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ジャズの和声の理論が難しく見える理由

ジャズの和声の理論には常にいかめしいというか難解なイメージがつきまとっています。やれコードだモードだ何やらかにやらのややこしい用語がたくさんありすぎて手に負えないという人も多いのではないでしょうか?

私は独学で、しかもコードネームを覚えるとかいう以前に耳で全部判断していたのですが(いまだにコードネームを読み書きするのは苦手です)、よほどの難曲でない限りあまり困ることもなく、30過ぎてから本を読んで大枠は理解した、という感じです。アヴェイラブルノートスケールみたいな用語の意味は知りませんが困りません。

今ある結論はジャズのアドリブは「シンプルだけど奥が際限なく深い」ということです。決して難解だとは思わないのです。なぜ世間の人には「難しい」と見えてしまうんだろうかと考えつつ、自分が教えるときにシンプルで説得力のある説明をするにはどうしたら良いかをあれこれ考えてきました。

 

世界中の様々な民族音楽などを聞いていて気がついたのですが、ユーラシア大陸の民族音楽はスケールに縛られているんです。つまりモードミュージックなんです。ざっくり言うとヒマラヤから東は5音音階が主流で、中近東やインドでは微分音を含む多くのスケールがあり、ヨーロッパに入ると7-8音スケールが主流になります。スケールは厳格に指定されていて、そこからの逸脱は許されないのです。私たちが学校で学ぶ音楽、すなわち西洋音楽の理論はイタリアからドイツあたりにかけての民族音楽がアカデミックに発展したものだと思われるので、中学校くらいで学ぶ長音階と短音階の成り立ちや機能性を理解する必要があります。が、ジャズの理論を勉強しようと言う人の大半がここがお留守なのです。しかも困ったことにジャズの理論では西洋音楽の基礎になっているスケールを土台にしながら「スケールに存在していない音を使うことができる方便」を書いているので、土台になっているスケールの知識が不十分だともうそこで路頭に迷います。ジャズの話声の理論が複雑化するのは1940年代、すなわちビバップ以降です。それまでのジャズの和声はクラシックのものに忠実なものが多いのです。ソロのスタイルを見ていてもビバップ前から活躍しているいわゆる「中間派」の人たちのフレージングとビバップ以降の人にははっきり違いがあります。知識の土台がしっかりしていないのにいきなりビバップから入ると混乱するのではないかと思えます。アドリブの習得プロセスは外国語会話のそれと同じなので、間違えようが何をしようが実際に音を出さないと上達しません。その間違え方さえその人の個性なのに、恥ずかしがったり躊躇したりして練習しないからいつになっても上手くならないんです。草スポーツや囲碁将棋などのゲームではどんなにヘボでも人前でやれるのに音楽や言語などの自己表現メディアで躊躇しちゃうと言うのが多くの日本人に有り勝ちな現象です。そんな意識は捨ててしまった方が良いです。それができた人ほど上達が早いです。

 

まずはピアノの白鍵のスケールでできること、スケールから派生する和音の機能性を確認することから始めると良いと思います。私がジャズのあれこれを学ぶ過程で非常に強く印象に残っている言葉を3つ並べておきます。

 

Think key, not chords. : Mark Levine

Every chord comes from scale. : Barry Harris

Musical universe is in inside. : Carl Saunders

 

インサイドを理解しないでスケールアウトしたいとか本末転倒なんですよ。

音量と音質

個人的な感覚として、日本の非クラシックな音楽の現場の音量のデフォルトは欧米に比較して大きすぎるという印象を持っています。

アコースティックな楽器にはダイナミクスによって様々な音色があることが忘れられているような気がするし、ラウドに吹くとフレーズがガサツに聞こえてしまうんです。ライブの現場に行けばPAで音が作られていることが多いし、家で聴く分には自分の好きな音量で聞けるわけですが、それがために「どれくらいの音量で演奏されているか」を聞き落としてしまうのではないかと思えるのです。幸にして何人かの巨匠とお手合わせさせてもらいましたが、実に抑制の聴いた音で、「あ、これでいいんだ」と感じることが多かったです。mpくらいをデフォルトにしておけば十分ではないかと思います。

改憲論者こそお花畑。

戦争に負けて80年目でした。勝てないことがわかっていながら権力者の暴走で戦争を選択し、結果として多くの国民の命を奪い、食糧難などで国民を艱難辛苦のどん底に陥れたのだから、国が国民に謝罪するのは当たり前なのです。

 

今年の選挙では改憲を謳う極右政党が議席を増やしましたが、彼らの案文は憲法の体を成していない稚拙なものですし、近代国家のデフォルトである国民主権や基本的人権を削除した19世紀のような憲法を提唱し、困ったことに何も考えていない支持者がそれを支持するという構図になっていました。

 

日本国憲法の戦争放棄は、1927年のパリ不戦条約で初めて提示された「外交問題の解決手段としての戦争をしない」という考え方を世界で初めて憲法に明記したものです。それまではすべての国の憲法が「外交問題の解決手段としての戦争を容認」していたので、戦争の大義なんて簡単につけられたのです。ところが日本国憲法が戦争放棄を明言したので、第三国には新たな命題が課せられました。すなわち、

「外交問題の解決策として戦争を放棄している国に第三国が戦争を仕掛けることができる大義」を成立させないといけなくなりました。そして戦争放棄を憲法で謳っている日本とコスタリカは憲法施行後一度も武力行使は受けていません。日本はアメリカからの自衛隊の派遣要請を憲法を理由に断っているし(後方支援という形にはなったけれども)アメリカも了承しました。憲法にはアメリカの横槍を拒否することができるだけの強度があるのです。もちろん歴史的に見れば米軍の傘の下にあることも理由の一つではあるでしょうか、憲法そのものが持っている抑止力を改憲論者は全く認識できていません。自民党も参政党も基本的人権や国民主権、戦争放棄など多くを削除しており、評価に値しません。

 

そして改憲論者のもう一つの絶望的な欠陥があります。それは「戦えるようにしたいと考えているだけで守りが全くお留守」ということです。

日本は資源も食料も自給できません。これ、戦前にも言われてたのに権力が暴走して無視した結果多くの命が無駄になくなり、多くの国民が物資不足で艱難辛苦を舐めさせられました。その構図は今も変わっていないというか今の方が状況は悪いと言えます。どんなに武装しても長期戦になったら終わりです。日本は戦争して勝てる国ではないのです。

もうひとつあります。非戦闘員を守る体制。ウクライナでは1000万人以上が国外に避難しています。その多くは「陸路」で避難しました。ところが日本は島国で国境が海で囲まれているので国外避難が極めて困難です。空路や陸路で短期に1000万人以上(ウクライナの人口と比較したらもっと多くなるはず)を避難させることは物理的に不可能です。沖縄戦で国民が巻き込まれた自体が本土の至る所で起こる可能性があります。政治の要諦は「国民の安全と命を守る」ことなので、何かあると多くの政党がこれを連呼しますが、国民の安全を守るなら戦争はしてはいけないのです。やっても勝てません。改憲論者の多くの方々は武装すれば負けない、みたいな勇ましい口ぶりをされる方が多数ですが、それこそ典型的な「お花畑」なのです。今日靖国に行ったら軍服のコスプレの人がいたと思うのですが、あれこそリアルお花畑なのです。地理的条件、資源や食料の自己調達能力、人口ピラミッドの現状などを勘案したら日本はどうやっても戦争できない国です。もし戦争をしたら、若者が兵隊に出されて再び多くが犬死にしてしまうので、国力の低下は避けられません。政治が100年の計を睨んで行われるものであれば、我が国において戦争は切ってはいけないカードなのです。

護憲を言うと大抵の改憲論者から「お花畑」と言うフレーズをぶつけられます。

それ、ブーメランなんですよ。お花畑なのは実は改憲論者であって、軍服コスプレはその象徴なのではないかと思えてなりません。