music-geek -102ページ目

時代遅れの参考書で英語を学ばされている日本人の悲劇。

以下、自分で日本語の参考書と英文の参考書を並行して英文法の学び直しをしている自分の見解です。

 

日本語では述語になる品詞は「用言」と呼ばれていて動詞以外の品詞が述語になり得ます。形容詞、形容動詞、名刺+助動詞が述語になれます。他方、英語を含むいわゆるインド=ヨーロピアン語族の言語では述語は必ず「動詞」です。つまり、日本語で述語が動詞以外のものは欧米言語では述語のない不完全な文になっています。だから文として成立させるにはbe動詞が必要になります。ということは、be動詞は「日本語にないシステム」なのです。中国語でもそうなので、昭和の中国人のアニメキャラが「私中国人アルよ」ってなるのは中国語の「我是中国人」という文の「是」の字が日本語だと浮いてしまうので「アルよ」に転嫁されるのだと推測できます。

翻って英文法を見てみると最初にbe動詞が出てきます。いきなり「日本語にないシステム」から説明されるのです。英語は言いたいことを先に言う言語、みたいな性質を持っていますし、主語述語を先に言うと言う仕組みを体感するならば述語が動詞(英語で一般動詞)と言われるやつの文を先に学んだ方が入りやすいはずなのです。でもそうなってない。

なぜそうなのか、と言うと古くからイギリスで書かれている英文法の参考書はbe動詞から始まるから、と言うのが理由のように思われます。でも、イギリスで英語を勉強したいと思う人のターゲットはヨーロッパの国々の人がメインなのではないでしょうか。ならばその国々の言語の述語は動詞であるはずです。つまりドイツ語であればIch bin Japanische.のIch binがI amに、スペイン語であればYo soy japonesaのYo soyがI amに置き換わるだけだから簡単に理解できるんです。でもこれは日本語にないシステムだからいきなりこれだと壁になりやすいと思うんです。

自分の知る限り、英語の文法の参考書は1970年代半ばから現在までほぼ一言一句変わってないことから、おそらくは戦後に一度も改訂されていないと思われます。1935年の谷崎潤一郎の文書読本での文面を見るに、戦前から変わっていないことも推測されます。おそらくは明治の時代に日本語の参考書を作った方の労力は大変なものだっただろうとは思うんだけど、この文章構造の差異を認識して編集したかと言うとおそらくそこまで手が回らなかったのではないかと思えます。そして現行の英文法の参考書でも「状態を表す文」についての文法の説明が絶望的にヘタクソというか言葉足らずになっています。分詞の説明とか目的格補語の説明の捌きの悪さとかもう絶望的です。これが100年以上見直しされず、十年一日でこれで学ばされると言うのは日本人にとって不幸なのではあるまいかと思われるのです。

 

文部科学省は日本人が英語を使えるように、と躍起ですが、100年以上も前に原型が作られてから一度もアップデイトもされてないマニュアルで学べ、と言うのが不合理だと思います。 使える英語を身につけるためという名目で英語の学習が小5からになりましたが、そもそも国文法の学習が小6以降なのですから、文法的な説明などできるわけも、この年次の子供にそれを理解する論理的思考力が全員に備わっているわけもないので、小学英語なんか全く意味がないのに、中学になるといきなり文法の詰め込みが始まるのが今の学校英語の実態です。2年やってるから分かってるよね、っていう前提でこんなのでは英語嫌いが増えるだけだし使える英語なんて無理です。しかも参考書が誤謬だらけ。語族の違う、つまりルーツの全然違う言語を外国語として学ぶのであれば、その言語構造の違いを認識して編集された文法参考書があってしかるべきなのにそれがない。これは言語学者の怠慢なのではありますまいか。

 

 

日本の非クラシックな音楽でのPAの使い方ってどうなんだろう?

先日都内某所でビッグバンドのライブを見てきました。日本有数のバンドなので音楽のクォリティは本当に素晴らしかったのだけど、気になる部分が一つだけありました。それはPAの使い方。特にピアノとベース。私は日本にあるジャズのライブハウスのサイズであればPAやアンプ(ギターは除く)は不要と考えているし、去年はビッグバンドでも一部の曲(全部ではなかったと思う)でウッドベースを生音でやってきちんとサウンドさせることができたので余計にそう感じたのかもしれません。生の音楽の現場では音の定位って大事だと思うんです。クラシックのオケであれば弦楽器の並びにはいわゆるアメリカ型とドイツ型があって、並び方だけで聴こえ方はかなり違うはずなんです。そう言えば随分昔にマイルスのBorth of the Coolの譜面を再現した時も管楽器の並びで音のバランスが全然変わったことを思い出しました。それくらい楽器の配置って意味があるのに、ライブの現場ではベースの音が左右両方のスピーカーから出てるんです。個人的には上手からも下手からもベースの音が聞こえることに「ん?」ってなりました。それとベースについてはもう一つ。アルコのソロになると弦の響きを拾いすぎてギシギシした感じになって、ウッドベース特有の大きな木の共鳴体を生かした箱鳴りのする暖かい音が完全に死んでるんです。私はマイクやアンプについての知識をあまり持っていないので、ピックアップマイクで拾うからこうなるのかもしれないし、楽器の前にマイクを立てると他の音も拾いまくるから良くないのかよくわかりませんが、これがものすごく気になりました。そしてもう一つがピアノ。これもマイクで拾ってスピーカーから薄く出てるんですが、これで楽器そのものの響きを殺してしまったように聴こえました。ピアノという楽器は一つの音に対して確か3本くらいピアノ線が張ってあって、それが巨大な木の箱で共鳴してあの響きが出るわけですが、それと2つのスピーカーという紙の振動装置から出た音と混じって台無しになっちゃうんです。これは実にもったいなかった。演奏のクォリティが素晴らしいだけに個人的にはこれが返す返すも勿体無く感じられました。

 

私が生演奏の現場で人工的な音量増幅をあまり好まないのは、リハーサルの時に作ってるサウンドのバランスが会場できちんと担保されるのかがわからないからです。メル.ルイスがバンドサウンドのバランスの作り方について語った金言で「もし全員の音が聞こえてなかったらそれは自分の音が大きすぎるということ。全員の音が聞こえる状態であれば、それはバンドスタンドでも客席でも同じであり、これはカーネギーホールでも場末のレストランでも常に同じこと」というのがあります。人工的に音量を持ち上げるのであればこれを前提にした上でやるべきではないかと思うのですが、この視点が日本の非クラシカルな音楽の現場では抜け落ちているのではないか、と。他の人がどう考えているのかわからないけど、この部分は自分では大事にしたいな、と思うのです。バンドリーダーが自分のバンドのサウンドバランスを人為的に弄られて自分のイメージと違うものにされるのを私は容認できないのです。出来上がっているバンドサウンドを会場の規模に合わせてそのバランスを保ちながら持ち上げるのであればそれは許せるし、小野リサさんのバンドはそれでした。ジャズの現場での人工的な音量の増幅には長年説明し難い違和感を感じていたのですが、5年前に幸運にも参加できたバリー.ハリスのラージアンサンブルのリハーサルで、ビッグバンド+コーラス+ストリングスという編成(その日はギターはいなかった)で誰もアンプを使わずに生音で綺麗にアンサンブルさせるという現場を経験できたことが大きな確信となりました。これって演奏家自身がもう少しセンシティブに考えないといけないことなのではないかなぁ、と考えています。

 

ちなみに去年やったビッグバンドのライブでギター以外ノーアンプ、つまりウッドベースも生音でやった演奏を貼っておきます。ウッドベースは共鳴体が大きいから案外大きな音がするんですよね。

 

 

動名詞の意味上の主語に対する気づき

いい年をして英文法を学び直しをしているのですが、高校英語の動名詞の項目での意味上の主語ってのが所有格でも目的格でもどっちでもいい、ってのが長年謎でした。主格は入れられないからどっちでもいいってこと、くらいに考えていたのですが、なんとなく文法的に掴めたので備忘録として書いておきます。

I insisted on going New York alone.

これは第3文型で、ニューヨークに一人で行くのを主張してるのは「私」です。これを
I insisted on his going New York alone.とすると私は彼がニューヨークに単独で行くことを主張しているわけですが、所有格であれば私は「彼の」ニューヨーク単独行を主張した、という第3文型の文章であり、目的格にして
I insisted on him going New York alone.とすると第4文型になって私は彼にニューヨークに単独で行くことを主張した、になりますよね。少なくとも自分が読んだ参考書にはこの解説はなかったので、差異に気がついて勝手に喜んでいます。目的格を置く文って不定詞を使った文での第3文型と第5文型の違いにも似てる気がします。
I want to be your girlfriend.
であればあなたのガールフレンドになりたいのは「私」ですが

I want him to be your girrlfriend.
であれば「彼」があなたのガールフレンドになることを私が欲しているわけですよね。これに似てる。

日本語で書かれた英文法の参考書って多分戦後80年間ずっと、下手をすると戦前から変わってないのではないかと推測できるのですが、日本語と英語の両方の参考書を並べて読むと書いてあることに誤謬が多くあるように見えて仕方ありません。日本語と英語の間には超えられない大きな溝がある、みたいなことを谷崎潤一郎は1935年の文章読本に書いていますが、溝は溝として認めて(語族が違うのだから当たり前)、既存の参考書にある誤謬を自分で修正して可能な限りシンプルに理解できるようになれたらと考えています。今やインターネット上の共通言語が英語で、いかに平易な表現で相手と意思疎通を測れるか、が重要な時代に80年変化してないマニュアルしか与えられないことが問題なんですよねぇ。