成したのは大正6年…


そして、それが百貨店 三越 北浜店 のオープンの時でもあり、大阪の中心部に真っ先にクサビを打ち込んだ瞬間でもありました。





お買い物にお食事…


その建物に入れば一日中楽しめるとあって、三越はたいそう繁盛したそうですが、こうなると他社も黙ってはおらず、後に長堀橋に高島屋が… そして、白木屋(現在の東急百貨店)に松坂屋と、堺筋沿いに百貨店が乱立し始めます!






ところで、その頃…

後の阪急の代表者となる「小林一三」は、三井銀行 大阪支店 に赴任していました。


ただ、彼のデスクからは「三越」が見下ろせたそうで、当時の玄関前ではイベントの余興で 三越少年音楽隊 が華やかに音楽を奏でていたそうです。


そして、これに興味を持った「小林一三」は、少年ではなく少女で音楽隊をつくろう とひらめいたらしく、それが今の「宝塚歌劇」の起源とも言われています。





時代は昭和へ…



今の「阪急百貨店 梅田本店」の建物は、低層ながらすでに大正時代にありましたが、当時はターミナル型百貨店は未知の世界であり、どちらに転ぶか不安だったようです。


そこで、前述の白木屋にひとまず貸して、上手く行きそうならば直営に切り替えるという、いわば 油揚げをさらうトンビのような、えげつない魂胆 がありました。







しかし、御堂筋の建設が決定し、それが大阪のメインストリートとわかるや否や直営に切換え、昭和4年に阪急百貨店が誕生します。


そして、高島屋が難波に移動したことで、時あたかも完成した御堂筋のキタとミナミで、二大百貨店が睨みあう構図が出来上がったのでした…


つづく