城山砦は恵那の町から国道257号線を南下して上矢作町に入り、さらに少し進んだ漆原地区の城山トンネルの山上にある。この山が城山と呼ばれていることから現地の案内では城山砦となっているようで、漆原城、阿寺砦、明照砦という別名があるらしい。
元亀元年(1570年)に甲斐武田氏麾下の秋山虎繁が三河に侵入しようとし、明知城の遠山景行らがこの地で迎え撃って敗れた上村合戦のときに登場しているとか。今残る遺構からは武田氏による改修が示唆されるとの事。
なお上村合戦には別の「阿寺砦」が出てくるが、これは前田砦の西を流れる飯田洞川を遡ったところにあるらしい。
ネット上で少し調べたが、情報が混乱していて正しい位置は分からず。
三連休の中日、前田砦、岩井戸砦ときてここが3城め、時間も怪しくなってきた…
国道257号の城山トンネルがくぐり抜ける山の上に砦はある。
下から見上げると、てっぺんはよく分からないが中腹に曲輪らしいところがあって、建物が見える。
トンネルの南北両方に登路があるとのことだったが、北側の入口を見つけられなかったし、盛大に工事中のようでもあったので、トンネルを通り抜けて南から登ることにした。
トンネル脇の上の方に案内が見える。
ここから道なりに登ってゆく。
すぐに獣避け柵が現れるが、扉があるので開けて通らせてもらう。
もちろん通ったら閉める。
すぐに分岐になるが、道標に従って左へ。
トバ口から…
斜面をトラバースしつつ登ってゆく道で、整備され歩きやすい😊
左側に大きな竪堀のようにも見える沢を見下ろしつつ、直線的に登ってゆく。
やがて、行く手の上の方に大きな堀切のような谷が見えてくる。
あれが城の南東端を区切っているようだが、左手の谷からは急斜面を登った上の方になる。
登ってみると、これまたデッカイ堀切のような雰囲気の谷だった…😮
底は均されつつ南に傾いている。
下の方は段々になっていて、末端はさきほどから左側に沿っていた谷を堰き止めたようになっている。
ここに何らかの空間を作り出そうとしていたようで、信濃大町・木舟城の城の平を思い出した…🤔
てっぺんまで断面は変わらず、薬研堀の底を埋めたような断面…
主郭へは、このあたりから登る道が出ている。
なお、右手下には2つの石碑らしいものが立ち、その脇から北の方への下り道が出ている。
だがこの日時点では下の方で林地の整備らしい工事が行われていて、休日なら通り抜けられるだろうが、足元が泥濘んで歩きづらかった。
そうでなくても人の家の庭先のようなところを通り抜ける場所もあったりするので、アプローチは南側からが無難なようす。
登道の途中にも何段かの削平地があって、ちょっとした墓地になっているようす。
その一番上まで登り、道標にしたがって左へ。
墓地の上の巾30cmぐらいの細い道が登っている。
覚束ない道のように見えるが、ちゃんと上まで続いている。
主郭部まわりの城塁、凝ってる…
一度折り返してゆくと、前方に…
城塁🙌
道は少し左に膨れつつ、土橋のようなところを渡っている😮
左側は高さ3メートルばかりの段、その下に帯曲輪か横堀らしいものが這っている。
降りてみたが、外側に多少土塁のような盛り上がりはあったが、横堀に見えるほどのサイズは無かった…
ここを西の端まで行ってみると、その奥はよく分からないボコボコになっていた…
この帯曲輪の終端は、麓に向かって落ちる竪堀で区切られていた。
ここはそれ以上奥へ行くと骨が折れるので、上の曲輪に登ってゆく土橋のところに戻る。
その反対側には、曲輪の切岸裾に沿うように横堀が入れられている😮
この横堀へ入ってゆくと、20メートル足らずのところで右に分岐している。
この右側が、これまた一直線に麓へ落ちてゆく竪堀になっている😮
この竪堀、じつは墓地上端の道標のところから水平に直進してゆくと、斜面の上を滑り降りてくるようすを見ることができる。
そのすぐ下で斜面の中に消えている…
さて上の方に戻る。
竪堀を分岐すると一気に浅くなり、帯曲輪のようになる。
さらに先、主郭の方から降りてくる堀切のところで、帯曲輪は終わっている。
その先にも等高線に沿って武者走りみたいなのが走ってた?
降りてくる堀切は、下の方は深いが上の方はさほどでもない?😮
まぁ、あとで上の曲輪から確かめよう…
さて、横堀と竪堀の分岐点外側には、堡塁みたいな小曲輪がある。
その上からは漆原の集落が一望できるが、いまは植林で視界は遮られる…
主郭部の周りを取り巻く防御は、こんなもんか。
では、土橋を渡って曲輪へ登るか💨
(上矢作 城山砦(漆原城) その2に続く)
(2025年3月2日 記)