たまたま現場作業の帰りのこと…
細い路地を車で走っていますと、けったいな建物を発見したのですが、これはいったい何なんでしょう?
地震によって半分家が埋まったのか?
それとも、台風で流されてきた家屋がそのまま放置されたのか?
と推測したりしたのですが、どうやら先の終戦末期につくられた 防空壕 のようでした。
では、なぜ防空壕をつくる必要があったのでしょうか?
先の大戦では後半に当たる1944年。
絶対国防圏であった サイパン島が陥落 したことで、アメリカ軍の長距離爆撃機であれば日本本土を空襲することが可能となったのです。
そこで、軍部は万一空襲にあった場合の心得として、まずは爆弾が落下した際の 防火訓練 を奨励したのでした。
しかし、所詮は バケツリレー であって次々と落下してくる爆弾や焼夷弾にはバケツの水ごときでは歯が立ちませんでしたが、それでも当時の民は 隣組 という組織に縛られていたため、必死でその練習に挑んでいたようです。
※防空頭巾を被りバケツリレーに励むをする小学生の様子。
実際私の母も和歌山市内の学校で消火訓練に参加しました。
※Grokで画像生成カラー化しました。
ところで、歴史を紐解きますと大阪の初空襲は1944年12月で、現在の平野区瓜破地域にあった航空機工場が狙われました。
※大阪金属工業は現在のダイキン
当時はまだ硫黄島が陥落しておらず、航続距離の短い護衛戦闘機を伴わなかった爆撃機のみの単独行動でしたが、時期的に風が強かったのか、はたまた搭乗員が焦ったのかは不明ですが、目標を外れた少し手前の三宅村付近に投下されました。
で、現在の地図と照らし合わせてみますとこんな感じですが…
なな何と!
弊社から東へ2~3kmしか離れいないことに驚きを隠せませんが、当時はこの惨状を耳にした多くの民らの間では、 ウチとこも防空壕をつくらんと危ないんとちゃうけ? と思ったに違いないでしょう。
ただ、大戦末期ゆえ我が国では資材が枯渇していおり、残った婦女子や子供らを騒動員したものの満足なものは出来るはずもありません。
ですから、このような数人しか入れない簡易な穴しかつくれず仕舞いでしたから、付近に一発でも爆弾が落ちようものなら一瞬で崩壊する代物で、実際多くの方が亡くなられました。
そう考えますと、この防空壕のつくりは本格的なのですが、建築業を営む 加賀谷保一氏が自費で建設 されたもので、全体で約60㎡の広さを持つ半分土に埋まったコンクリート構造で、頑丈な鉄扉に電気設備や井戸までも備えていたため、この中で数日間の生活ができるように工夫されていました。
また、換気口も見えますし、万が一近くで焼夷弾が落下してさく裂した場合は、その熱風を防ぐために小窓に鉄板が取付けられる構造だったようです。
こちらは、国土地理院1947年の航空写真ですが、当時は住宅密集地域であったのと、紀淡海峡から北上して来た爆撃機は、これより北へ数キロ先にある造船所などを攻撃目標にしていましたから、この真上を爆撃機が悠々と飛んでいたのです。
また、実際に第4次大阪大空襲では流れ弾が付近に落下したとありますので、住民らは気が気ではなかったことでしょう。
本来は近所のご老人や病人らを優先的に避難させたかったのでつくられた防空壕でしたが、実際に完成したのは終戦前日の8月14日でしたので、幸いにも活躍する場は閉ざされたのでした。
※この日は大阪砲兵工廠(大坂城一帯)に大規模な空襲がありました。
兵どもが夢の跡 と申せば失礼になりますが、戦後80年を超えて今なお残る 戦争遺跡 としては貴重なものですし、往時を今に伝える歴史の生き証人として末永く保存されますことを切に希望致します。








































