ジャズだってクラシック化しても構わない。
昨日渋谷でライブをしました。セットの合間にお客さんのドイツ人の方と話をしていて「残されたアレンジをきちんと再生することもやらないと、ジャズという音楽スタイルは残らないので、クラシックがそうであるように既存のアレンジをきちんと演奏することもまた大事」みたいな話をしたら共感されました。もちろんオリジナルをやることも大事。それと同じくらい過去のものをきちんと回顧することも大事。それが再確認できました。
ジャズ界における「コピー」という言葉の使用にある誤謬について考える。
ジャズ界というのは不思議なところで、いわゆるスタンダードの使い回しには誰も違和感を持たないのだけれど、ビッグバンドなどで過去のアレンジを使うバンドは「ゴーストバンド」もしくは「レパートリーバンド」などとアメリカでは言われるし、スモールコンボで過去の録音のために書かれたアレンジを流用することもポジティブに見られることが少ないように感じられます。レコード会社も「新しさ」とか「オリジナリティ」みたいなことを全面に押し出す傾向があります。
個人的にはこの世界で使われる「コピー」と言う言葉に違和感というか恣意的なイメージを持ちます。
何度も書いてるテーマですが、音楽は「音のデザイン」であって、時代やスタイルを象徴するものだからです。そしてそれはビッグバンドのアレンジはもちろん、スモールコンボのアレンジも同じなのです。ジャズの場合、アレンジは使い捨てになるものが大半ですが、アレンジもまた音のデザインであり、例えば1950〜60年の音楽のスタイルを回顧するならば、そうしたヘッドアレンジも意匠として大事にされるべきだと思うのです。演奏者が違うから全体としての音楽は過去の焼き直しにはならないのです。ベニー.ゴルソンの書いたテーマのアレンジはそのまま演奏しないと「ゴルソンハーモニー」にはならないのです。リアレンジしたものはゴルソンハーモニーではないのです。ことほど左様にアレンジは時代や作家の個性を表現するし、そこは大事にされるべきなのです。でもなぜかそこが忘れられてしまうのです。クラシックにバロックや印象派など様々な呼ばれ方があるのと同じでジャズにもスイング、バップ、モードなど色々な呼ばれ方があります。書かれた譜面のある部分については「再生芸術」な部分は認められるべきだと思うのです。古いオリジナルの録音でしかそのサウンドデザインを楽しめないのであれば、そのスタイルは残らないのです。
チャーリー.パーカーの録音を全て採譜してその通りにやるのも大変ではありますが、それはジャズにはなりません。しかしながら作品として「書かれた部分」と「即興の部分」は分けて考えられるべきでしょう。ビッグバンドもクラシックのプログラムのように時代やスタイルを勘案したプログラムで古い時代のものも回顧されるべきなのです。新作しか演奏しないで古い譜面はアマチュアに任せるみたいな状況であれば、音楽のスタイルは残らないでしょう。
ジャズにおいて「作曲者が書いた部分」を演奏することは「コピー」と呼ぶべきではないと思えてならないのです。
Speak Like A Childに見る音楽のデザイン性について
アメリカ文化ゆえなのか、ジャズのアレンジの大半は使い捨てなのです。音楽は音のデザインなので、1950年代には50年代のデザインがあるわけです。そこは尊重すべきだ、と考えるのです。書かれたところはきちんと再生して彼等がイメージした音の世界を再構築するけど、ソロパートは全然違うものになって構わないはずなのです。ジャズがアメリカンオリジナルアートフォームであるならば、既存のアンサンブルを再生する意義はあるし、それがなければ「古典」にはならないのです。「古典」をおろそかにした伝統芸能はあり得ないのですから。
