前回の続きである。
芝山千代田駅からテクテクと歩くこと40分…
とある目的地に到着したのですが、このブログの構成上その内容はvol..4に回させて頂くとして、更にそこから JRバス に乗車し三里塚バス停で下車 しました。
三里塚(さんりづか) という言葉は、場所は知らなくてもどこかで聞いたことのある地名とちゃうかな?
という方も多いと思いますが、実は 成田空港の歴史 を語る上で外せないポイントなのです。
周辺にはコンビニや外食チェーンも散見されるごく普通の小さな集落ですが、まずはバス停から徒歩5分のところにある 三里塚記念公園 を散策してみました。
更に奥へ進みますと古びた建物が見えてまいりましたが、こちらが本日ラストの目的地でもある 三里塚御料牧場記念館 なのです。
御料地と言いますとあまり一般に馴染みの無い言葉かも知れませんが、ここにはかつて皇室財産として広大な牧場などがあったのですが、当時の正式名称は 下総(しもふさ)御料牧場 と言われていました。
文明開化の明治以降、我が国の近代畜産業の発展を支えたるため、欧米の先進技術や大型農機具、はたまた獣医学を新たに導入し、牛・馬・羊・鶏などを飼育してハムやバターも製造し、後にここで ジンギスカン料理が産声を上げ 、皇族らを含む要人らにも振る舞われたました。
また、競馬が好きだった 明治天皇 は、周辺に草競馬場を設けたと言われていて、今でも近くにその痕跡が残っているので歩いてみました。
※青枠が記念館で矢印が撮影場所
※ゆるやかにカーブを描く草競馬場跡
※現在の航空写真
随行員の方が丁寧に案内してくださり、その歴史をつぶさに垣間見ることが出来きたのは大きな収穫でしたが、一番驚いたのは敷地内に今も残る 防空壕跡 でした。
※密室のため矢印の部分に換気口があります。
先の大戦に於いて、もしも本土が空襲された時に避難する皇族の施設であって、特に子供だった現在の 上皇様が途絶えると天皇制そのものが危ぶまれる ため、ここに当時の皇太子殿下専用の防空壕が造られたのでした。
大型爆弾が落ちてもびくともしない頑丈な構造は、現在の鉄筋コンクリート造りを遥かに凌駕するほど丈夫であって、奥に進むとお住まいになられる個室がありまた。
密閉した息苦しい空間で、ついぞや皇太子殿下がここに入ることはありませんでしたが、往時に限りなく近い状態で保存されていることに驚きを隠せません。
※皇太子殿下(現在の上皇様)は後に沼津へ疎開するも空襲の危険度が高いことから日光へ疎開されました。
そして、時は流れて敗戦を迎えましたが、深刻な食糧難の解決と満州や沖縄から疎開してきた多くの失業者の救済を目的に、この 御料地の一部が開放 されたことで入植がはじまりました。
しかし、意気揚々とは言わないまでも実際に入植した方々の生活は、理想とはかけ離れた原始時代そものもでした。
すなわち、水道や電気やガスも無いため風呂や台所すら無く、ひとたび雨が降ると水浸しになる オガミ小屋 という粗末な小屋や、元の御料牧場の牛舎などに藁を敷いて住むことしか出来なかったのでした。
加えて、その想像を絶する劣悪な環境だけでなく、 関東ローム層 という厄介な地層のため、いくら開墾しても作物がほとんど育たない状況が長らく続いたのです。
しかし、彼らの血のにじむような日々の努力も相まって、ようやく作物が採れるようになったのが1960年頃で、これでやっと真面で平穏な生活が送れると安堵したその時…
あろうことか、何の前触れもなく ここに新東京国際空港を作るので立ち退いてほしい と、一方的に政府から告げられたのでした!
遡れば、満州開拓という国策に翻弄され、戦後開拓という二度目の国策でようやく手に入れて耕した土地なのに、またも国策(空港建設)によって追い出されるのか!
苦労に苦労を重ねてようやく生活基盤を築いた愛着の詰まった大切な土地を、「ハイ!そうですか」と簡単に明け渡すなんて出来るものか!
農民らの怒りは沸点に達し、すぐさま反対同盟が結成され、後に血で血を洗う未曽有の闘争へと繋がるのでした。
つづく



























































