小俣城は足利市と桐生市の境界からわずかに栃木県内に入った、その名も「城山」山頂付近を占めている。麓には真言宗豊山派の鶏足寺があるが、こちらは大同四年(809年)開創とのことで中世山城の小俣城よりはずっと先輩。
源姓足利氏から分かれた小俣氏が築いたと伝わる。南北朝時代には渋川氏の城となり、戦国時代末の城主は渋川義勝だった。その元亀三年(1572年)には上杉謙信と傘下に降った膳城の膳宗次が義勝不在中に攻め込んできたが、これを斥け膳宗次を討ち取っている。その後の小田原合戦では北条方について敗れ、城も廃されたとのこと。
なお、この城のある、その名も「城山」は、『足利百名山』の第18座になっているとのことだが、この〝百名山〟もともと登山道が拓かれていない山もあるなど低山と侮れない難物が紛れ込んでいるとか…
この日は例によって駐車場所探しに苦労した後、まずは小俣氏の居館跡を狙って、南麓に鶏足寺をスタート地点にした。
寺の南側の水田地帯に、かつて小俣氏の居館があったとのことだが、ココのことか?
昭和初期に開墾されて跡形もなく消えているとのこと…
その西側、自治会館東側の道沿いに、けっこう立派な土塁のように見える土手…
しかし、これは別物のような…🙄
鶏足寺のほうが、よっぽど居館跡のように見えてきたりする…
さて、山城への登り口は、なかなかに分かりづらい。
事前に調べたところでは、南側は鶏足寺の前から県道を少し先、宝珠坊橋の南のたもとにあるということだが、トレイルはハッキリ見えず、尾根に向かって斜面の直登になる。
一般には北側のカタクリ群生地から登る方が、コースが分かりやすく急坂も無い。
県道をさらに北の叶花集会場まで行き、その北側から小俣川を渡る橋を渡る。
登り口は、この柵で仕切られた農道。
すぐに、防獣柵がある。
細い針金を組んだようなやつ。
防獣柵を元通り閉めて登り始める。
少し進むと、ごく細い流れのある沢沿いの道。

この沢沿いにもカタクリが自生しているようで、保護のためかネットでかなりガッチリ区画ごとに仕切られているところもある。
沢沿いをしばらく歩いていると、いつしか細い流れをまたぐようになり、そのすぐ上で流れが分岐している。
ここからは、水の枯れた大きなU字の谷底を登ってゆくようになる。
稜線が近づくと登りも急になるが、トラロープが設えられている。
ひとしきり急登をこなすと、かなり広く平坦な尾根に出る。

ここからは多少のアップダウンがある尾根歩きに変わる。
少し登ると、平坦な小ピーク。
こんな、たおやかな尾根が、進んでゆくとだんだん狭く険しくなってゆく。
そして、最後の登りか、と思うところで…
あれ、堀切だな…🙌
見たところ正面に高さ1メートルほどの段差があるだけのように見えるが、よ〜く見ると裾が少し抉れている。
そして、両側の斜面にちゃんと竪堀を落としている。

この堀切を越えると、いよいよ頂上近しの雰囲気になる。
登りは急に、尾根は細くなって険しい表情になる。
この険しくなった尾根を一歩一歩登り、いよいよ頂上が見えてきたところで、同じような段差が現れる。
さっきの堀切よりさらに分かりにくい第一印象だが、これも横から見ると、確かにほんのわずか抉れている…
微かだなぁ😮
両側に落ちる竪堀も、さらに分かりにくい…
この堀切は、通過して上から見下ろすのが、いちばんそれと分かるだろう。

最初の曲輪は、もうすぐ上にてっぺんのように見えている。
(足利 小俣城 本編に続く)
(2024年12月9日 記)