昨晩、情熱大陸というTV番組で、こんな人のこんな内容を放送していた。



◎登場人物:真鍋公士(高校教師)


【プロフィール】 1961年福岡県生まれ。福岡県立久留米筑水高等学校 食品流通科教諭。農家に生まれ、農業高校、農業大学を経て教師の道へ。卵からニワトリを育て解体して食べる「命の教育」を続けて11年。400人以上の生徒に「命の尊さ」を伝えてきた。教壇に立ち30年。


■ニワトリを飼育し、解体し、そして食べる。「命の教育」を続ける高校の教育現場に密着


残酷な「いじめ問題」や子供たちの自殺が後を絶たない日本の教育現場。そんな中で命のかけがえのなさを考えるための“命の教育"を10年以上も続けているのが福岡県久留米市の高校教諭・真鍋公士だ。


真鍋の授業は、専門高校の食品流通科1年生を対象に、一人一羽ずつ卵からニワトリを飼育し、成長させたあとと畜、解体し、そして食べるという内容。小さな命を育み、いただくまでの過程で、その重さやかけがえのなさを生徒たちに感じ取って貰うというものだ。


番組では、真鍋が40人の生徒に受精卵を手渡す「授業の始まり」から、飼育し食べるまでの3か月を追った。ニワトリの最後を知りながら、その成長とともに愛情を深めていく生徒たち。そして彼らを真摯に見つめる真鍋。時に「子どもたちにこんな嫌な思いをさせなくてもいいのではないか…」と葛藤しながらも、生徒の強さを信じ、対話をくり返すデリケートな“命の教育現場”をカメラが追った。



以上。

http://topicsnow.blog72.fc2.com/blog-entry-8712.html




仕事中だったので集中して見ていたわけではないが、横目で見ながら、自分だったらこんなこと教えないのに、ということと、自分が高校生だったら先生からこんなこと学びたくない、と思った。


泣いている女子高生がかわいそうに思えた。



自分は、教えるべきことと、教えるべきでないこと、というのがあると思う。



例えば、歴史教科書に通州事件みたいなことは書くべきじゃないと思う。そんな人間の悪の部分は大人になってからで遅くなく、子どものうちはもっと前向きな人間の素晴らしい歴史を教えるべきだと思う。歴史は子どもにとって、わくわくするストーリーであるべきだと思う。



また、性教育だって、おのずと教えない部分というのがあってよいと思う。何でもかんでも教えるべきなのか?私は、過激な性教育はお断りだし、そんな教育受けなくて本当に良かったと思っている。



子どものころは、ウルトラマンは必ず最後に怪獣に勝っていた。勧善懲悪ものばかりだった。時々、ゼットンやバルタン星人みたいに強い怪獣に負けてしまうこともあったが、基本的にはウルトラマンが最後に勝った。



それで間違っていないと思う。小学生低学年くらいまでは、勧善懲悪ものは最高の教育番組じゃないだろうか。



そもそも、上の命の授業は前提からおかしい。論理がおかしいと思う。いったい飼育と屠殺により、どうして命の大切さが学べるのだろうか。


ニワトリ殺したくないでしょ、だから命は粗末にしちゃいけないんだよ、なんていうメッセージだとしたら、それは非常に浅はかでカンチガイだと思う。


それに、屠殺の対象となるものを愛情込めて育てるわけがない。中国では屠殺対象のニワトリが路上で飼われているのをよく見たが、中国人が愛情込めているわけがない。


ペットとして動物を飼っているわけではない社会において、動物は愛情を注ぐべき性質のものではない。生きていくためのパートナーであり、それ以上でもそれ以下でもない。


愛情込めて育てろ、それを殺せ、なんて、おかしいとしか思えない。





命の大切さ、なんて教える必要はない。


理由なんか、ないからだ。考えるべきものではない。



いじめをなぜしてはいけないのか、


人をなぜ殺してはいけないのか、


食べ物をなぜ粗末にしてはいけないのか、


それを教えるよう言われたとき、自分はニワトリを殺して食べて、「命の授業」なんて、そんなことはしない。



だめなものはダメと言うし、それでも納得しない相手には自分で考えろと言う。


仮に人を殺していい場合があると気がついたとしたら、それはそれでその子にとっては真実なんじゃないか。

体罰問題で、子どもたちが記者会見を開いたそうな。


そのニュースを聞いた瞬間、違和感を覚えた。「えっ?」



最初の違和感は時間とともに成長し、嫌悪に変わり、激怒になりつつある。



さらに違和感を覚えたのが、親たちの言動。


「子どもらに罪はないから、とっとと部活やらせろ」と。


この違和感は、結構早く激怒になった。



バカ親が…。



コーチ・カーターという映画があった。あの映画に出てくる無責任な親たちの言動と重なった。


じゃ、お前らは、自分の子ども一人が同じケースで死んでも、生き残った兄弟に部活やらせるために、学校に迫るのか?とっとと部活やらせろ、と。




まぁ、アホな子どもらと親がいるものだなぁ、と思う。所詮他人事で、自分さえ良ければどうでも良い人たちなんだろう。


こんな子どもになってもらっては困る…。


橋下市長には頑張ってもらいたい。こういうとき、迅速に動く市長は、カッコイイと思う。




話変わって、大津。


第三者委員会が、結果報告をしたそうな。いじめが自殺の原因だと。


で、いじめが自殺の原因じゃないと言い張っていた人たちは、一体なんだったんだろうか。


保身のため、人が死んでもどうでもいい人たち。こんなアホな大人を、この事件においては散々見ることができた。


どいつもこいつも、すごくいやな顔をしていた。


今、日中間では、照射問題が起きているが、中国外務省の報道官の顔。ウソをついている人の顔って、醜い。すぐにわかる。


人を外見で判断するな、と言われるかもしれないが、リンカーンは顔に責任を持てといっていた。自分は後者を信じる。


やはり、無責任というのは、顔ににじみ出てくるものだ。





教育の現場には、アホが多い。


子どものころから、学校の先生が大嫌いだった。もちろん、好きなも先生もいた。本音で話ができる、ちょっと悪い感じの男の先生が好きだった。でも、好きな先生はごくごくわずかだった。


今も昔も、ずるい教師が大嫌いだ。



バカな教師、バカな大人、もうつける薬はない。


それにしても、記者会見をセットした背後にいて決して表には出てこない大人は、一体誰だ?



こういうのが、政治力を行使しているから、始末が悪い。

体罰問題については、なかなか難しい。いろいろなことを考えた。


アニメ・漫画・ドラマなどで、体罰を振るう教師がいる。が、憎めないというか、肯定できる体罰(こういうのは体罰とは言わないのかもしれないが…)というのが、そこにはあるような気がした。


例えば、GTOの鬼塚先生は、「たまには力技じゃなきゃわかりあえない場合もあるんですよ」というようなセリフを言う場面があったし、


あとは、スクールウォーズの滝沢先生は、109-0で負けた試合の後に生徒たちを殴る。実際に、この先生のモデルとなった山口先生は、体罰を肯定している。



自分自身の経験においても、確かに今思い出して、体罰を受けたのに大好きな先生というのがいた。体罰はされなかったが嫌いな先生もいた。オヤジに殴られたことも少ないながら何度かあったが、オヤジをうらんだこともない。むしろ、尊敬している。



なぜ肯定できる体罰と、そうでない体罰があるのか、なぜ体罰を受けたのに好きな先生がいるのかなど、あれこれ考えてみた。





前職の上司は子どもたちの指導において、「何を言ったかは大切じゃない、誰が言ったかが大切なのだ」と常々言っていた。この言葉は教育における真理が含まれている気がするのだが、体罰においてもまさにこの言葉どおりではないかと思った。


つまり、誰が体罰をしているかによって、いくらでも変わってしまうと…。



私は、体罰をした先生がキライなんじゃなくて、キライだった先生が体罰をしたから、殺してやりたい、と思っていたんだと思う。そして、好きな先生に殴られたとしても、だからひどい体罰とは感じずに、自分の中で納得がいったのだと思う。


では、たとえ名クラレ他としても好きだった先生ってのはどういう人だったのかといえば、それは、うまくは説明できないが、今自分は教える側にまわり、なんとなくわかる気がする。



要するに、自分に対する愛情を感じていた先生には、何をされてもうらむことはなかった。


例えばスクールウォーズのモデル山口先生の言葉で自分が非常に感銘を受けたのは、子どもたちに接する際、自分の子どもと同じように接すること、一生涯の付き合いをするつもりで指導すること、という言葉である。仮にこういう心を自分が持っていたら…、つまり本気で生徒に接することができたら…、その際は、もちろん程度によるが、体罰は肯定されるのではないか、と思った。




私はこれまで、自分は体罰をしない先生だと思っていた。もちろん、今後もするつもりはない。ただ、なぜ体罰をしないのかといえば、仮に体罰をするくらいに生徒を恨むくらいなら、とっとと退塾させてしまえばよい、と思っていたからである。経営的には、とても正しい判断じゃないかと思う。


が、教育的には大いに間違った判断で、教育者失格の判断に違いない。



自分の息子に対し、体罰は今まで一度もない。けど、何か大切なことで体罰じゃなければダメだと思ったら、そのときは口よりも手がとぶと思う。同じことが、塾生にもあるかもしれない…。そのときに、もしも自分が恨まれるとしたら、それは体罰を恨まれるというよりも、それまでの指導の過程と人間関係にあるのかもしれない。




今回の大阪の事件において、体罰する教師を擁護する声がいくらかある。報道で堂々とそれはしないまでも、言外の含みでわかる。しかし、この先生は他の生徒との関係で間違いがなかったとしても、当該生徒との関係では、残念ながら間違っていたわけである。生徒が自殺という結果を踏まえれば、その責任は大きく、というか取り返しがつかない。



いろいろ考えて、自分は体罰が肯定される場合があると思った。ただ、それは体罰をする者と受ける者との間に、それなりの関係がなければ無理だと思った。あれば体罰にならないし、なければ体罰といわれても仕方ない。ある意味、セクハラなんかと似ているところがある気がする。




さて、私も大いに反省しなくてはならない。つまり、自分の教育者としての心構えについて、である。塾生たちを目の前にして毎日すごしていると、すぐに忘れ去られる原則であるが、毎日授業前に思い出さなくてはならない。


子どもたちは、全員自分の子どもと同じように、自分の子どもだったら言うべきことを塾生にも言わなくてはならない。一生涯の付き合いだと思って、塾生に接しなくてはいけない。


今までそれができていなかったことを、痛烈に反省しなくてはならない。

体罰を振るう先生は、死んだほうがいい、と思う。ハッキリ言って。



私自身、何度体罰を受けたかわからない。小学校では、竹刀でおもいっきり頭を殴られた。相当大きなたんこぶができた。中学二年と時は、一度に20発近く平手で殴られたことがあり、高校生の時は体罰の他、地獄のようなしごきを受けた。



今これらを思い出してみて、いい思い出なんかある訳がない。別に自分が何か人の道を踏み外したとか、相当悪いことをしたわけではない。学校の帰りに買い物をしたとか、練習中にしゃべっていたとか、そういうのが理由だった。


…本当、不愉快でしかない。



中学のときは、それ以来二度と部活に行くことはなくなった。高校のときは、一年で部活をやめた。たかがクラブ活動ではあるが、信じられない奇行の連発で、こちらの性格がおかしくなりそうだった。



体罰は、やはり罰でしかなく、これを愛のムチなどと言うのは、コトバのごまかしでしかないと思う。



というか、子ども相手に体罰どころか、怒鳴る奴も頭おかしいと思う。怒鳴るというのは、自分が感情を抑えられずにギャーギャーとわめくことだが、そういうのもやめたほうがいい。叱る、はあっても、怒る、のは良くない。そのくらい、自分をコントロールして生徒と相対するべきだ。



とにかく、いかなる場合であっても、教育の場において体罰は肯定されない。




それにしても、日本にはアホな先生が多過ぎるんじゃないかと思う。愛媛県にも、本当にアホでアホで仕方ない先生が一杯いると思います。


自分も相当アホな部類だと思いますが、自分がかすれて見えるくらい、周りがアホです。


で、アホな先生がいたら、周りでなんとかしてあげればいいのに、周りも何もしないわけですね。これは、本当に始末が悪い。



私が思うに、子どもなんて純粋なものです。しかし、大人の方が往々にして、性格がひん曲がっているというか、人格障害者が多いんじゃないか、と思います。学校って、結構子どもにとって残酷で理不尽な組織になりうるんじゃないかと、気を付けねばと思います。

英数塾DJでは、英語の構造を教えていますが、構造というと何か堅苦しいイメージが先行してしまうので、これからは「リズム」ということにしようかと思っています。



何事も人の心にどう影響を与えるか、人にどう思われるか、というのは大切なものです。心理学的要因というのは無視できません。


リズム、と言った方がずっとわかりやすい気がします。子ども受けしやすい気がします。



僕らは日本語をしゃべっていますが、やはり日本語を話すのもよくよく考えれば、リズムよくしゃべっていると思いませんか?


助詞を用いて適当なところで区切りをいれながら、リズムを保ってしゃべっている。そして、リズムを頼りに聴き取りもする。そう、リズムがすごく大切です。



一方、英語は、並び順が日本語よりもかなり厳格に定められており、そのせいか日本語よりも単純な感があるのですが、英語は助詞がなく、さらにリズムが大切な言語じゃないかと思うのです。


ただ、どうリズムを定めるか、という点において、やはり構造を把握する力が必要になってきます。語彙力を増やし、そして英語の構造とパターンに慣れてしまえば、英語はかなりリズムにのって理解できていく気がします。



センター試験の速読・速聴、ともにリズムにのって読めるかどうかで、スコアは大きく変わってくる気がします。



現在、高校1年生と2年生には構造ドリルを繰り返しやらせていますが、いずれこれに只管朗読の要素を加え、リズムよく読めるように、ドリルのやり方を更に改良していきたいと考えています。



とにかく、リズムが大切。英語をリズムで読むための構造!


最近そんなことを考えていました。




新年あけまして、おめでとうございます。


今年もよろしくお願いします。



新年は、護国神社の凛とした空気の中、スタートしました。合格祈願、そして、塾生の健康、家族の健康、地震と戦争が起こらないこと、などを祈ってまいりました。



この一年は、自分にとっては新たなチャレンジの年です。いろいろな意味で自分を強くしていかねばならないと考えています。そして、塾も、今までとは違う格調を求めて、良い塾運営をしていかねばと思っています。



みなさん、頑張ってこの一年やっていきましょう。



さて、こんな記事を見たので紹介します。長いので、一部抜粋です。



早稲田は正論だけど平凡?“飛んでる”慶應は才能重視?

Business Journal 1月4日(金)7時19分配信

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130104-00000301-bjournal-bus_all  より引用



●受かる生徒と落ちる生徒

ーー大学に受かる生徒と落ちる生徒の違いは何でしょうか?

西谷 2つありますね。ひとつは精神面。受かる生徒は、2学期になると「絶対受かる」という気持ちが形に表れてきます。「意志(Will)が未来(Will)をつくる」という意味での「Will」ですが、意志未来が単純未来に変わってくるのが9割くらいですね。「なでしこ」と同じで、意志が強くなると成果に結びつきます。

 その意志は、不況ですから、東大や早慶に入学して大企業に入らないと「良い仕事に就けない」という恐怖もあるでしょうし、「友人が合格したのに、自分が浪人でいるのはイヤだ」というライバル意識もあるかもしれません。しかし、本当は内的動因が「end」=「目的」につながっているかが大切で、強い気持ちを持っているかですね。

 それから、技術面があります。まず、自分の現状、偏差値を「見たくない」という人もいますが、自分の現状を分析します。次に敵の分析です。これは2学期ですが、志望大学の入試が何を求めているのか分析する。これを可能にするのが、それまでに培った基礎力です。客観的に見るツールはこちらが用意します。

 ビジネスと同じで、その後、5カ月で自分の現状と敵の求めとの差を埋めるために「何をすべきか」計画を立て、あとは階段を上るように一歩一歩進んでいきます。

 この2つができてくると、受かるかどうかは見ていてある程度わかります。落ちる生徒は、自分がなく、周囲に振り回され、踊らされる人です。そういう生徒は自信がないのか、大げさなことを周囲に吹聴しますね。11月頃スランプに陥るのもこのタイプです。精神面の充実と技術面が合わさった時、9割程度の確率で合格の可能性が出てきます。それは、「Will」(単純未来)の確率でもある。



以上、引用終わり。


面倒くさい表現を使っていますが、簡単に言ってしまえば、精神面と技術面を磨け、ということでしょうか。


「自分は合格する」という強い気持ちを持たなくてはダメです。これは基本です。自信をもつ、というのはすごくシンプルなコトバですが、とても難しいものです。なぜなら、根拠があまりないから。「ただ、信じる」、というのは、実は根拠のないことで、なかなかできないものです。


ただ、落ちる、ということも、マジメに勉強して全力で頑張っても絶対に落ちるか、ということにも、根拠はないですよね。みんな、受験する前に勝手に「自分はダメだ」って判断してしまうのですが、これは間違い。だったら、「自分は合格する」という勘違いの下で、勉強しているほうが、遥かにマシです。


あと、技術面について。「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず。」です。そして、計画的に勉強していくこと、です。



塾ではくどいほど言っていますが、……、行動につなげられているかというと、自分の実力不足を感じます。


塾生の中で、高2全員と高1の一部には、センター同日模試を受験するように言っています。また、2次試験の問題も、今年のものを必ず見ておくように言っています。まずは、敵を知ってください。そして、その問題を見て、「あと1年という制限時間の中で、合格最低点を取れるかどうか」を自分で冷静に分析し、そのために足りないことを全て自分で把握してください。



それができない人は、不合格に近づきます。




さて、昨年末に、高校生1人と中学生1人に、こんな話をしました。


「なぜ、社会主義ソビエトは、資本主義アメリカに勝てなかったか」




ソビエトには、「ノルマ」というコトバがありました。ロシア語です。そして、労働者は「ノルマ」をただこなしていただけだから、ダメだったのだ、と。だから、勝てないに決まってるじゃん、と伝えました。



当時、ソ連では、工場でできる靴がノルマ通りにできました。でも、ノルマ通りに出来た靴が、履けない、ということが多々有りました。要するに、履けない靴なんかを何足も作ったりするわけです。


履けない靴だけじゃなく、靴下、手ぶくろ、なんだってそうです。だから、ノルマ通りに作った製品がおよそ使えないわけです。使えるにしても、質の悪いものばかり。


資本主義ではどうか。こんなものは、小学生でもわかることですが、売れませんよね。だから、直すかなんとかします。ここでは、ノルマ通りにやって数さえできればいいなんて発想はダメだってことはわかりますから、当然履けない靴は直して、その上でノルマ達成となるわけです。



ソ連では、労働者はノルマさえこなせばいいのです。中央からの指令が来て、100足作るように、と言われれば、100足作ればいいのです。それが、ノルマです。で、質なんかどうでもいい。とにかく、「100足作ること」がノルマ。だから、左右で大きさが違う靴ができようが、少々穴があいていようが、とにかくノルマをこなす。それが大切。で、ノルマが終われば定時に帰宅です。あとは、家で酒でも飲んでいればいい。



「マジメに働いても、適当に働いても、給料は同じ。だったら、ノルマさえやればいいんでしょ。やりますよ、やればいいんでしょ、やれば。」



もう、説明はいらないと思います。つまり、上のような発想を、君たちももし持っているようだったら、ソ連と同じく崩壊です。



こちらから、英語力をつけるにあたり必要不可欠なことを指示しています。そして、構造を見極めるためのドリルをあたえ、冬休みの課題をどう終えるかの計画も立てたりしますが、



これを命令と考えて、ノルマをこなせばいい、とにかくやりさえすればいい、などと思っていたら絶対にダメです。



塾の命令を、ノルマにしてはいけません。自分で、なぜこの命令が来ているのか、どうやればいいのか、全て、「自分のため」という価値観に置き換えてください。



目的はなんですか。受験で合格することです。合格するために、自分にとって必要なことは何か、それを強くもち、その方向性に塾がなかったら、やめればいいんです、やめれば。



社会主義の労働者のようになってはいけません。自由主義経済の経営者のように、学びなさい。



以上です。新年の挨拶にしては長くなりましたが、大切なことですので、よく吟味しておいてくださいネ。


離婚しましたー。



有名人でもないけど、ブログで離婚報告します。



すみません、今までウソついていたわけではないのですが、ただ、自発的に離婚しましたとか、そういうのを言うタイミングはなかなか初めてなものでよくわからず、ブログで言ってしまうのがラクだなぁ、と思い、ここに書きました。




まぁ、大したことじゃ、ないです。かなり、どうでも良いことだと思っています。


子どもには会おうと思えばいつでも会いに行けるキョリにおりますし。



なお、復縁・再婚はないですね。興味ないです。


子どもよりも大切な価値観は持ちたくないと思っていますし、また、結婚に責任を持てないですし、というか、一人になったことの開放感のほうが大きく…


人恋しい、というのは正直あるのですが、


まぁ、当分は子どもの成長を見守りつつ、粛々と塾の運営のために頑張っていきたいと思っています。




さて、来年についてですが、


私個人としては、多読、が目標です。


とにかく、多読です。本を読み、多くを学びます。



なんのために学ぶのか、というのも、自分の中ではハッキリしてきました。決して、学問のための学問にはしません。社会に還元するための学問であると思っていますし、その実践をすることで、塾生の範たらねばと思っています。



本当の教育というのは、プロの仕事を見せること、というコトバを聞いたことがありますが、


自分はその自分の有様を見てもらうことも、教育であると思っています。


英語を教えている時の自分もそうですが、


それ以外でも自分は教育者であるという自覚のもとに行動していきます。





「おもしろきことのなきよをおもしろく」


このコトバを座右の銘に。




護国神社の凛とした空気を浴びて、来年もまた新年のスタートを切りたいと思います。


来年もまた、皆様よろしくお願い致します。


Jive Talk


本日は、今上天皇、79歳のお誕生日です。おめでとうございます。




さて、今日は塾生たちに向けて、ちょっと皇室のお話でもしようワイ。





先日、ブログにも書きましたが、競馬・天皇賞(秋)での出来事。勝利ジョッキーのミルコ・デミーロ騎手は馬からおり、貴賓室におられた天皇皇后両陛下に膝をついてご挨拶しました。


イタリア人のジョッキーですが、素晴らしいですね。これが、外国での他国の王室に対する態度なのかと、感動しました。どこかの国の大統領の物言いとは、天と地の差がありますね。



でも、もしもこのような挨拶を日本人がやったとしたら…、どうだったんでしょう。



「あいつ、右翼や…」



なんていうレッテル貼りで終わるのが、なんとなく予感出来てしまいます。



すごく情けない感じがしてしまいました。



今日も塾にくるまでの間に、日の丸はほとんど見られません。見たのは、路面電車の先頭と、愛媛銀行だけ。日の丸を掲げる家が本当にありません。




なんというか、天皇を論じるとか、国旗を掲げるとか、そういうので冷めた視線を感じるというか、そういう空気が出来てしまっている気がして、残念です。



ちょっと、塾生の皆さん、考えてみてください。



皇室は、ありがたいと思いませんか?



私としては、日本の内閣総理大臣がコロコロ変わりますが、本来これはトンデモないことですよね。でも、なぜ落ち着いていられるのか。なぜ、別にどうでもいいことだと思えるのか。


それは、日本の国体までもが変わると思わないから、です。



日本には125代にわたる、万世一系の皇室があり、だから、それが日本の精神をしっかり支えているから、だから大丈夫だと思うのです。安心感が得られると思うのです。



明治維新の時も、終戦の時も、いつだって、皇室を中心に日本があった。皇室があったから、日本はバラバラにならず、そして中国のような暴力革命みたいなものも一切なく、平和で和を重んじる国民性が生まれたと思うのです。



いかなる時代の時の権力者も皇室を敬い、そして皇室は独裁なんかせずに、一人として贅の限りを尽くしたとかそういうおかしな天皇もおらず、日本を守るためにいつも居てくださった。



本当にありがたいことです。万世一系の皇室、これは素晴らしいことじゃないですか…。




私は日本から皇室をとってしまったら、日本じゃなくなる、と思います。


皇室は万世一系であり、これからもそうであるべきであり、だからこそ、女系天皇には反対です。



海外の王室では、自分の国の国王が外国人とか、そういうことはよくある話です。世界史を勉強すれば、いくらでもそういう例はありますよね。


しかし、日本は事情が違います。カトリックという普遍的権威の存在したヨーロッパと、そういう権威が存在しなかった中華秩序が支配していた東アジアは全然違います。日本は中華秩序からすぐに抜け、天皇という普遍的権威の下でやってきたのです。つまり、ヨーロッパという世界と、日本という世界、として語られるべきであり、主権国家単位での話はできないということです。



まぁ、そんなわけで、


本日は天皇誕生日。



これからも、御公務大変だと思いますが、お体を大切に。

印象に残る映画で、名作だと思いました。


これは、傑作です。。。



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ところで、学校というのは、洋の東西を問わず、似たようなところかもしれません。


映画の途中で、「そういえばこの前、愛光に手紙を出したけど、それに対する返事が来てないなぁ」と、ふと思い出した次第です。



前のブログのエントリーを見てもらえたら詳細は分かっていただけると思うのですが、


「スコアの悪い生徒の答案を放り投げる先生がいますが、それに関して貴校はどのようなお考えでいますか?」


というようなことを書いたわけですが、


いつだろう、もう3週間前くらいに書いたのですが、返事はどうやらなさそうですね。




この映画に出てくる学校と愛光が、見事に重なりました。


うちの子どもは、愛光には行かせたくないですね。


まぁ、子どもの自由な意思に任せますが、


親としては、なんとしても愛光へ、という考えは微塵もないです。




例えば、スコアの悪い生徒の答案を毎回床に放り投げ、床から拾わせる先生がいたら、


教え子の魂が腐ると思いますね。


同僚の先生や、上司の先生が注意してあげればいいのにね、って思いますが、


無理な注文はしても仕方ないものです。


これ以上、関わるヒマはないです。




私はキーティングのような教え方は全くできないかもしれませんし、


詩を解する心も彼の百分の一かもしれませんが、


彼の考えに100パーセント賛同できます。




生きていくのに純粋な気持ちを持つよう、


子どもたちを指導していきたいと思っています。



“Carpe diem” (その日を摘め


とてもいいコトバですね。

愛媛新聞の1面に、地軸という名のコラムがある。が、今後、地軸などという名を名乗るのは、やめたほうがいいと思う。なぜなら、世の地軸は、あなたたちじゃないから。


以下、2つ引用する。



2012年12月08日(土)パールハーバー

 ハワイのオアフ島にある真珠湾。停泊していた米国海軍の太平洋艦隊を、日本海軍機動部隊の艦載機が攻撃したのが71年前のきょう。陸軍もマレー半島に上陸し、太平洋戦争に突入した▲  やれと言われれば半年や1年は暴れてみせる。だが2年3年となれば確信は持てない。開戦前に、連合艦隊の山本五十六司令長官はこう語っている。言葉通り。半年後、ミッドウェー海戦で大敗し、敗戦への道をひた走る▲  ハーバード大に留学するなど米国の国力を熟知。当時の情勢を分析し日独伊三国同盟に反対、軍縮条約を尊重する「条約派」として最後まで開戦にあらがった山本長官。だが、結局は自らも混乱と破滅の渦にのまれてゆく▲  英米やオランダが敷いた経済包囲網への対抗措置。植民地化されていたアジア解放の手段。のちにいくら解釈を重ねようが、戦争という歴史の暗部を正当化することはできない▲  しかしその「闇」が今、亡霊のごとく日本を覆いつつある。平和の礎であるはずの「非武装の誓い」が「反核の原則」が、さらには平和憲法までもが「抑止力」という、えたいの知れない亡霊に悩む▲  衆院選さなか。国家安全保障基本法制定、自衛隊増員、海防力の強化―。まるで現代の軍拡競争のような公約が並ぶ。威勢のいい言葉が過去に何を奪ったか、思い出したい。71年前の過ちを二度と繰り返さないために。



2012年12月09日(土)ほんに困った

 第21回衆議院選挙が行われたのは、太平洋戦争開戦の翌年、1942年4月。東条英機内閣が露骨に選挙介入した悪名高い「翼賛選挙」だ。戦争遂行に都合のよい候補者を大量に仕立て当選させた▲  有権者はいい人を選びたいが、東条内閣と一体の「翼賛政治体制協議会」が推薦した候補ばかり。隣組を通じ投票に駆り出されても書きたい名前がない。各地で「戦争イヤイヤ」などと落書きされた多くの無効票が出たそうだ▲  「投(い)れねば恥だし、投れるに人なし、ほんに困った翼賛選挙」とか「選ベドモ選ベドモ苦シム国民誰ガ知ル」とか。当時の政府文書を調べた作家の稲垣真美さんが民衆の抵抗の言葉として著書「もうひとつの反戦譜」(三省堂)に採録している▲  70年後、今月の第46回衆院選挙を覆う気分と似ているような気がする。「一票に築け大東亜共栄圏」といった標語も翼賛協議会もないのだが▲  「日替わり公約、離合集散、戦争好きそうな人もおる。より悪くない人や党を選ぶことになるんかねえ、悩むねえ」。忘年会帰りのタクシーで、運転手さんのぼやきにうなずいた▲  それでも、選ばなくては。脱原発をどう現実にするか。消費増税や環太平洋連携協定(TPP)は。そして憲法は。現代の選挙だ。権力に介入される恐れもない。「イヤイヤ」で終わらせず、次の世代に何を残せるかを、考えて。



以上。


要約すると、


「いままさに国民を戦争に導こうとしている××党というところがあるから、ここには投票しないでくださいね」


ってところか。



バカじゃねぇの?


としまいには思ってしまいそうだ。



「71年前の過ちを二度と繰り返さないために。」なんて書いて締めくくっているが、まるで日本さえ間違っていなければ、問題なかったかのような記述だ。


なんたるナイーブな歴史観!


日本が善だ、などと言うつもりは毛頭ない。が、敗者であって悪と思うつもりも毛頭ない。


戦争に負けたからもうしません、じゃなくて、次はどうしたら戦争に負けずにすむか、という発想である。これを子どもたちに教えなければ、もう一度空から核兵器が降ってくるだろうな。



3年前、○○党が圧勝したとき、メディアはこぞって○○党を支援していたが、今回はまたすごいね。××党を勝たせまいと必死。



いい加減にして欲しい…



ともかく、本日期日前投票に行ってきました。このオッサン記者(?)の投票行動を相殺すべく投票してきました。




さて、こんなアホなコラムを書いているのですが、もしも××党が圧勝したら、もう地軸なんて名前を名乗るのはやめたほうがいいんじゃないでしょうか、ねぇ。



ちなみに、こんなコラムを信じるくらいなら、どっかの科学のなんとか総裁の遠隔透視のほうが、スゲェんじゃないかって、本気で思いますね。